[#表紙(表紙1.jpg)] 花の図鑑(上) 阿刀田 高 目 次  ハイビスカス  黒百合《くろゆり》  かとれあ  梅もどき  ポインセチア  迎春花  花蘇方《はなずおう》 [#改ページ]   ハイビスカス  バンコク郊外のドン・ムアン空港を飛び立って一時間あまり、南シナ海の上空で機体が二度、三度大きく弾むように揺れた。  機内に息を呑《の》むような気配が流れた。  タイ航空六四〇便、香港《ホンコン》、台北《タイペイ》を経由して今夜遅く成田へ着く予定である。  タイ語に続いて英語のアナウンスメントが聞こえた。だが、声が低くてよく聞き取れない。スチュワーデスが乗客のベルトをチェックして走りまわる。  すぐに収まるかと思ったが、震動はだんだんひどくなる。揺れ続ける。揺れるたびに機体がキシ、キシと耳障りな悲鳴をあげる。  ——こんなところで死んだら、かなわんなあ——  中座啓一郎は通路側の座席で目を閉じ、神経を鋭くして機体の軋《きし》みを計った。  とはいえ格別な知識もない者になにかがわかるはずもない。ただ耳をそばだてて不安を塗り直しているだけのことだ。  事故はいつ起きるかわからない。滅多にないことだが、起きるときはかならずどこかで起きる。それに遭遇した人は「あ、いかん」と狼狽《ろうばい》するうちに、事故が新聞やテレビの中の出来事ではなく、身近な現実であることを知らされる。それがたった今、始まった、と、そうでない保証はどこにもない。  ——ついてない——  そう言えば、搭乗予約券を見たときから不愉快だった。バンコクのホテルで、 「どうしても土曜日のうちに東京へ帰りたい」  と、チケットの手配を頼んだ。  フロントは、啓一郎の依頼を忠実に守ってくれた、と言うべきだろう。だが、あいにく土曜日にはバンコク・東京間の直行便がない。おかげで香港・台北と、ご丁寧に一つずつ停《と》まって帰ることになった。六時間で行ける距離に十時間をかけなければいけない。この四時間の差はつらい。こんなことなら一日待って、日曜日の直行便のほうがいい。すぐに予約の変更を申し出ればよかった。  事故というものは、えてしてこんなときに起きる。そんな気がする。  出張の業務はなんとか無事にこなしたが、タイは猛暑のまっ最中だった。暑気に当てられ、おまけに腹をこわし、六日間の滞在は不調続きだった。体調を崩すと、街の匂《にお》いまでが息苦しく、耐えがたいものになる。ココナツ・ミルクのような、ドリアンのような匂い……。  ——一刻も早く東京へ帰りたい——  そんな思いで搭乗したのだった。  機体の揺れは、あいかわらず続いている。ストーン、ストーンと落下する。軋みも激しい。乱気流の中で、飛行機は薄い紙のように揺れながら、必死にバランスを保っているらしい。  ——ほかのことで気を紛らそう——  機体の無気味な揺れを頭の片方で計りながら啓一郎は、まず法子《のりこ》のことを考えた。  飛行機の運命は機長に委《ゆだ》ねるよりほかにない。クルーにとってこの程度の震動はさほどめずらしいことではあるまい。  ——落ちるものなら、もうとっくに落ちている——  不安定な状態も、五分続けば、それも一つの安定と考えることができる。  ——本当にそうかな——  気を紛らすには、できるだけ刺激の強いことを考えるほうがいい。  法子の裸形《らぎよう》を思った。  ベッドの仕ぐさを考えた。  小麦色の肌《はだ》。軟らかい恥毛。乳房の形もおおむね思い浮かぶのだが、どこかとりとめがない。いつも闇《やみ》の中で抱きあっているせいだろうか。  また機体がエア・ポケットに入ったらしく、大きく落下した。機内に低い悲鳴が漏れる。タイ語と英語のアナウンスメントが流れる。  もし一瞬の最期が来るものならば、せめて脳裏に女の顔を映して死にたい。  ——やっぱり法子だろうか——  もうひとり田川|薫《かおる》を思い浮かべたが、これはあわてて掻《か》き消した。  どうしてこんなときに薫を思い出したのかわからない。最近、時折立ち寄っているスナック・バー�かとれあ�のママ。こんなところに現われる人ではない。  ——二人とも連れてったら、あの世でトラブルが起きそうだし——  馬鹿《ばか》らしいことを考えるのは、まだ余裕のある証拠だろう。  それに……知らない世界に一緒に行くのなら、法子のほうが断然よい。見聞も広いし、頼《たよ》り甲斐《がい》もある。あの世へ行っても、思いがけないところでキャリア・ウーマンの敏腕さを発揮してくれるだろう。  ——虫がいいかな——  法子は「あたし、厭《いや》よ」と、さからうかもしれない。そう言われても仕方のない間柄《あいだがら》だ。  ——ほかの乗客は、だれを心の道連れにするのだろう——  家族だろうか。いまわのきわに映すのは、やっぱり妻や子のイメージなのだろうか。  啓一郎には、それがない。三十五歳で独身。父がいる。妹が二人いる。家族四人で暮らしている。みずから選んでそうしているところもあるけれど、なりゆきとしか言いようのない部分もある。  一番親しい女は……やはり千倉《ちくら》法子だろう。学生時代に知り合ったのだから、もう十数年の交際になる。たとえて言えば、男同士の友人。人生を語り、悩みをうちあけ、励ましあい、喜びあい、そのくせ忙しさにかまけて御無沙汰《ごぶさた》を続けても許されるような親しさ、あれに近い。違うのは、会えばたいてい体を重ねること。友人と呼ぶには異質の部分がある。恋人という表現もなじまない。  驚いたことに千倉法子の面差《おもざ》しが、はっきりと浮かばない。もちろん目とか鼻とか唇《くちびる》とか髪型とか、  ——こんな感じだな——  と思う姿は浮かぶのだが、どことなく頼りない。むしろテレビ・タレントのだれそれのほうが鮮明に顔立ちを描くことができる。前にもそんなことがあった。それを法子に話した。 「あなた、あんまり絵がうまくなかったんじゃないのかしら、子どもの頃《ころ》」  それが法子の返答だった。 「ああ、下手くそだった」  ほかの学科はそこそこの成績をもらっていたが、図画工作だけは苦手だった。 「造形をしっかりと頭の中にプリントするのが不得手《ふえて》なんじゃないのかしら」 「そうかもしれん。あなたは大丈夫か」  法子の職業は……啓一郎も正確にはわからないのだが、ひとくちで言えば文化貿易業。日本のさまざまな団体の依頼を受けて、ヨーロッパの芸術を紹介する。収集し借用し輸送し展示し、そして販売する。芸術と言っても、法子の場合は、絵画がほとんどである。目下のところは、画商に近い。年齢はまだ若いが、敏腕なジャポネーズとして知られているようだ。法子自身、実際に絵筆が執れるかどうか知らないけれど、絵画は職業の一部である。 「そりゃ、まあ、中さんよりはましみたい」  と笑っていた。 �中さん�と呼ぶのが、いつの頃からか法子の言い方になっている。  法子は、いつでもしっかりと啓一郎のイメージを脳裏に映すことができるのだろうか。法子に限らず世間の人はたいてい親しい相手をまのあたりに浮かべることができるものなのか。  法子の声が響く。 「人間て、みんな少しずつ違うと思うの、持っている感覚が。音楽的に鋭い人は、そういうふうに世の中を感じ取っているでしょうし、色彩感覚のいい人は、やっぱり普通の人と違った色合いで世界を見ていると思うわ。昆虫《こんちゆう》が見ているのと、人間が見ているのとは、まるで違うんでしょ。人間同士は、それほどひどくないでしょうけど、それでも微妙に違うみたい。このお仕事をやっていると、よくそう思うわ」  たしかにそんなこともあるのかもしれない。絵の下手な啓一郎は、この世界を、形の面でも色彩の面でも、ずいぶんいい加減なレベルで認識しているのだろう。  気がつくと、飛行機の揺れが少しずつ収まり始めたようだ。機内に安堵《あんど》の息が広がる。法子のことを想像したのは成功だったらしい。  飛行が正常に戻《もど》ると、紅茶とビスケットのサービスが始まった。啓一郎は匂《にお》いの強い紅茶を飲んだあと、少しまどろんだ。次に降下を感じたとき、香港の啓徳《けいとく》空港に着陸するアナウンスメントが聞こえた。  雲海を抜けると、左右の窓に低い山陵が見え始めた。と思うまに右手の山が消え、空を映し、左手の山は麓《ふもと》の赤茶けた岩礁《がんしよう》から海のきわまでを示す。飛行機が旋回し、もう着陸はすぐらしい。  啓一郎は香港を知らない。昨今は、ショッピングのためや、本場の中国料理を食べるためやらで香港を訪ねる日本人も多いらしいが、啓一郎はなんの関心もなかった。たまたまバンコクからの帰り道に着陸するだけのこと。むしろ迷惑なくらい……。航空会社がくれたパンフレットを見ると、啓徳空港には一時間ほど停まっているらしい。  ——香港までのお客を降ろしたら、すぐに飛び立てばいいのに——  床下で脚を突き出す音が響き、窓の外の風景がたちまち草地と滑走路に変った。  ド、ドーン。  重い衝撃が伝わる。本日の操縦士は、中の下くらい。巧みな着地とは言いがたい。タイ語と英語のアナウンスメントが、注意事項をいくつかに分けて交互に伝えている。タイ人の話す英語は、とても聞き取りにくい。今回の出張で何度かそう思った。  一般には、英語国民以外の外国人が話す英語は、日本人にとって聞きやすいものだが、タイ人の場合はどうも例外に属するようだ。啓一郎の英語力が足りないせいもあるけれど、それだけではないらしい。機内のアナウンスメントも微妙に訛《なま》っている。  一時間の待ち時間なら、わざわざ空港ロビーへ降りることもない。啓一郎は機内で本でも読んでいるつもりだったが、アナウンスメントは、全員機外に出てくれ、と告げている。手荷物も持って行ってくれ、と言っている。  笑窪《えくぼ》のかわいいスチュワーデスをつかまえて、 「ここにいてはいけないのか」  と尋ねたら、愛敬《あいきよう》のある笑顔が返って来て、 「いったん降りてお待ちください」  である。仕方ない。ワイシャツの袖《そで》をおとしカフス・ボタンを留め、ネクタイを締め直し、上着を着て、それから本、ライター、タバコ、身のまわりの品をスーツケースに納め、おもむろに席を立つ。身仕度をするのも面倒だったが、  ——一刻も早く東京へ帰りたい。降りたり乗ったりするのは余計な手間じゃないか——  子どもみたいに拗《す》ねていた。啓一郎ひとりが機内に残ったところで、飛行機が早く飛び立つわけではあるまいが……。  空港ビルに続くデッキを歩いていると、数メートル先に女性のうしろ姿がある。グリーンのブラウスに、ピンクのスパッツ。闘牛士のパンツみたいにぴったり脚について、なまめかしい。  ——一人旅かな——  服装の色合いから判断して、タイの人だと思った。  長く伸びたデッキから空港ビルへ。細い改札口を抜けたときには、女の姿は消えていた。機内でも、  ——あ、きれいな人だな——  と思った記憶がある。目で追ったが、もう見えない。  案内係のスチュワーデスに、 「何時に乗るの?」  と英語で確かめた。 「放送がありますから、それをお待ちください」 「ここで待ってれば、いいの?」 「はい。放送がありますから」  答えてはくれるが、もうひとつ要領を得ない。  ただぼんやりと廊下で待っていてもつまらない。廊下の先には待合所をかねたロビーがある。みやげものを売る店やスナックもあるらしい。腕時計は三時過ぎだが、空港の時計はそれより一時間あとを指している。とりあえず空港の時間に腕時計をあわせた。気がつくと、バンコクのホテルで軽い朝食をとって以来、機内でビスケットを一枚食べただけだ。ポケットにドルの小銭が残っている。ロビーのスナックにすわってサンドイッチとコーヒーを頼んだ。  喧騒《けんそう》をぬって案内のアナウンスメントが流れてくる。英語のほかに中国語らしい言葉が加わる。ほかになにやらわからない言葉の放送もある。いちいち聞き耳を立てなければいけない。  ——出発時間から考えて、もうぼつぼつ搭乗が始まるはずだ——  ロビーの壁に大きな案内板が掲げてあって、出発するフライトの情報が、刻々と表示される。  タイ航空六四〇便成田行きは、出発時刻こそ一六時三〇分と予定通り記してあるが、まだ搭乗開始のランプはついていない。  一六時三五分。出発時刻を過ぎても、なんのアナウンスメントもない。啓一郎は廊下を戻って、もう一度さっき降りて来たデッキの改札口付近まで行ってみた。ドアは閉じたままで人の出入りはない。しばらくそこに立っていると、タイ航空のスチュワーデスが現われたので、 「六四〇便は、まだ搭乗しないの?」  と尋ねてみた。 「まだです。放送をお聞きください」  啓一郎の英語もさほど堪能《たんのう》とは言えないし、むこうの返事もたどたどしい。本当に通じたのかどうか、何パーセントかの不安がつきまとう。  ——ほかの乗客は、どうしたのかな——  おそらく三々五々廊下やロビーに散っているのだろう。それらしい顔もいるが、確信は持てない。日本人の乗客は、さほど多くはなさそうだ。苛立《いらだ》っているのは啓一郎だけなのだろうか。  ようやくタイ航空六四〇便のアナウンスメントが鳴った。啓一郎は廊下のすみに立ち、ガラス越しに知らない町を眺《なが》めながら耳をそばだてる。  アナウンスメントの内容は、「タイ航空六四〇便は整備のためもうしばらく出発が遅れます。おってこの放送で連絡いたしますから、お待ちください」  おおむねこんなところだった。  一時間あまりも待たせたわりには愛想《あいそ》がない。  ——なんだ、こりゃ——  憤《いきどお》りが胸に昇って来る。  ——こんな便に乗るんじゃなかった——  直行便を選ばず、香港《ホンコン》・台北《タイペイ》経由の便に乗ってしまったことが、まず腹立たしい。そんなチケットを用意したホテルのフロントがうらめしい。気がきかない。こういうときに限ってろくなことが起きない。  南シナ海の上空あたりで乱気流に飲まれ、機体がキシ、キシと耳障りな音をあげていた。やっぱりただごとではなかったらしい。あのときは、ずいぶん大げさな想像をめぐらしたが、一つまちがえば大きな事故になっていたのかもしれない。  ——あわてて整備なんかして、大丈夫かいな——  こればかりは、せかせて、よい結果の出るものではないだろう。啓一郎があせってみても事態が好転するはずもない。  廊下の椅子《いす》に腰をおろし、本を読み始めたが、すぐに立ちあがってロビーと廊下を往復する。案内板から六四〇便の出発時刻が消えている。「整備のために出発が遅れている」といった意味のアナウンスメントが、三、四回あったあと、次に聞こえて来たのは、 「タイ航空六四〇便で、台北へおいでになるお客様……」  これは別便があるから、そちらへ乗ってください、という指示である。「成田へおいでになるお客様は、そのままお待ちください」と続く。  台北行きの乗客たちが、ほっとした様子で立ちあがり、荷物を持って消えて行く。もう啓徳《けいとく》空港へ着いて二時間以上たってしまった。  ——まいったなあ——  あきらめの気持ちが、怒りを小さくしていたが、そのすきまに今度は疲労が忍び込む。今日だけの疲れではない。バンコク・ベリー、つまり旅行者がバンコクでなま水を飲むと、たいてい腹をこわすのだが、啓一郎も初日からこれにかかって、六日間の滞在は不調続きだった。  さいわいにバンコクを飛び立ったとたんに腹のぐあいは治った。 「あ、そうか」  ロビーを当てもなく歩いているうちに、気がついた。今までどこに隠れていたのか。グリーンのブラウスがスナックの脇《わき》に立っている。  どの空港も平面図を頭に描くのは、むつかしい。とてつもなく大きい。みんな複雑に作られている。いつも同じゲイトから出発するとは限らないし、到着も同じところではない。そのうえ、そうしょっちゅう利用するわけでもない。まして初めて降りた空港は、構造がよくわからない。  啓一郎は飛行機を降りたあと二時間あまり、ロビーから廊下へ、廊下からロビーへ、限られた範囲を苛立ちながらうろついていた。廊下の窓から香港の町が見えないでもないが、そこへ出るためには、入国の手続きを取らなければいけない。  グリーンのブラウスにピンクのスパッツを着けた女も、当然この範囲の中にいたはずだが、啓一郎は見なかった。どこかに死角があるらしい。  タイ航空六四〇便から降りた乗客のうち台北へ行く人は、すでに別便に乗ったはずである。とすると、彼女は成田へ行く客、ということになる。  女は足もとにスーツケースを置き、壁に寄りかかっている。啓一郎は近づき、ゆっくりと前を通過し、それとなく観察した。肌の白い人だ。面差しは、サングラスをかけているのでわかりにくいが、かなり美しい。とても美しい人かもしれない。サングラスの下から、三角の、形のいい鼻が突き出している。腕を草の茎のように体の前でからめている。三十歳ぐらいかな。  もう一度|戻《もど》って、今度は女の近くでタバコを喫《す》った。  女はぼんやりとロビーの喧騒《けんそう》をながめている。時折、束ねた髪のしっぽを掻《か》きあげ、はすかいに視線を送って案内板を見る。ひっつめの髪は、少し茶色を帯びている。  ——染めているのだろうか——  指には、ブラウスの色に合わせた緑色の宝石が揺れている。さりげない旅姿だが、センスはわるくない。目もとの見えないのが残念だ。機内で見たときも、サングラスをかけていたかどうか。  壁ぎわに灰皿がある。そこへ喫い殻を投げ込み、その帰りしなに女の脇でちょっと足を止め、 「どうなっているのかいな」  と啓一郎は日本語でつぶやいてみた。  女は首を傾け、少し笑った。  啓一郎はかすかな狼狽《ろうばい》を覚えた。言葉は的確に通じたらしい。 「ええ、本当に」  歯切れのよい日本語が返って来た。含んで笑う表情も、啓一郎が見慣れた日本女性のものだ。 「タイへはお仕事ですか」  啓一郎が尋ねた。  女の正体はわからない。服装から判断してタイの人かと思ったが、言葉を聞けば、日本人とわかる。肌の白さも南国の人ではなさそうだ。三十歳くらいと踏んだのは、おおむね当たっているだろう。もう少し上かもしれない。 「ええ」  女は曖昧《あいまい》に答える。 「やっぱり暑いですね、むこうは」 「本当に」  女は、知らない男に話しかけられて、少なくとも迷惑を感じているようには見えなかった。  飛行機は、いっこうに飛び立とうとしない。成田行きの乗客は、ロビーのあちこちで搭乗《とうじよう》のアナウンスメントを待っている。もう三時間近く待たされている。退屈もしていたし、多少は心細くなっていた。話し相手がいれば好都合だ。 「体調を崩してしまって」 「お腹《なか》ですか」  女は唇をとがらせたまま笑うように言う。 「そう。初日にやられました」 「水がいけないんでしょ」 「注意はしていたんですがね。でも水割りとかジュースとか、氷を入れたものを飲むでしょ。この氷がいけない。もとは水だから」 「沸かしたお茶以外なにも飲まずにいましたわ」  ロビーの出発案内板がカチャカチャとせわしなく鳴っている。なにか新しい情報が入ったらしい。  タイ航空六四〇便にはなんの変化もない。 「どうなるんですかねえ」 「本当に」  まっ暗な穴に閉じこめられてしまったとき、男はあちこち歩きまわって出口を捜す。女はじっと留《とど》まって救助が来るのを待つ。そんな習性がそれぞれの性に備わっている。男は冒険の性であり、女は持久の性なのかもしれない。啓一郎は、まさしく出口でも捜すようにさっきからロビーを歩きまわっていた。しきりに苛立ちながら。なんの甲斐《かい》もないと知りながら。この女は案内板の下で静かに待ち続けていたらしい。さほど苛立《いらだ》っているようには見えない。 「タイ語|訛《なま》りの英語は、わかりにくいですね」  この質問は女の仕事を推測する手がかりになるだろう。 「そうですか」 「つまるような感じで」 「でも、私、どの道、英語に弱いから」  法子《のりこ》のように外国人相手に仕事をやっている人ではなさそうだ。 「バンコクにいらしたんですか」 「はい。それとチェンマイにも」 「チェンマイはいいところらしいですね」  啓一郎自身はバンコク周辺の仕事ばかりで、北の都にまで足を延ばすことができなかった。 「古いものが残っていて、すてきでしたわ」  そのときタイ航空六四〇便の乗客を呼ぶアナウンスメントがようやく流れて来た。  空港ロビーの一画で、ため息まじりのどよめきが起きた。七、八人の団体客である。 「どうなりましたか」  女もアナウンスメントを聞いていたが、啓一郎に問いかける。 「今日中には故障がなおらないので欠航。ホテルを用意するから、お泊まりください、って」 「本当に?」 「そうみたいですね」  同じアナウンスメントを繰り返している。全員、入国カウンターのほうへお集まりください、と告げている。 「行きましょうか」 「仕方がないわね。よくあることなのかしら」 「いや、僕は初めてです」  そう返事をしてみたものの啓一郎自身もそう繁《しげ》く外国旅行に出ているわけではない。  六四〇便の乗客は、三時間も待たされ、みんな今か今かとアナウンスメントに聞き耳を立てていた。案内は不足なく乗客たちに伝わったらしい。三、四十人の男女が荷物を持って入国カウンターのほうへ進む。表情には苛立ちよりも、ほっとした気配がうかがわれる。 「明日までになおるのかしら」 「いくらなんでもなおるでしょう。明朝出発の予定って言ってますから」  たった一日香港に泊まるだけだが、それでも入国手続き、そして明朝には出国手続き、と、すべて型通りやらなければいけない。  ホテルは空港と廊下続きのビルらしい。全員が入国手続きをすませたところで、ホテルに案内された。通路の窓越しに高速道路が見える。SANYOと赤く光った大きなネオンが見える。  ホテルのロビーでは、二人以上のグループ客、それから女の客、男の客に分けられ、それぞれにルーム・キーを渡された。夕食は七時半から九時半まで、ホテルの地下食堂で。タイ航空のチケットを示せば無料で食べられる。明日の出発については、おってスケジュールが確定したところで、フロントの掲示板に貼《は》り出す、と知らされた。 「お先に失礼します」  女は、啓一郎のほうにキーを振って立ち去る。  レディ・ファーストのシステムらしく、啓一郎はキーを受け取るまでもう少し待たなければいけなかった。  ——なんでこんなことになってしまったのか——  部屋に入ったところでキーを床に投げつけたいほどの憤りを覚えたが、怒ってみたところで仕方がない。  土曜日だから会社への連絡は必要ないが、家には電話をかけておこう。バンコクから「今夜帰る」と伝えておいた。父と妹二人の家族だが、帰らなければ心配するだろう。洋服を脱ぎ、だらしない姿になってベッドサイドの電話を取った。 「えっ?」  交換手の言うことがよくわからない。  交換手の英語はわかりやすいが、今度は話の中身に合点《がてん》がいかない。 「東京に電話をしたい」  と啓一郎が告げると、 「何分くらい話しますか」  と尋ねる。 「三分くらい」 「では、フロントまで降りて来てお金を払ってかけてください」  おかしなシステムだ。今どき部屋から直接国際電話のかけられないホテルなんてあるのだろうか。  何度尋ねても同じ答えなので洋服を着なおしてフロントへ降りた。また腹が立つ。日本円の一万円札を出し、三分の通話を申し込み、 「おつりは香港ドルで」  と頼んだ。なにか必要なことがあるかもしれない。 「では、どうぞ。お部屋でおかけください」  耳を疑った。英語をまちがえているのかとさえ思った。だが、そうではない。このホテルでは電話をかけるとき、まずフロントで料金を支払い、それから部屋に戻ってかけるシステムになっている、そうとしか考えられない。  エレベーターで昇りながら中座啓一郎は思案をめぐらした。  ——なるほど——  正解らしい答えが浮かんだ。  飛行機の事故のため香港に泊まることになった。宿泊代と食事代はタイ航空が負担してくれるが、その他《ほか》の費用はびた一文受け持つつもりがないんだ。前金を取らずに高価な国際電話をかけさせたりすると、あとでトラブルを起こしかねない。そこで、こんなケースでは、とにかく前金で電話代をもらうのが通常のやり方になっているのだろう。一般の旅行者として泊まったのならば、こんな厄介《やつかい》な手続きはないだろう。  ——せこい話だね——  部屋に戻って下北沢の家に電話をかけた。父が出た。 「課長の自宅へも言っておいてください。植田|弘《ひろし》。電話帳にあるから」 「わかった。気をつけてな」 「うん、うん」  三分間もかからなかったろう。  頃《ころ》あいを計って地下のレストランへ行けば、ここでもタイ航空の乗客は優遇されているとは言いがたい。メニューはA、B、二つのコースに限られている。席もレストランの一画を専用のテーブルにして、入れ込み方式ですわらせる。  ——自分の飯くらい自分の銭で食べるわい——  せっかく香港へ入国したんだ。たとえ一晩でもホテルにじっとしていることはあるまい。とはいえ啓一郎は、香港についてまったく知識がない。  ——どこに行けば盛り場があるのか。ここから近いのかな——  なにもわからない。地図を求めて売店へ行ったが、もう閉じていた。  ——まあ、なんとかなるさ——  ドア・ボーイに送られ、ふらりと知らない町へ出た。すでに夜が街をおおい始めていた。  エアポート・ホテルの周囲は、路地も薄暗く、掘っ建て小屋のような店もあって、あまり上等な地域ではないらしい。危険もあるだろう。啓一郎は、ネオンの輝きを追って表通りらしい街へ出た。  今まで一度も来たことのない土地。なんの関心もなかった。知識は皆無に近い。名所の名前さえ知らない。  商店の乱雑に建ち並ぶ町を啓一郎はやみくもに歩いた。眼鏡店、乾物屋、薬局、銀行、洋品店、電器店。�電髪�とあるのは、パーマネントのことだろうか。�西餅《シーペイ》�とあるのはケーキだろうか。市場のような一画もある。小鳥を売る店もあれば食用の鳩《はと》を売る店もあった。  うっかり暗い路地に入り込むとどうしても足早になってしまう。ならず者に取り囲まれ、身ぐるみ剥《は》がれ、今夜ホテルに帰れなくなっても、だれも心配してくれやしない。  ——どこがにぎやかなのかな——  いくら知らない町でも、この界隈《かいわい》が香港一の繁華街ではあるまいと、そのくらいの見当はつく。ここは東京で言えば、せいぜい浅草か上野みたいなところ、丸の内や銀座は、もっとほかにあるにちがいない。どんどん歩いて行けば、少しはそれらしい街にたどり着くのだろうか。  明るい道を選んで歩いた。荷車が道端で果物を積んで売っている。  ——明日の朝はバナナで朝食のかわりにするかな——  啓一郎は値札を見て、また新しい狼狽を覚えた。値札には�元《ユアン》�という単位が記してある。  ——元と香港ドルがあるのか。どういう関係になってるんだ——  そんな初歩的な知識すら啓一郎は持っていない。聞けばわかるだろうが、英語は通じそうもない。なんにも知らない観光客だと思われるのも腹立たしい。  ——驚いたな——  苦笑が浮かぶ。ポケットに入っている香港ドルが、どれほどの価値か、啓一郎はそれさえ正確にわからないことに気づいた。  つまり……ホテルのフロントで東京までの電話代として一万円札を出し、おつりを香港ドルで受け取った。残りの金額は、ポケットから札とコインを取り出して、たし算をしてみれば簡単にわかるだろうが、それがどれほどの価値を持つものか、わからない。なにしろ香港・東京の電話代が、どれほどの価値かわからないのだから……。  おつりが一万円より小さいのは当たり前だが、一万円のうちいくらが電話代に使われたのか。九千円なのか、ただの千円なのか。早い話、ポケットに残っている香港ドルは千円くらいの価値なのか、九千円くらいの価値なのか。  ほかの町なら商品の値札と照らしあわせてみれば見当がつく。だがここではそれも�元�で表示されていて、香港ドルの価値はわかりにくい。  啓一郎は香港の夜を歩きながら奇妙な戸惑いを覚えた。  知らない町。来《こ》ようと思ったことさえない町。知人もいない。言葉も通じにくいし、お金の使い方もよくわからない。ある日、突然、こんな奇妙な情況に追い込まれてしまうことも、現実にあるらしい。  空腹を覚えて、大通りに面した一番明るい料理店に入った。ウインドーの中の見本を指さし、香港ドルを掌《てのひら》の上に載せて示した。  主人はあから顔の老爺《ろうや》で、すこぶる愛想がいい。知らない言葉で応じているが、こっちの意思は充分通じたのだろう。  やがて注文通りの品が現われた。スープつきの焼き飯。しかし、米は日本の米と大分ちがう。さほど美味とは言えない。ホテルの地下で洋食を食べたほうがよかったかな。それでも皿の底まで平らげた。 「サンキュー」  主人がドアを開けてくれた。  八時三分。歩きまわったので疲労を覚えていた。  ——ホテルに戻ろうか——  映画館を見つけたが、食指の動くだしものではない。また暗い路地を抜けてホテルへ帰った。  ——もうフロントに明日の出発時刻が出ているだろう——  エレベーターに乗りかけたが、踵《きびす》を返した。人気《ひとけ》ないロビーに黒板が一つ、白い紙を貼って立っている。 �七時半にここにお集まりください。八時に出発の予定�  と英語で記してある。  ——まあ、よかった——  どこがどう故障したのか、わからないけれど、たっぷり時間をかけて整備した以上、心配はあるまい。思いがけないトラブルで一晩香港のホテルに泊まることになってしまったが、これもなにかの話の種になるだろう。  ——ここは香港のどのへんなのかなあ——  空港は、たいてい市街のはずれにあるものだ。せっかく着陸しながら一番の中心地も見ずに帰るのは残念だ。ロビーのソファに体を預けてタバコをふかした。いとしのマイルドセブン。六日間のタイ旅行のあとだから、あと一箱しか残っていない。ポケットから香港ドルを出して銭勘定をしてみた。二百五十ドルと少し残っている。  フロントの男が通ったので、香港第一の名所を尋ねてみた。ビクトリア・ピークというところがあるらしい。夜景が見えるらしい。車で一時間くらいの距離……。しかし今から行くのは億劫《おつくう》だ。  ——バーにでも行ってみようかな——  ソファから立ったとき、エレベーターのドアがあいて、女を一人吐き出した。 「明日の出発、もう出ています?」  声をかけられ、声の主がさっき出発ロビーで知りあった女だとわかった。  最前はグリーンのブラウスにピンクのスパッツ。まるでタイの女性みたいな服装だったが、今は淡いオレンジのワンピースに変っている。襟《えり》もとの黒いステッチが垢《あか》ぬけている。 「うん。七時半集合。八時出発。そう書いてある」 「あ、そう。わりと早いのね」  もう一度フロントに戻って�NOTICE�を確かめた。  女は腕を組み、小首を傾《かし》げている。今はサングラスをはずしている。やはり美しい人だ。 「香港は、よくご存知《ぞんじ》ですか」  啓一郎が尋ねた。 「いいえ。ぜんぜん」 「案内しましょうか」 「よくご存知ですか」  女は同じ言葉で聞き返す。 「あははは。案内なんかできるわけがない。僕もまるっきり初めてなんです。盛り場がどこにあるかもわからない。でも、さっき、ホテルの夕食じゃつまらないと思って外に出てみた。だから、この付近なら一応わかる。歩いてみますか」 「ええ」 「じゃあ……」 「一文なしですけど」 「パスポートとお金は持って来たほうがいいんじゃないかな」 「じゃあ取って来ます」  女は小走りでエレベーターの中へ消えた。  ——わからんものだなあ——  一刻も早く東京へ帰りたかった。さっきはルーム・キーを床に叩《たた》きつけたいほど腹立たしかった。だが、わるいことばかりが続くわけでもないらしい。  啓一郎は、学生の頃に習った�人間万事|塞翁《さいおう》が馬《うま》�とかいう文句を思い出した。  ——どんな話だったか——  たしか中国の城塞《じようさい》の付近に老人が住んでいるんだった。飼っていた馬が逃げ、周囲の人たちは「損をした」と言うが、老人は、 「これが好運となるかもしれません」  とつぶやく。はたせるかな、その馬がもう一匹ほかの馬を連れて帰って来る。だが、老人は、 「これが不幸の原因となるかもしれません」  と喜ばない。今度は息子が馬から落ちて骨折、体の自由がきかなくなってしまう。ところが戦争が起こり、五体健全の者はみんな兵士に徴用され、死んでしまう。違ったかな。  そこまで思い出したとき、エレベーターが開いた。 「お待ちどおさま」 「じゃあ行きましょう」  肩を並べてホテルを出た。  ほんの一時間ほど前、手さぐりでもするようにして歩いた街を今度は案内人となって啓一郎は歩いた。女は首を空へむけ、左右にまわしながらついて来る。  暗い路地を避け、商店の並ぶ表通りを選んだ。横丁に入ると、店の前に木の箱を並べ、それを椅子《いす》にして、上半身裸の男たちが飲み食いをしている。腕には刺青《いれずみ》が稚拙な図案を映し出している。喫茶店のようなものは見当たらない。酒場の看板はないでもないが、どういう種類の酒場かわからない。 「わりと夜の早い街みたい」 「そうかな」  格別おもしろいものはない。どこまで行っても雑多な商店が並んでいるだけだ。 「あれは、なにかしら」  ドアに�的士�と記したワインカラーの車が、次々に走って来る。 「タクシーと読むんじゃないかな」 「ああ、そう」  と佳人は顎《あご》で頷《うなず》く。三十分ほど歩くと、もとのホテルの見える角へ戻った。 「本当ににぎやかなところは、もっとほかにあるらしい」 「ええ?」 「行ってみますか」 「行けます? これから」 「ドライブなら」 「行けるんなら……行きたい」  彼女も�ここが本当の香港《ホンコン》ではない�と感じていたのだろう。  ホテルに戻ってフロントに車を頼んだ。さっき聞いた名所はビクトリア・ピーク。夜景がきれいなところらしい。ポケットには二百五十ドルある。 「ビクトリア・ピークまで行って帰って、これで大丈夫か」  と、これもフロントの男に尋ねた。少し思案のあとで、 「大丈夫ね」  と、これは日本語で返って来た。 「さあ、冒険、冒険」 「大丈夫かしら。こわいみたい」  南シナ海の上空で飛行機が軋《きし》んだときから、予期せぬ出来事が始まったらしい。タクシーは高速道路らしい道に入り、ビルの裏手を走る。 「まだ名前を聞いていなかった」  そう告げながら啓一郎は、まず自分の名刺をぬいて差し出した。女は、 「あ、ほんと」  つぶやいてハンドバッグの中をのぞいたのは、彼女も名刺を捜そうとしたのだろうか。名刺は見つからなかったらしい。 「寺田です」  啓一郎の名刺を見ながら自分の名を言う。 「その下は?」 「えっ?」 「フルネームを聞きたい」 「麻美《あさみ》。麻が美しいって……」  それから首を啓一郎のほうに曲げて、 「なかざ、と読めばよろしいの?」 「そう」 「めずらしい苗字《みようじ》ですね」  と、つけ加えた。 「鉄のお仕事ですの?」  タクシーの薄闇《うすやみ》の中で麻美が名刺をかざしながら言う。 「そう。バンコクで三千トン売って来た」 「すごいのね」 「そうでもない。あなたは?」  道路は湾曲し、香港のにぎやかな領域に近づき始めたらしい。今までとはちがった背の高い、モダンなビルがつぎつぎに窓に映った。 「記者なんです、お茶の……」 「えっ?」  麻美もバンコクからの帰り道のはずだ。ただの観光客ではあるまいと啓一郎は想像していた。 「婦人雑誌の記者なんです。いろいろやりますけど、おもにお茶。それが担当なんです」 「ああ、なるほど」  合点《がてん》がいったわけではない。  本屋の店頭に立てば、婦人雑誌がたくさん並べてある。あれだけ雑誌があるのなら、記事を書く人も大勢いるだろう。だが茶道専門の記者までいるとは知らなかった。麻美の立居振舞いが上品に見えたのは、やはりそのせいかもしれない。 「ずいぶんちがいますね」  麻美がそうつぶやいたのは、街の風景のことである。空港付近の街はごたごたした家並みだった。今はガラリと変った現代都市である。  運転手がたどたどしい英語で、 「車でビクトリア・ピークへ行くのか」  と聞く。さっき、空港ホテルの前で乗ったときも、彼は同じことを訝《いぶか》しそうに尋ねた。 「香港で一番いいところなんだろ?」  と英語で聞けば、 「イエス」  と言う。 「夜景がきれいなんだろ?」  と聞けば、やっぱり、 「イエス」  と答える。どことなく心もとない。  ——ビクトリア・ピークは、本当に行く甲斐《かい》のあるところなのだろうか——  啓一郎は不安を覚えた。  ——英語がちゃんと通じているのだろうか——  道は下り坂となり、長いトンネルへ入った。トンネルを抜けると、すぐ近くに船と水とが見えた。水の両側に光を放つ街が広がっている。 「川?」  と聞けば、 「海」  と運転手は言う。海底トンネルを抜けたのか。香港はそういう形の町らしい。 「この車でビクトリア・ピークへ行くのか」  と、運転手が三たび同じことを尋ねた。  あとで知ったことだが、ビクトリア・ピークへ登るには、たいていピーク・トラムと呼ばれるケーブルカーを利用する。夜遅くまで走っているし、料金も安い。窓からの眺《なが》めもわるくない。タクシーの運転手としては、啓一郎たちが本当に車で頂上まで行き車で空港ホテルへ帰るつもりなのか、無駄《むだ》な費用のかかることなので、それが心配で、何度も真意をたしかめたのかもしれない。  ——こいつ、馬鹿《ばか》じゃないのか——  と啓一郎は訝ったが、その実、彼はとても親切な人柄《ひとがら》だったのかもしれない。しかし、案内書一つ持たずに、知らない街にくり出した二人は、そんな事情を考えることができない。ただ、 「プリーズ・ゴウ・トゥ・ビクトリア・ピーク」  と、くり返すだけである。 「大丈夫かしら」  麻美が不安そうにつぶやく。 「なんとかなるだろう」  ごく自然にシートの上の手を握った。心配しないで、とばかりに……。  金色の豪華なビルには�東京銀行�と記してある。少し心強い。  ——知らない国へ来たわけじゃない。日本人だって大勢いるだろう——  東京銀行とバンク・オブ・アメリカのあいだの道に入ると、勾配《こうばい》が急になって、山へ登り始めたらしい。山沿いにニョキニョキと高いビルが建っている。いくつもの窓がパンチカードみたいに光を並べている。アパートだろうか。視界がぐんぐん開ける。 「あ、きれい」  海が見えた。海には、いくつかの船がまばゆい光を投げて浮いている。海のむこうに高く低く光の輝く街が広がっている。だが、すぐに道は海辺を離れ、周囲は深い繁《しげ》みに変った。繁みの奥に瀟洒《しようしや》な館《やかた》が見え隠れする。 「すごいお家みたい」 「香港の大金持ちは、日本の比じゃない」  香港を知らなくても、その程度の見当はつく。貿易にたずさわっていれば、いたるところで華僑《かきよう》の底力を実感させられる。  車が止まった。目の前に円型のビルがあった。これが頂上の展望台らしい。背後の繁みには、提灯《ちようちん》のようなあかりを吊《つ》るしたティー・ルームがある。ビルの脇《わき》には散歩道が口を開けている。 「ここで待っててくれないかな。三十分くらい」  と、啓一郎は運転手に告げた。 「イエス」  メーターの数字は八十を超えている。往復の料金に待ち時間を加えて、なんとか二百ドルで収まるだろう。だが長居はできないぞ。  麻美と連れだって、まず円型のビルに入った。一階がケーブルカーの山頂駅になっている。  時刻は十時を過ぎ、ビルの中は人影もまばらで、店はほとんどシャッターをおろしている。啓一郎と麻美は展望台には昇らず外に出て散歩道へ向かった。  小さな賭《か》けだった。  知らない国の、知らない名勝。どこにすばらしい風景が潜んでいるかわからない。啓一郎は、ホテルのフロント係に、ただ、 「ビクトリア・ピークがいいでしょう」  と言われて来ただけだった。  思いがけない飛行機事故で知りあった寺田麻美を案内して、この山頂までタクシーを走らせて来た。  ——展望台に昇ろうか——  それが普通のコースのように思えた。だが、とっさの判断で散歩道のほうを選んでみた。車をそう長く待たせておくわけにはいかない。手持ちのドルに限りがある。夜も遅い。あれもこれも見物するわけにはいかない。  気がつくと散歩道も二つあるらしい。 「こっちへ行ってみよう」  麻美の腕を取って、ラガード・ロードと書かれた道へ入った。  黒い樹木のあいだから夜の海が見えた。海のむこうに対岸の街が輝いている。香港は海を挟んで二つの街が広がっているところらしい。  散歩道は、山の中腹に、傾斜を巻くようにして作られている。細い舗装道路で、路面が夜霧で濡《ぬ》れていた。二十メートルおきくらいに街灯が淡い光を落としている。まばらだった人影は、この道に入って、さらに少なくなった。観光客らしい男女が一組、抱きあって頬《ほお》を寄せていた。大きな男がジョギング姿で走り去った。出会った人といえば、この三人だけ。 「すごいわ」  足下に喬木《きようぼく》が生い繁っているので夜景はところどころ狭い視野でしか見えない。  人気《ひとけ》ない夜の丘陵地。眼下に見え隠れする華麗な街のイルミネーション。黒い海。浮かぶ船。さらに遠く光の玉をちりばめた夜景は、水平線を越えて天に昇り、星たちが白くきらめいている。  少し歩いては立ち止まり、並んで鉄柵《てつさく》から体を乗り出す。 「どうしてだれも来ないのかな」  東京の近郊なら、二人連れで柵が鈴生りになってしまうだろう。 「遅いからかしら」 「電車は何時まであるのかな」  ケーブルカーの山頂駅は、終電もそう遠くなさそうな気配だった。 「タクシーが帰っちゃったら……」 「歩いて帰るより仕方ない」  白い霧が山頂から流れ落ちて来る。急に寒くなった。 「こわいわ」  そっと女の肩に腕をまわした。肩が震えている。寒さのせいばかりではないだろう。 「静かだなあ」  啓一郎は曖昧《あいまい》につぶやいた。  こわいことは、たしかにこわい。この瞬間、麻美以上に啓一郎のほうが恐怖を感じていたかもしれない。このあたりの治安は大丈夫なのだろうか。  もう時刻は十一時に近い。市街地からそう遠く離れているところではないけれど、とにかく山の中だ。道は湾曲し、樹木におおわれ、目の届く限り人の姿はない。  しかもここは、なにも知らない外国の観光地の、ちょっとはずれた散歩道なのだ。たいていの観光客は、山頂の展望台から夜景を眺めて帰る。どんな国にも危険な場所はある。 「あら、ハイビスカスかしら」  麻美が指をさす。街灯の薄い光の下で、赤い花が軟らかい紙のように萎《しお》れている。 「そうかな」  啓一郎は花の名を知らない。名を知っていても、どれがその花かわからない。ハイビスカスは、むしろ正体がいくらかわかるほうの花に属する。  麻美が体を伸ばして花を摘んだ。それから指先で丁寧に花弁を開く。夜霧に萎れた花は、いやいやながらといった様子で、まるい器の形を作った。  麻美が髪にさし、 「どう?」  とばかりに笑う。白い顔がそのまま大きな花となった。闇《やみ》を背景にして、そこだけがぽっかりと浮き出している。 「とてもいい」  啓一郎は身をそらして眺め、それから花の香をかぐように顔を寄せた。  女が首をまわす。  視線があった。  男が長い滑らかな髪を押さえた。髪も夜霧に濡れている。ハイビスカスが揺れた。  麻美は目を閉じている。唇がかすかに上を向いている。なにもためらうことはない。みんな神様の悪戯《いたずら》なんだ。取り囲む風景も。ここまでたどりついた事情も。山頂に残された時間は少ない。  啓一郎が唇を重ねた。そのまましばらく影法師となって二人は抱きあっていた。  ——本当に……夢のようだ——  月並みな表現にはちがいないけれど、それ以外にうまい言葉が浮かばない。今朝バンコクのホテルを出たとき、こんな事態の起こることを啓一郎は、ちらとでも想像しただろうか。ありえないことの連続だった。今ごろは下北沢の家に帰って、風呂《ふろ》にでも入っている時刻だろう。それが、どうしてこう変ってしまったのか。こんな甘美な夢が用意されているとは、人生も捨てたものじゃない。  女の肩は、相変らず震えている。恐怖と寒さのほかに、心の高ぶりも加わったのかもしれない。唇が離れた。 「寒い?」 「ええ、少し」 「帰ろうか。残念だけれど」  これ以上|留《とど》まっていては、なにかよくないことが起きるかもしれない。 「ええ……」  二人は道を返した。タクシーがビルの脇《わき》に待っているのを見つけて、 「よかった」  と、女の白い歯が光った。  展望台のあるビルでは少人数ながら観光客らしい人影がうごめいていた。ケーブルカーがまだ走っているらしい。 「ずいぶん遅くまでやっているのね」  麻美が見あげる円型のビルには�営業中�らしい気配が明るく光っていた。  ——多分あそこまで昇れば、夜景がすっかり見えるのだろう——  だが行けそうもない。行っても特によいことはなさそうだ。啓一郎は、思案を集中させようと努めた。頭がぼやけている。唇には、まだ熱い感触が残っている。  ——女は何を望んでいるのか——  考えなければいけないことが山ほどあった。  ——タクシー代は、手持ちの香港ドルで間にあうだろうか——  香港のホテルからビクトリア・ピークまでの料金を二倍し、それに待ち時間がいくらつくのか。いずれにせよ、ぎりぎりに近い金額だろう。  ——こんなとき、金のことなんか——  とも思う。日本円なら持っている。まるっきり銭がないわけではない。だったら、なんとかなるだろう。しかし時刻はもう遅い。今日はいろいろなことがあり過ぎた。麻美も疲れているだろう。夜景を眺めただけでも、めっけものだった。さっき一瞬の決断がなかったならば、空港付近の、雑然とした町並みを歩いていただけで終わっていただろう。  散歩道は最高のムードだった。あやしい気配に誘われるように唇を重ねた。今はこれ以上深追いをしてはいけないのかもしれない。 「行きましょう」  麻美がつぶやいて、タクシーのほうへ歩み寄る。 「うん」  展望台は案外つまらないところかもしれない。少なくとも散歩道ほどすばらしいはずはない。最高の上に、さらに最高はありえない。  車に乗ろうとしたとき、麻美の髪からハイビスカスが落ちた。啓一郎が拾ってシートにすわった。 「エアポート・ホテル」  運転手に告げ、麻美のほうへ肩を寄せた。勢いよく車が走り出す。 「長くもつ花じゃないわ」  茎を離れた花は啓一郎の膝《ひざ》の上で、弱々しく垂れている。雄蕊《おしべ》だけが反り身になって最後の命を主張している。 「そうらしい。日本にもあるのかな」 「花屋さんにはあるでしょうけど……。芙蓉《ふよう》のお仲間でしょ」 「ああ、なるほど」  あいづちを打ってはみたが、芙蓉がどんな花かわからない。むしろ財界グループの名前を思い出す。おしなべて男は花の名前を知らないものだ。 「酔芙蓉《すいふよう》ってのがあるの」  麻美は歌うようにゆっくりとつぶやく。それがこの人の癖らしい。 「うん?」  車は急|勾配《こうばい》の夜道をどんどんとくだる。山の麓《ふもと》には細く積木を立てたようなビルが密集している。香港は地震の少ない国なのだろう。花は啓一郎の膝から麻美の指に移った。 「朝は白い花なの。午後になると少し酔い始めて、夕方にはまっ赤になってしまうわ」 「それで酔芙蓉《すいふよう》か。昼間っから酔ったりしちゃ、いけないね」 「本当」  酔いといえば、啓一郎も、少し酔っていた。アルコールではない。今日一日の出来事に……。とりわけ日が落ちてからの、思いがけない時間の推移に。  麻美は、しゃんと姿勢を正してすわっている。もともと姿勢のいい人なのかもしれないが、ここで身を崩してはいけないと、そんな意志が感じられないこともない……。  さっきはつい唇を重ねてしまった。あれほど夢幻な風景の中では、そんな行為もごく自然なものに思えた。だが、考えてみれば、ほんの数時間前に知りあったばかりの二人ではないか。相手がどういう人格か、おたがいにわからない。  ——少し軽はずみだったかしら——  麻美がそう思ったとしても不思議はない。  車のシートで姿勢を堅くしているのは、そんな気分の表われではあるまいか、と啓一郎は判断した。  傾斜が急になると、窓の外に乱立する高いビルが、みんな傾いて見える。水晶の標本が、細い角柱を何本もななめに突き出しているのに似ている。 「おもしろいね」 「ええ」 「こっちが傾いているのに、むこうのほうが傾いて見える」 「本当」 「人間は自己中心的にできているからな。自分のほうが傾いているのに、相手が傾いてると思っちゃう。よく覚えておいていい風景かもしれないなあ。教訓になる」  もう一度窓の外を見たときにはゆるやかな勾配に変っていて、さほど相手が傾いているようには見えない。  山を降りて街に入った。このへんが多分香港のオフィス街なのだろう。あかりを消した大きなビルがいくつも並んでいる。シチズンのネオンが光っている。 「いろんなネオンがありましたね。日本企業の……」 「うん」 「富士フイルムとか、東芝とか、NECとか」  麻美は、ビクトリア・ピークから眺めた美しい夜景の中に、そんなものを拾っていたのだろうか。  たしかに香港《ホンコン》の夜景の中には、日本企業の名が燦然《さんぜん》と輝いている。 「ロンドンへ行ったとき……」 「ええ?」  タクシーは海底トンネルを抜けて、ビルの裏手の高速道路を走る。来たときよりずっと速く感じられるのは、こちらの安心感のせいだろう。メーターは二百を少し超えている。なんとか手持ちの香港ドルで間にあいそうだ。そんな計算をしながら、なにかしら気のきいた話をしなければいけないと思う。 「ロンドンへ行ったとき、目抜き通りの、一番目立つ広告塔には、ほとんど日本の企業の名前が光っているんだよな。イギリス人は、たまらんだろうなと思ったよ」 「誇り高いから」 「どの民族だって、みんな誇り高い部分を持っている」 「そうでしょうね」  車の中で話しながら啓一郎は麻美《あさみ》の横顔をうかがった。  やはり美しい人だ。とはいえ、どこがどう美しいか説明するのはむつかしい。麻美に限らず、人間の顔とはそういうものだろう。  鼻は形のよい三角で、稜線《りようせん》がすっきりと伸びている。それが表情に上品さをそえているのはたしかだが、この特徴だって、おそらく全体のバランスと深く関係しているだろう。鼻の線がすっきり伸びていても、美しくない顔はある。だれとは思い出せないが、かならずあるにちがいない。  目も唇《くちびる》も眉《まゆ》もみなそうだ。一つ一つの美しさもあるが、要は全体の組合わせだろう。ほどのよさを言葉で説明するのは不可能に近い。  麻美の指がハイビスカスの萎《しお》れた花弁を広げている。アイロンをかけるように押し伸ばしている。 「男は花の名前を知らないんですよ」 「そうみたい」 「あなたはくわしそうだな」 「そんなこともないんですけど。仕事ですから」  麻美が茶道専門の雑誌記者だと言っていたのを思い出した。茶席には、茶花がつく。花の知識は一通りあって当然だ。 「お茶専門の記者だって言ってたけど……」 「いえ、雑用もたくさんさせられるんです。それだけじゃありませんのよ」 「タイへはお仕事ですか」 「いえ、半分くらい。日本のお茶も少しずつ外国へ進出を始めているんですの。ご懇意にしていただいている先生が、東南アジアのほうへいらしたものですから……ちょっと。中座さんはタイだけ?」 「僕? うん。バンコクだけ」  そう答えたとき、タクシーが見慣れた町を抜け、エアポート・ホテルの前に止まった。  夜半に近かった。  本当は疲れているのだろう。だが心の高ぶりがそれを感じさせない。このままそれぞれの部屋に戻ってベッドに寝転がるのは残念だ。少しもの足りない。余韻がなさすぎる。  二人だけでながめた海と街は、たとえようもないほどすばらしかった。そこに到達するまでの事情も不思議だった。だが、その反面、終始不安がつきまとい、啓一郎は落ち着けなかった。もう少し穏やかなひとときがほしい。 「屋上にバーがある」  エアポート・ホテルのエレベーターに乗ったところで麻美を誘った。 「あいてます?」  文字盤を見あげながら尋ね返す。 「たしか一時まで。ちょっと行ってみよう」 「ええ」  最上階まで昇った。左手にバーをかねたラウンジがある。カウンターとテーブル席とがあって、室内には半分ほどお客が詰まっている。真紅のチャイナ・ドレスがジャズの古いナンバーを歌っていた。曲名は思い出せない。  窓際の席にすわったが、黒い空港とアパートらしい高いビルが並んで見えるだけ。 「飲めるほう?」  飲食をともにするのは初めてである。 「少しなら」 「じゃあ、水割り?」 「酔っちゃうかもしれないわ」  注文はダブルの�スコッチ・アンド・ウオーター�。喉《のど》がかわいている。一ぱいを飲みほす頃《ころ》には、卓上の光を受けて、女の目尻《めじり》がうす赤く火照《ほて》る。肩を小さく揺らしてジャズのメロディにあわせている。 「最初見たときはタイの人かと思った」  衣服の色合いが日本人の趣味とはちがって見えた。 「むこうで買ったの。ちょうど体にあうし、旅行には楽そうだから」 「なるほど」  こうしてゆっくりと面差《おもざ》しをながめてみれば、麻美の顔立ちは、疑いようもなく大和《やまと》なでしこの穏やかさだ。目も鼻も口も、日本人にしてははっきりとしたほうだが、東南アジアの女性のようなたくましさがない。鮮明に、だが、おおらかに咲いている。  二はい目の水割りを頼んだ。 「お茶には流派があるんでしょ? 表とか裏とか」  なにか適当な話題を捜さなければなるまい。戸籍調べだけでは興がない。 「ええ」 「あなたは、どっちですか」 「ほかにもたくさんあるのよ、流派は。武者小路《むしやのこうじ》とか、遠州とか、藪内《やぶのうち》とか。私はどれでもないの。どこにもいい顔をして……」 「かたよっちゃいけないわけだ」 「そう」  麻美はゆったりと笑っている。思いのほか世慣れた人なのかもしれない。  ラウンジの客が一組、二組と席を立ち始めた。もう閉店の時刻も近い。 「昨日の今ごろは、なにをしてましたか?」 「寝てたわ。バンコクのホテルで」 「今朝起きたのは?」 「八時くらいかしら」 「それから?」 「えーと、朝食をとって、出発の準備をして、車を頼んで」 「空港へ着いて」 「そう。あなたと同じ飛行機に乗って。でも、どうして?」 「そのときから数えても十二時間くらいしかたっていない」 「本当ね」 「いろんなことがあるもんだな、そう思ってね」 「ええ」  飛行機が乱気流にあって揺れた。あのまま墜落するケースだってあったのかもしれない。  香港に着陸し、整備がうまくいかず、結局成田行きの乗客はエアポート・ホテルで一泊することになった。これだけでもそうざらに遭遇する出来事ではあるまい。さらに外出のあとホテルへ戻ったところで麻美に会った。空港ロビーで、ちょっと話しあっただけの人。本来なら親しくなれるはずのない人だった。  事故がなければ、言葉を交わす機会さえなかっただろう。街からホテルへ戻る時間がほんの少しちがっていても、会えなかった。  せっかく香港に入国したのだから、一番の名所を訪ねてみようか。どちらの心にもそんな願いがあって、車をビクトリア・ピークまで走らせた。知らない町。限られた夜の時間。小さな冒険だった。人気《ひとけ》ない山頂の散歩道は、効果満点の舞台だった。ハイビスカスの花を摘み、見えない力に誘われるように唇を重ねた。  ——本当だったろうか——  疑わしくなるほど、現実と断絶した出来事のように思えてならない。 「行きましょうか」 「もう閉店みたいね」  最後の客となったところで、二人は腰をあげた。エレベーターで九階まで。 「部屋まで送って行こう」  麻美の部屋は九〇九号室。啓一郎の部屋より一つ上の階にある。  エレベーターのドアが開いてから九〇九号室のドアまで、二十メートル足らずの距離を啓一郎は息苦しい思いで歩いた。  ——なにか……もう少し——  だが、なにがあると言うのか。とうに夜半を過ぎている。ほとんどの客は眠っている。相手は、今日、ほんの数時間前に知りあったばかりの女ではないか。九〇九号室の前に来た。 「本当にありがとうございました」  先に口をきいたのは麻美のほうだった。 「すてきな夜だった」 「なにか起きるのかしら」  男は息をのむ。どういう意味だろう。ついと麻美が手を伸ばした。握手を求めているらしい。  啓一郎は両の手で、女の掌《て》を握った。やわらかい感触。細い骨。しっかり握ると、麻美は軽く握り返す。掌は思いのほか雄弁なものだ。  ——この手をぐっと引いたら——  思うより先に女が手を離した。 「おやすみなさい。明日また」  部屋のドアが開いた。  麻美はドアの中へ滑りこみ、小さく手を振る。手の甲に隠れていたハイビスカスが揺れる。一瞬、女の顔になにかためらうような表情が流れた。 「じゃあ」  ドアが閉じた。 「おやすみ」  啓一郎はドアに向かって告げた。中からもう一度、 「おやすみなさい」  くぐもった声が漏れて来た。  ——これでよかったのだろうか——  ドアの前に立ち続けていた。多分これでよかったのだろう。いつまでも未練がましく立っているのは、みっともない。靴音《くつおと》を忍ばせてドアの前を離れた。  ポカン。  そんな気分だった。子どもが急に玩具《おもちや》を取りあげられたみたいに……。  自分の部屋に帰って、だらしなく上着とズボンを脱いだ。寝巻きは見当たらない。下着だけの姿になってベッドに腰をおろした。かすかな悔いがある。 「もう少し話しませんか」  そうつぶやきながら麻美の部屋へ入る手段があったのではなかったか。麻美がドアの前で見せた、一瞬の、ためらうような表情は、それをうながしていたのではなかったか。  思いすごしだろう。「もう遅いから」と、やんわりと断わられるだけだったろう。いくらなんでも節度を欠いている。いい気になりすぎている。そう思われても仕方ない。  だが、男と女のあいだには、そんな節度なんか、なんの意味も持たない瞬間がある。ただの怯懦《きようだ》でしかないときがある。これは本当だ。  啓一郎はベッドの中で独りつぶやいてみた。なにかの本で読んだ言葉だった。 「昨夜は�イエス�と申しました。今朝は�ノウ�と申します。朝の光で見たものが、蝋燭《ろうそく》と同じに見えるはずがありませんもの」  小説の一節だったかもしれない。前後の事情は思い出せない。  言っているのは女だろう。言葉の意味はたやすく理解できる。男と女のあいだでは、同じチャンスがもう一度めぐって来るとは限らない。蝋燭の光で見たものが、翌朝同じに見えるとは限らない……。  考えてみれば、今夜はなにもかも信じられないほどうまく運んだ。散歩道の夢幻な風景は、ただごとではなかった。唇を重ねたのは……そう、妖《あや》しい夜の悪戯《いたずら》だったのかもしれない。だとすれば、同じチャンスがふたたびあるものかどうか。  啓一郎はベッドに入ってからもしばらく闇《やみ》を見すえていた。  ——洋服を着て九〇九号室のドアを叩《たた》いてみようか——  何度かそんな衝動を覚えた。 「どなた?」 「どうも眠られなくて」  細めにドアの開く風景を想像してみた。  だが、麻美ももう寝仕度を終わっているだろう。ベッドに入っているだろう。  ——遅すぎた——  麻美の部屋に入るなら、さっき……部屋まで送って行って「おやすみ」を言う直前、だった。今さらのこのこ出かけて行くのは、未練がましいばかりか、よい結果は期待できない。  ——明日がある、明後日がある——  あわててはいけない。  ——あれは、どういう意味かなあ——  麻美はドアの前で「なにか起きるのかしら」とつぶやいていた。意味のはっきりしない言葉だったが、今後の二人のことを言ったのだろう。それ以外には考えにくい。  これから東京に帰ってなにかが起きるのかもしれない。多分起きるだろう。  廊下に足音が響く。  ——彼女かな——  眠られない麻美が啓一郎の部屋を訪ねて来ることを考えたが、これはありえない。そこまで女にさせてはいけない。  ——馬鹿《ばか》らしい——  そんな想像をめぐらすこと自体が愚かしい。足音は遠ざかった。思案が麻美に戻った。  ——どういう女なのか、なにもわからないじゃないか——  知っているのは、名前と職業と独り暮らしらしいこと。ただそれだけ……。  ——美しいのに、どうして独りでいるのか——  かならずしも論理にかなった疑問ではないけれど、男は、たいていそう思う。つまり、美しくない女が独りでいるぶんには、なんの疑問もなく納得がいく。だが逆の場合は落ち着かない。そんなはずはないと思う。不自然だと思う。もったいないという気持ちもある。現実には、ずいぶん美しい人だって、独り暮らしをしているだろうけれど。  ——法子《のりこ》がそうだし——  と、啓一郎は千倉《ちくら》法子を考えた。法子は造形的に文句なしの美人かどうかわからない。三段階なら美人のほう。五段階評価なら4だろう。少しひいき目かな。  だが、チャーミングな女であることには、さほど異論もあるまい。  その法子も結婚をしていない。だが、法子には主義主張がある。はっきりと聞いたことはないけれど、一定の考えがあって独り身でいる。もしかしたら麻美もそうなのかもしれない。会ったばかりの人だから知識がとぼしい。唇を知っているのが、例外的なことなんだ。  麻美について、なにも知らないから、かえって勝手な夢想ができるのだろう。どの道ベッドで描く思案などたいしたことではない。現実離れしたものばかりだ。今は疲労もある。酔いもある。啓一郎は、脳の働きを放恣《ほうし》な妄想《もうそう》にゆだねた。  すぐに眠りがやって来た。眠りの少し手前でハイビスカスが淫《みだ》らな唇に変った。恥毛の下で赤く咲いていた……。  翌朝は六時過ぎに目をさました。睡眠時間は五時間足らず。少し寝不足だが、気分は高揚している。  ——なにかよいことが起きるかもしれない——  カーテンを開けると、あいにく曇り空。今にも雨が落ちて来そうだ。ホテルの窓は、空港近くの裏町に面している。狭いベランダに鉢植《はちう》えをいっぱいに並べたアパートが見えた。  外国を知るには�三日、三月《みつき》、三年、三十年�の時間が必要なんだとか。三という数は、語呂《ごろ》あわせのようなものだろう。知らない国を三日間で知る方法もたしかにある。さっと撫《な》でるような知り方。 「ああ、あそこは行ったことがある」  その程度の知識だ。  三カ月滞在していれば、だいたいの様子はわかる。三年いれば言葉や国民性にまで理解が及ぶ。しかし本当に�知る�までにはやはり最低三十年は住んでみなければなるまい。  啓一郎は香港に一日しかいなかった。厳密に言えば、一日もいない。せいぜい十五、六時間。そのうち五時間は眠っていた。  ——三時間で知る外国というのはないのだろうか——  ホテルからビクトリア・ピークまで行って帰った時間は、そんなものだったろう。それで香港を�知った�つもりはないが、この灰色の街で、かけがえのない時間が流れたことは疑いない。  ——この上もなく鮮明な夢——  そんな感じがしないでもない。  風呂《ふろ》に入り、髭《ひげ》を剃《そ》り、スーツを着ると、七時二十分。ロビーに集合する時間が近づいていた。エレベーターで降りると、もう二十人ほどの乗客が集まっている。 「おはようございます」  麻美は、緑のブラウスに薄桃色のスパッツ。またタイの女性風の色彩である。  すぐ近くであくびを連発している男がいる。乗客たちは、それぞれどんな夜を過ごしたのだろうか。  ホテルから空港ビルまでは長い廊下で繋《つな》がっていて、通路の両側に荷物を載せて動くラゲージ・ベルトが伸びている。二つのスーツケースを載せ、啓一郎は麻美といっしょにゆっくりと進んだ。出国手続きをすませて待ち合いロビーへ。昨日はずいぶん苛立《いらだ》ちながらこの付近をうろついていた。それが奇妙におかしい。  タイ航空六五二特別便。機内はすいている。台北《タイペイ》行きの乗客は、昨日のうちに発《た》ったのだから、これは成田へ直行する。麻美と並んで席を取った。窓の外に香港の町が映り、それがななめに消えたときには、もう厚い雲の中にいた。  啓徳《けいとく》空港から成田までの三時間あまりは、ひどく短く感じられた。  機内サービスの朝食をすませ、少しまどろみ、とりとめもない会話を交わすうちに、もう降下が始まっていた。そんな感じだった。  啓一郎は家族のことを話した。 「お袋はずっと前に死んでしまって、あとは親父《おやじ》と妹二人と、ずっと四人家族なんですよ」 「お父様は大変でしたわねえ」 「祖母がいたから」 「お妹さんは、もうお母様ですの?」 「それが二人ともまだ家でねばっている。上のは二十六になるのかな。いい加減嫁さんに行ってくれればいいんだけど」 「あなたはおいくつですの?」  麻美が含み笑いを頬《ほお》に載せながら聞く。 「寅《とら》どし」 「三十……五、かしら」 「そう。うちの親父、少し変っているんだ。子どもは一人でいいと思ってたのかな。そしたら妹が久しぶりに生まれて、また次におまけがついて……」 「いやだわ」 「そのうちお袋が死んでしまって……。でもうちの親父は、なんでもできる人なんだ。女の人の仕事も。料理、洗濯、掃除。サラリーマンとしても、そんなにわるくないサラリーマンだったと思うけれど、母親の役も下手じゃない。変な人なんですよ」 「りっぱな方じゃない?」 「合理主義者で、こだわりがないのかな。今は家事は妹たちがやっているけど、ときどき親父もやる」 「お仕事の方は?」 「もう第一線を引いているから」  麻美はハンカチを折ったり、ほどいたりしながら、 「あなたはどうしてお独りなの?」 「うーん。なぜかなあ」  ひとことで説明するのはむつかしい。麻美のほうの事情もいくつか聞き出した。 「四つ下よ」 「僕より?」 「そう。午《うま》どし」 「ずっと若く見える」 「そうかしら」  麻美の両親は静岡《しずおか》に住んでいると言う。兄と弟がいる。麻美は独りで広尾にマンションを借りて暮らしている……。 「あなたこそどうして独りなんですか」 「聞かれると思ったわ。それほど強い理由はないの。ただなんとなく」  麻美にとっても簡単に答えられないテーマなのだろう。だれもが結婚にむいているとは限らない。若い結婚もあれば、年齢を重ねてからの結婚もあるだろう。今はそういう時代になったんだ。一生のうちに一ついい縁があればそれでいい。 「よほどいいものなのかな。みんながやっているところをみると、結婚というやつは」 「わかりません」  麻美はおどけるような調子で言う。機内の会話はこのあたりで終わった。  むしろ香港からの空路より成田から箱崎までのバスのほうが長く感じられた。 「アユタヤにいらっしゃいました?」 「いや。僕はほとんどバンコク市内だけだったから。山田長政がいたとこね」 「ええ。ちょうど夕日が落ちるときだったから……遠い廃墟《はいきよ》に赤い陽《ひ》が射《さ》して、悲しいほどきれいなの」 「ケバケバしたお寺は、あまりよくない」 「チェンマイもすてきでしたけれど」 「どのくらいいたの? タイには」 「六日間かしら」 「なんだ。日本を出発したのも同じ日じゃないのかな」  話しているうちに麻美《あさみ》はまた眠ってしまった。  タイへ行ったのは、なかば観光の旅だと話していた。�なかば�というからには、いくらか仕事もからんでいたのだろう。いずれにせよ外国の旅は疲労をともなう。たいていの人が睡眠不足になる。だから乗物の中ではよく眠る。啓一郎は隣席の寝顔をうかがった。髪が傾いた顔を隠している。わずかに鼻の稜線《りようせん》が見えるだけだ。  ——みごとな三角だな——  それだけを見つめていた。そのうちに啓一郎のほうも眠ってしまったらしい。バスの揺れに驚いて目をあけると、もう箱崎も近い。麻美はハンドバッグの中からハイビスカスを取り出して、いじっている。 「まだ持っていたのか」 「ホテルでコップにさしておいたら、元気そうだったから」  茎に、濡《ぬ》れたガーゼを巻きビニールで包んである。 「あと何日もつかな」  それには答えず、首をすくめて、 「ごめんなさいね。せっかくきれいな夜景をながめていたのに」  と、花に話しかけている。 「また会えますね」 「ええ……」  花から目をあげた。 「どこへ連絡をしたらいいの?」 「家のほうへ。会社でもかまいませんけれど……。いないときも多いから」 「うん」  ハンドバッグからメモ用紙とペンを取り出して信号が赤になるのを待っている。 「ありがとう。僕は会社のほうがいい」 「午前中なら私もわりと会社にいます」  箱崎のターミナルで荷物を受け取り、タクシーに乗った。 「お宅まで送ろう」 「すみません」  日曜日の午前中だから都内の道路はすいている。 「そこで結構です」  麻美の家は有栖川《ありすがわ》公園に近い角地のマンションだった。 「部屋まで荷物を持ってってあげよう」  と申し出たが、 「いえ、自分で持てますから」  と断わる。  ——不都合なことがあるのかもしれない——  そんな気配を感じて門の前で別れた。タクシーの窓から見ると麻美は指のあいだに花をさして振っている。 「しまった」  タクシーの窓から麻美の姿が消えるのを見て、啓一郎はスーツケースに手を伸ばしたが、もう間にあうはずもない。  ——写真を一枚、撮っておくんだった——  機内でも一度そのことを考えたが、採光は暗いし、並んですわっている位置では写しにくい。いずれ成田空港に着いてからと思っているうちに忘れてしまった。  ——どんな顔だったろう——  たった今別れたばかりなのに麻美の顔を思い浮かべるのがむつかしい。目の表情だけがぼんやりと浮かぶ程度だ。われながらこの手の記憶がよほど下手くそなたちらしい。電話番号なんかはとてもよく覚えられるのだが……。  ——まあ、いい——  これで終わったわけではない。写真を写す機会などいくらでもあるだろう。  家に着くと、妹のひろみがドアを細めに開けて顔を出した。これが末っ子。もう一人|保子《やすこ》という妹がいる。 「あら、おかえんなさい」 「うん」 「事故にあったんですって?」 「ああ、香港《ホンコン》で飛行機がえんこしてな。無理矢理ホテルに泊められて……」 「ただなんでしょ」 「あたり前だろ」 「得したじゃない」 「馬鹿《ばか》。お前とちがう。親父《おやじ》は?」 「台所でラーメンを作っているみたいよ」 「へえー」  玄関に荷物を置いたまま居間へ行くと、台所のほうからスープの煮える匂《にお》いが漂って来る。父の武文は、この季節になるとお寺の坊さんが着るような作務衣《さむえ》を着ている。 「ただいま」 「お帰り。災難だったな」 「ええ、まあ。思いがけず香港を見物して来た」 「いいじゃないか。課長さんとこへは連絡しておいたけど、留守だったよ。奥さんに言っておいたが、あとで電話をしておけ」  これは香港からの電話で父に頼んだことである。 「すみません」 「昼めしはまだだろ。今ちょうどラーメンができるところだ」  ゆであがったそばを金網の籠《かご》に取ってお湯を切っている。手つきは、なかなかのものだ。啓一郎には見慣れた風景だが、ほかの人が見たらなんと言うか。  啓一郎は二十歳で母を失った。妹たちは幼なかった。父はサラリーマンをやりながら母の役割も兼ねてくれた。 「やれば、できるもんだよ」  それが父の口癖である。悲愴感《ひそうかん》はどこにもない。むしろ楽しんでやっているようにさえ見えた。それなりの苦労はあったのだろうが、少なくとも女の仕事をやることについて父にはなんのこだわりもなかった。それが偉いと思う。  啓一郎にははっきりと母の記憶が残っているが、九歳年下の保子は断片的にしか覚えていないようだ。ひろみはほとんど知らないと言ってよいだろう。母が死んだときにはまだ小学校にも行っていなかったのだから。  しばらくは祖母の手があったけれど、父は文字通り獅子奮迅《ししふんじん》の活躍だった。朝早く起きて子どもたちの弁当を作っていた。日曜日にはまとめて洗濯をしていた。  居間の小箪笥《こだんす》の上に書類入れがあって、子どもたちは大切な用件をメモに記して入れておく。  どんなに遅く帰って来ても父はそれを読む。父兄会の通知。PTA会費の納入。友だちの誕生会へ行っていいかどうか。父は決裁をして同じくメモに記す。  ——二度目の結婚をする気はなかったのかな——  尋ねたことがない。どこの家でも父親と息子はめったにそんな話をしないものだ。テレビ・ドラマみたいにうまくは話せない。妹たちも大きくなり、父としては一安心。あとは三人の子どもの結婚が残っているだけだ。親戚筋《しんせきすじ》では、 「啓ちゃんが早くお嫁さんをもらわなくちゃ駄目よ」  と、十年も前からやかましく騒いでいるが、父のほうは、 「気にするな。やりたいときにやれ」  と、取りあわない。  妹たちにも同じことを言っている。成人式を迎えたばかりのひろみはともかく、保子のほうは二十六歳。もう充分に結婚していい年齢なのに、 「ま、お兄ちゃんこそお先に、どうぞ」  と、おどけてばかりいる。  啓一郎は考える。父の結婚はどんな結婚だったのか。普通の夫婦のように見えたが、あまりよい結婚ではなかったのかもしれない。父が、子どもの結婚にあまり熱心ではないのは、そのせいではあるまいか。 「おい、ラーメンができたぞ」  停年後の父は家にいることが多くなり、台所に立っているときなどはむしろ楽しそうだ。保子が二階から降りて来て、あわてて父の手伝いをする。こいつは要領がいい。ほどよいタイミングに現われて、ほどよく手伝う。 「うまい」  一週間ばかり異国の料理ばかり食べていたので、自家製のラーメンがことさらにうまい。 「お父さん、料理人になっても一流になれたかもしれないわね」  ひろみが、メンマを汁の中で泳がせながら言う。父は黙って笑っているだけだ。一家の団欒《だんらん》は、それなりに楽しい。母の死後、父が一番腐心したのが、このことだったろう。思案のすえ、父が始めたのが家族トランプ。四人でナポレオンというゲームをやる。これは今でも続いている。いい大人がそろって……。はたから見れば、へんてこな家族なのかもしれない。 「笹田《ささだ》さんから電話があったわ」  ラーメンを食べ終ると、保子がつぶやきながら柿《かき》をむいて皿に並べる。父から順に手を伸ばす。 「いつ?」 「おとといかしら」  笹田|三彦《みつひこ》は、啓一郎の一番親しい友人である。妹たちもよく知っている。 「なんだって?」 「べつに。タイへ行っているって言ったら、大変だな、ですって。急な用じゃなかったみたい」 「うん」 「結婚はまだですか、って……」 「お前のこと?」 「そうみたい。だから、お兄ちゃんのほうよろしく、って言っておいたわよ」 「馬鹿」  父は口をもぐもぐさせながら庭の木をながめている。視線の先に雑草みたいな茎が群がり薄紫色の花が咲いている。 「あれ、なんて花?」  啓一郎が指をさして尋ねた。 「どーれ? ああ。藤《ふじ》ばかまでしょ」  保子が首を伸ばして答える。生まれたときから住んでいる家である。敷地は二百坪もあって広い。昔はもっと広かったのだが、裏手にマンションを建て、人に貸している。 「ちゃんと知ってんだな」 「自分の家の庭にあるのくらい知ってるわよ」 「ハイビスカスって、今は咲いてないんだろ」 「夏の花よね。でも花屋さんへ行けばあるんじゃないかしら。どうして?」 「香港できれいだった」 「めずらしいわね。お兄ちゃんが花に興味を持つなんて。病気じゃないの」  保子は奇妙に勘のいいところがある。なにか感づいたのかもしれない。 「ご馳走《ちそう》さん」  丼《どんぶり》を台所へ運び、その足で啓一郎は自分の部屋に入った。机の上に郵便物が置いてある。定期購読の雑誌が一冊。証券会社のパンフレット。割烹店《かつぽうてん》の開店通知。エアメールは宛書《あてが》きの文字を見ただけで千倉法子《ちくらのりこ》からの手紙とわかった。  封を切ると、パリの風景を、二、三行記したあとで、 �明後日の便で東京へ行きます。ご都合がよろしければ、来週の月曜日か火曜日の夕刻お目にかかりたいのですが……。赤坂のホテルのほうへご連絡くださいませ�  と、むしろ事務的な調子で記してある。手紙の末尾に書かれた日付から判断して、法子はもう東京に来ているはずだ。電話を待っているにちがいない。  ——半年ぶりだろうか——  法子の仕事はややこしい。法子自身は、 「かっこうよく言えば、文化貿易業って言うのかしらねえ。でも、やっているのは、風呂敷《ふろしき》画商よ」  と自嘲気味《じちようぎみ》に言う。風呂敷に絵を包んで売って歩く——画廊を持たない画商を、いくぶん軽蔑《けいべつ》を含めてそう呼ぶらしいが、目下のところ千倉法子の仕事はそれに近いようだ。いくらなんでも風呂敷には包むまいが、パリに在住して新進の画家に接触し、ほどよい絵を日本へ運びこむ。  啓一郎は部屋を出て、まず法子の泊まっている赤坂のホテルに電話をかけた。だが、法子は部屋にいないらしい。こんな時刻にいるわけがない。忙しく飛びまわっているのだろう。 �火曜日の夕刻七時にホテルのロビーでお会いしたい。また連絡します�  と、フロントに伝言を頼んだ。 「さて……」  課長の自宅に一応電話を入れなければなるまい。  ダイヤルをまわしたが応答がない。家族でどこかへ出かけたのだろうか。仕方がない。夜にでもかけなおそう。今度は笹田の電話番号をまわした。 「よう。タイに行ってたんだって?」  電話を取ったのが笹田だった。威勢のいい声が返って来る。 「うん。飛行機が事故を起こしちゃってさ」 「ほう」 「香港に着いたまま飛び立たない。無理矢理一泊させられちまったよ」 「どこに泊まった」 「エアポート・ホテルってのかな」 「ああ、知ってる。陸橋で繋《つな》がってるところだろう」  笹田は、高等学校で教鞭《きようべん》をとっている。教科は数学。趣味は旅行。口ぶりから察して、香港には何度か行っているようだ。 「うん。俺《おれ》、香港なんか全然知らないだろ。どこににぎやかなところがあるかわからんし、香港ドルと元《ユアン》とがどういう関係かもわからん」 「同じだろ」 「なんだ。そうなのか。じゃあ悩むこともなかったんだな。ホテルの近くを歩きまわって……」 「空港の近くは、あんまりがらのいいところじゃないぞ」 「そうらしい」 「殺されなくてよかった」 「本当かよ」 「あはは。冗談だ。そんなに治安はわるくない」 「ビクトリア・ピークへ行ったよ。いいところだな」 「うーん、まあな。だれでも行くんだ、あそこへは。函館《はこだて》のほうがきれいなんじゃないか」  笹田はビクトリア・ピークの夜景にさほど高い評価を与えていないようだ。考えてみれば、ただの夜景。夢幻なまでにすばらしく見えたのはほかの理由によるものだろう。 「アバディーンへは?」 「行かない。ほんの三、四時間しか時間がなかったから。夜中は眠らなきゃいかんし」 「本当は新界とかランタウ島とか、もっとほかのところのほうが見どころがあるんだ。せっかく行ったんなら、二、三日休暇でも取って遊んで来ればよかったのに」 「そうもいかん。バンコクに一週間もいたから、いい加減東京へ帰りたくなった」 「なるほど。タイ料理を食ったか。辛かっただろ」 「辛い、辛い。なにをやっても辛味がとれない」 「水なんか飲んでも駄目だ。辛いのを消すには砂糖をなめるのが一番なんだ」  笹田は妙なことをよく知っている。 「今ごろ教えてくれても間にあわない。留守中に電話をくれたそうだけど……」  と啓一郎は話題を変えた。 「うーん。用と言えば用だな。たいしたことじゃない」  と、笹田は口ごもる。 「なんだ?」 「嫁さんのご用なんかいらないかと思って」 「俺の?」 「ああ」  電話のむこうで笑っているらしい。啓一郎も笑いながら、 「今、間にあっている」 「話を聞くくらいどうだ?」 「わるいけど、いいよ。わかるだろ、あんたなら」  笹田とは昨日今日の友だちではない。啓一郎の気持ちを理解しているはずだ。啓一郎自身べつに強い信条があって独りでいるわけではないけれど、今、急に人の世話になるつもりはない。法子もいるし麻美という女とも知りあったばかりだし……。 「そう言うだろうと思った。ただ女房が一応って言うもんだから」 「奥さんの筋か」 「そう。俺はあんたの嫁さんのことなんか考えないよ。勝手に楽しめ、ってなもんよ」 「そう楽しんでばかりいるわけじゃないけど。わるいな。奥さんによろしく伝えてくれよ」 「いや、いい、いい。気にするな。どうせ駄目だろうって言っておいた。それより近々一ぱい飲もう」 「いいねえ。ただタイから帰ったばかりだから、今週はちょっと……」 「うん、うん。ひまになったときでいいよ」  バンコクで腹痛に苦しんだことなどを話して電話を切った。  部屋に戻って旅の荷物をほどいた。  ——どうして世間の奴《やつ》は、独り者を見ると、結婚させたがるのか——  啓一郎の見たところ、世の中には結婚に向いていない人というのも相当数いるようだ。人口の二十パーセントくらいはいるんじゃあるまいか。そんな気がしてならない。自分がそうだとは、かならずしも思わないけれど、みんながみんな結婚に向いているとは到底信じられない。結婚してはいけない人間が、結婚をすれば当然いい結果のでるはずがない。  ——それに……あの問題——  啓一郎がいつも不思議に思うことがひとつある。世の中が馬鹿らしく見えて来るほどいい加減なことが、白昼堂々とまかり通っている。  女のことは、ひとまず措《お》くとしよう。だが男はみんな浮気者《うわきもの》だ。結婚のルールを厳密に考えるならば、たいていの男が違反している。  ——みんな嘘《うそ》つきなんだよなあ——  社会的に充分信頼されている人だって、この点だけはまことにだらしない。それがいけないと、啓一郎はそう堅苦しく考えているわけではない。むしろ啓一郎のモラルは、正反対と言ってよい。一生一人の人だけを愛するなんて、そっちのほうが不自然なんだ、と啓一郎は考える。あれも好き、これも好き、それが人間の本当の姿なのだと思う。  桜も好き、薔薇《ばら》も好き。寿司《すし》も好き、ビフテキも好き。俗っぽい言いかただが、それが普通の人間だろう。どんなに好きなものでもそればかりでは飽きが来る。  人間の本性がそうであるにもかかわらず、結婚制度は、表向きずっと一つの趣味を守り通すことを要求する。薔薇を選んだものは一生薔薇を愛《め》で、寿司を選んだものは寿司を食べ続けなければいけない。少なくともそういう約束の上に結婚制度は成り立っている。豪勢な式典まで挙げてまやかしを誓いあう。  心配ご無用。だれもそう厳密には守っちゃあいない。裏側からながめてみれば、あちらこちら穴だらけだ。  もともと本性にさからってルールを設けたのだから、穴でもなければ息苦しくてやっていけない。息抜きの穴があいているおかげで、もろい基盤の上に建てられた楼閣が、なんとか形を保っていられるわけだ。  そんなからくりをみんなが知っているくせに、素知らぬふりをして結婚をする。結婚を勧める。大層な祝辞を述べる。世間の人はよほど茶番が好きなのだろう。  ——嘘はつきたくないな——  と啓一郎は思う。モラルというより美意識かもしれない。おしなべて嘘をつくときの心根は卑しい。顔つきもわるかろう。露見しかけてうろたえるのは、さらに見苦しい。  堅く操《みさお》を守る自信がない以上、独りでいるほうがいい。少なくとも論理の一貫性がある。独り者に不倫はありえない。  啓一郎が三十五歳になってなお独り身でいるのは、なにはともあれ、放恣《ほうし》に自由を謳歌《おうか》したいからなのだが、それとはべつに、ほんの少々ながら�論理を貫きたい�という自尊心の要求があってのことでもある。一方で貞節を誓いながら、ぬけぬけとそれを破るなんて……結婚以外のことでこれをやったら、人格を疑われてしまう。  ——みんなはどうして平気でいられるのか——  不思議と言えば不思議である。啓一郎も、少年のように無垢《むく》な心でこの問題を考えているわけではない。むしろ冷笑に近い。自分を含めた社会全体に対する自嘲《じちよう》、そう言ってもよいだろう。突飛な連想だが、  ——憲法九条を笑えないな——  と啓一郎は思う。  ルール違反をみんなが知っている。知っていながら許容している。疑問をさしはさむことさえ稚気に映る。  ——いい加減なもんだよなあ——  啓一郎自身、自分もそのいい加減さの中にどっぷり首まで浸《つか》っていると、そう意識しないわけではないけれど、どこかにひとつくらい、  ——いや、ちがう——  と、頑《かたく》なに自己主張をする部分があってもいいではないか。とりとめのない思案を続けるうちに旅の荷物は簡単に片づいた。 「おい、これを持って行け」  ひろみが廊下を通るのを見て、紙包みを突き出した。 「なーに?」  ひろみが渋面を作りながら啓一郎の部屋をのぞきこむ。兄貴の部屋は不潔で、くさい、と身ぶりで示している。実際にはそれほどのこともない。むしろ親しみの表われ、おきまりの儀式と言ったほうが当たっている。 「おみやげだ。タイ・シルクのスカーフ。二本あるから保子と分けろ」 「めずらしい。何本も買って来たんでしょ」 「まあな」 「おありがとうございます」  ペコンとお辞儀をしてトントンと二階へあがって行く。すぐに、 「お姉ちゃんには、こっちがいいわよ」 「わりといい趣味ね、兄貴にしちゃあ」  などと姉妹の声がこぼれ落ちて来る。啓一郎は机に向かい、引出しから青い表紙のノートを取り出す。  ——忘れないうちに書いておこう——  中はルーズ・リーフになっていて、ページの頭に女性の名が記してある。  金具をはずし、白い一枚を抜いて�寺田麻美�と書いた。�三十一歳、午《うま》どし�と、そのすぐあとに記した。昭和二十九年の生まれだが、誕生日まではわからない。住所も港区だろうが、それから先はまだ聞いてない。空白は、これから少しずつ埋めていく。  勤務先と自宅の電話番号を二つ並べて書いた。�雑誌記者。お茶が専門。流派なし。どの流派に対しても、いい顔をしているよし�と続けた。あとは思いつくまま勝手な感想を記す。 �三角の鼻。稜線がまっすぐ。とても上品な印象。造作ははっきりとしているが、全体としてどこかおぼろな印象がある。大和《やまと》なでしこなんだなあ、やっぱり� �花のこともくわしそう。酔芙蓉《すいふよう》。朝は白くて、だんだん赤味を帯び、やがてまっ赤になる花。ちょっとおもしろい� �アユタヤの夕日が美しいと言っていた。きらびやかなタイの寺院は、あまり好みにあわない�  思い浮かぶことは、そう多くはない。  これは芳名録であると同時に日記のようなものである。芳名録と日記をコンピュータに記憶させ、親しい女性ごとにデータを引き出したら、こんなものが出て来るのではあるまいか。  四、五年前からなんとなくやり始めたことだ。何枚か書いてしまうと、書かない人は粗末に扱っているようで気がひける。だから書く。そして書きたす。情報がたくさんそろったところで読み返すと、それぞれの人となりが浮かんで来る。記憶が新鮮になる。思い出が戻って来る。 �千倉法子�の欄には、さすがにたくさん書いてある。五ページにわたっている。啓一郎は頬杖《ほおづえ》を突きながら、しばらく読み続けた。 [#改ページ]   黒百合《くろゆり》  中座啓一郎が赤坂のホテルに着いたとき、腕首の時計がピコンと鋭利な音を鳴らした。自動ドアの開閉を境にして工事の騒音が消え周囲はロビーのさんざめきに変った。  午後七時ちょうど。それが千倉法子《ちくらのりこ》と約束した時間だった。だが腕時計はほんの二分ほど進んでいる。だから厳密には少し早めに到着したことになる。  正確な時刻に合わせるのはやさしいが、啓一郎は故意に二分ほど進ませておく。まさかのときにこの二分がきっと役立ってくれるだろう。列車に乗り遅れそうになったとき。大切な約束に遅刻しそうになったとき……。二分あれば、五百メートル近い距離を走れるだろう。待たせるよりは待つほうがいい。  大理石を敷きつめたロビー。高い天井《てんじよう》。玄関から右手のティー・ラウンジの入口まで周囲を見まわしながらゆっくりと歩いた。  法子らしい姿は見当たらない。  どこか目立たないところに立っているのなら、むこうが見つけてくれるだろう。啓一郎は踵《きびす》を返し、もう一度玄関のほうへ戻って、同じ大理石のベンチに腰をおろした。ひんやりと冷たい。ズボンの布地を通して、石の堅さが伝って来る。  フロントのほうから黄色いワンピースの女が近づいて来る。一瞬法子かと思って腰を浮かせたが、近寄るにつれ、もっと若い娘とわかった。法子はあんな色の服を着ない。  ——わかるかな——  そう思ったのは、法子がどんな恰好《かつこう》で歩いて来るか、どんな顔つきだったか、それがうまく浮かばない。ずいぶん親しい仲なのだから、記憶のないはずもないのだが、こんなときにはちょっと不安になる。少し様子の似た人がいると、  ——あれかな——  と近づいて行く。  それから先は首振り扇風機の要領。さりげなく相手の顔を見て、またゆっくりと首をまわしてもとに戻す。  ——やっぱりちがったか。こんな顔じゃない——  などと思いながら……。  やがて当人が現われると、  ——この顔だ、この顔だ——  まちがいようもないほどはっきりと記憶していたことを確認する。  法子とこの前会ったのは、桜の季節だった。六カ月ほど前のことだから、法子も、こっちも、そう様子がちがっているはずもない。法子はどこから現われるだろうか。このホテルに逗留《とうりゆう》しているはずだが、それでも玄関から入って来る可能性が皆無とは言えない。車で着くかもしれないし、左手の繁《しげ》みを抜けて歩いて来るかもしれない。ロビーの奥手も二つの通路に分かれている。啓一郎は四方に視線を配って待っていた。  政治家らしい男がホテルの玄関に着いた。顔に見覚えがある。現職の、なんとか大臣ではなかったか。拍手やら握手やらお辞儀やら、ひどく騒々しい。政治家は両膝《りようひざ》に掌《てのひら》を当て、顔をあげたままお辞儀をする。迎えるほうも同じように体を倒すが、こちらのほうが少し頭が低く垂れる。  ——どの男がSPかな——  啓一郎はしばらく玄関先の風景をながめていたが、ふと気づいて首をまわすと、ティー・ラウンジの前からロビーをよぎって来る紺色のスーツが映った。ブラウスはワインカラー。  ——これが法子の色だ——  わけもなくそう思う。立ちあがって歩み寄った。  法子は下を向いて歩いている。だが、たしかな足取りは、すでに啓一郎がそこにいることを知っているからだろう。すぐに距離は縮まり、法子は計ったように足を止め、首をあげ、 「久しぶりね」  と笑う。 「ああ、ほんと。元気?」 「ええ、まあ、なんとか」 「今度はなに?」  日本に来る目的はその都度ちがっている。パリを根城にしてヨーロッパの文化財を日本に紹介する。斡旋《あつせん》する。新聞社や文化団体からの依頼を受けて必要な展示物の借り出しを交渉したり、まれにはめずらしい劇団や舞踊団を選んで渡日の企画を立てたりする。去年はアール・デコの名品展を持って来ていた。 「呼び屋みたいなものか」 「もっと品がいいわよ。そうでもないか。似たようなものね」  一人でやっているわけではない。むこうにそういう仕事を専門に請け負う商社があって、法子はそこの職員なのだろうが、見たところかなり気ままに、敏腕に動いているようだ。面差しはやさしいが、芯《しん》は強い。 「今度は、絵をちょっと持って来たの」 「ああ、そう」 「お変りなく?」  法子はベンチに腰をおろし、ハンドバッグの中から細い鉛筆みたいなパイプを取り出す。シガレットを差し込む。二十センチ近い棒を口にくわえるのだから、大げさに映りかねない身振りだが、よく板についていて厭味《いやみ》にならない。煙が二人のあいだをゆっくりと流れて行く。 「変りようがない」 「そうよね」  法子が含むように笑うと、目尻《めじり》に何本もの小皺《こじわ》が寄る。学生の頃《ころ》からそうだった。三十歳を過ぎて、きっと小皺の数も増えたのだろうが、かえって表情に奥行きのようなものが加わった。小娘ではない、円熟した女の味わいがある。 「奥さんは?」  法子はタバコを消しながら尋ねた。  質問の意味は明瞭《めいりよう》だ。�結婚はどうなっていますか�という問いかけだろう。この質問に答えるのはやさしい。 「いや、まだだ。なんの兆候もない」  事実がその通りなのだから、啓一郎は苦笑しながら端的に伝えた。  法子は会うたびに同じことを尋ねる。啓一郎が戸惑うのは、  ——法子はどんなつもりでこれを聞くのか——  そのあたりの心境をふと案じたからだ。 「ああ、そうなの」 「たまにはちがった答えを言ったほうがいいかな、愛想があって」 「そうよ」  法子は浅黒い。目の表情が生きている。どこか黒豹《くろひよう》みたいな印象がある。  考えてみれば、不思議な関係だ。学生の頃に知りあった。啓一郎のほうが一年先輩だった。卒業間近にバタバタと恋愛みたいな関係になった。男と女が親しくなり、体まで交えたのだから�これはまちがいなく恋愛�と、胸を張って言ってもよさそうなものだが、そう言いきるには、少し不足な部分がある。はみ出しているものがある。  煎《せん》じ詰めれば、法子が結婚を望んでいなかったから……。もっとほかのところに野心を抱いていたからだろう。法子のほうから見て、啓一郎を好きとか嫌《きら》いとかいう問題ではなく、もともと結婚というものに強い憧憬《どうけい》を抱いていない女らしい。そう考えるのが、一番実情に近いだろう。  啓一郎のほうも、積極的に妻を持ちたいと思ったことがない。さほど深い考えもなく勝手気ままに生きているうちに、三十代のなかばになってしまった。ちまちましたマイホーム主義なんか、格別おもしろくもあるまい。少しは人とちがった生き方をやってみたい。楽しく生きる道はいく通りもあるだろう。  ——第一、俺《おれ》はとても一人の女ですみそうもない——  男はみんなそう思っている。それを自覚している。にもかかわらず結婚をして、それからほかの女に手を伸ばす。この点からながめれば、結婚というものは初めから虚偽を内蔵している営みだ。  そんなことなら、初めからやらないほうがいいではないか。そんな気分がここ数年、啓一郎の中に宿っている。  ——法子も同じかな——  帰国するたびに法子は啓一郎を呼び出すけれど、いつまでもこんな状態で女は満足できるのだろうか。 「お食事は?」 「まだだ。あんたは?」 「おいしいもの食べましょ」 「なにがいい?」 「そうね、ホテルはあきちゃった。いつか行ったレストラン。この近くの……」 「平川亭かな」 「そう。和風の洋食。あれが食べたいの」 「よかろう。行こう」 「予約は?」 「直接行ったほうが早いくらいだ」 「一応聞いてみたら。混《こ》んでいたらつまらないわ」 「じゃあ、そうしよう」  啓一郎が電話で予約をとって戻って来ると、玄関のところで法子が外国人相手に話している。  ベル・ボーイが心配そうに聞き耳を立てている。タクシーの運転手と外国人のあいだで、なにかトラブルが起きたらしい。話しているのは英語ではない。多分フランス語だろう。法子が割って入ったおかげで悶着《もんちやく》はすぐに解決した。 「メルシー」 「ジュ・ブー・ザン・プリ」  肩で聞き流し、二人並んで歩いた。 「いい度胸だな」 「なんでしょう?」 「日本でフランス語をしゃべるなんて。通じると思っているのかな」 「ほんとね」 「フランス人て、英語がわかるくせに、わざとフランス語で話すって本当か?」 「言えるわね。空港なんかは、この頃、ちょっとちがうけど」 「いまだに自分たちが世界の盟主だと思っているわけだ」 「滑稽《こつけい》に見えるときもあるけど、あれも一つの見識ね」 「そうかね」  清水谷《しみずだに》公園では、四、五十人の集会が気勢をあげている。 「フランスに来た以上、フランス語をしゃべりなさいって……基本的にはまちがっていないわ。そういう姿勢を貫いていれば、フランス語学校も儲《もう》かるし、ガイド業もはやるし、フランス人はけちだからそこまで考えているのよ」 「なるほど」 「今朝、テレビで日本国の総理大臣様が英語を話していたけど……」 「うん。本人が思っているほどうまい英語じゃないらしい」 「でも、うまいの、下手だの、アメリカ人につべこべ言われることはないわね。首相があなたの国の言葉を話してあげているのです、喜びなさい、それでいいのよ」 「正論だな」 「貿易の不均衡なんていろいろ言われているけど、日本人が英語を勉強するために支払った労力をお金に換えたら、どのくらいの金額になるかわからないわ」 「一方的に支払っている」 「そうよ。日本人てぜんぜん国際的じゃないし、わるいところがいっぱいあるんだけど、この点については、言ってもいいこと、たくさんあるわね。フランス人なら絶対にうまく利用するわよ」  話しているうちに平川亭に着いた。 「いらっしゃいませ。ずいぶん近くにいらしたのね」  平川亭のドアを押すと、黒いローブのママが歩み寄って来た。  ママといっても、この店は姉妹でやっている。どちらもほどほどに美しい。よく似ている。二人並んでくれなければ、どちらがどちらかわからない。今夜の人は、姉なのか、妹なのか。はなはだ心もとないけれど、むこうは啓一郎をよく知っている。  一番奥のテーブルに案内された。仕切りのガラスには、二人の姉妹のイメージが彫ってある。壁のフレスコ画も凝っている。そう繁く利用する店ではないけれど、雰囲気《ふんいき》は申し分ない。 「とりあえずシェリーをもらおうか」 「私はキール」  ウエートレスはグレーのローブをまとっている。そこが二人のママたちとちがっている。  ——どういう姉妹なのだろう——  この界隈《かいわい》に店を持つとなれば、半端《はんぱ》な資金では間にあわない。だれか陰のパトロンでもいるのだろうか。しかし、話を聞いているぶんには、三十代の姉妹が本当の支配人らしい。  ——親の遺産がたっぷりあったりして——  下衆《げす》っぽい勘ぐりが頭をよぎる。  ——うちの妹どもは、どうかな——  この店に来るたびにそれを思う。保子《やすこ》二十六歳、ひろみ二十歳、どちらもいっぱしの口をきいているが、すこぶる頼りない。とりわけ二十六歳のほう。よほど居心地がよいらしく、いっこうに家を出て行く気配がない。父親も「まあ、いいじゃないか」と、娘の結婚に熱心ではない。保子もひろみも、なにか糊口《ここう》をしのぐ道を考えておくべきではあるまいか。 「お肉の網焼きにしようかしら」 「俺もそれがいい。ワインは?」 「そうね、少し」  ワイン・リストを見て、法子がロゼを指差した。 「絵を売りに来たんだって?」 「ええ」 「どんな絵?」 「おもに版画ね。油絵もほんの三枚ほど」 「それで商売になるのか」 「ほかに展示会の打ち合わせもあって……。こっちがなかなか」 「うまくいかないのか」  オードブルの皿の上を、法子の操るフォークとナイフが滑らかに動く。 「人生って、すべて二つのことで成り立っているんですって」 「へえー?」 「やりたいけど、できない。できるけど、やりたくない」 「なるほど」  うまいこと言う。 「フランス人が言うのか」 「ううん、ゲーテじゃなかったかしら」  黒い目がいたずらっぽく笑った。 「中さん好みでしょう?」 「なにが」 「いまの言葉」 「まあな」  たしかに人生は二つのことで成り立っているらしい。�やりたいけど、できない。できるけど、やりたくない�。なにとはすぐに思い出せないが、毎日の生活は、たいていこのどちらかに分類できるようだ。会社の仕事……。女性関係もそうかな。  食卓の一輪ざしに百合《ゆり》の花がさしてある。一つは開いて、一つはつぼみのまま。黒味を帯びた赤の色はめずらしい。 「黒百合……かしら」 「うん」 「めずらしいわね」  百合とはわかるが、黒百合かどうか。そこまでは啓一郎の知識が及ばない。わけもなく香港《ホンコン》で知りあった女を思い浮かべた。寺田|麻美《あさみ》……。赤いハイビスカスを振っていた。 「女の人って、やっぱり花の名前をよく知っているもんだな」 「そうかしら。人によるわ。私は駄目。知らないのがいっぱいありますもん」  アントレはフィレ肉の網焼き。ナイフを引くと心地よく切れて、赤紫の断面を示す。 「おいしいわ」 「本場より?」 「あっちじゃソースがいろいろあるでしょ。私、お肉は単純な味つけのほうが好きだから」 「肉なんてものは、肉屋でいい肉を買って来て、フライパンで焼いて、あと醤油《しようゆ》と化学調味料でもかけて食べれば、たいていうまいんじゃないのかな」 「中さんは化学調味料が好きですもんね」  と、法子は上目遣いで笑う。 「だから食通に軽蔑《けいべつ》される」 「だって、あれはみんな同じ味になってしまうもの」 「そう。たしかにあんなもの、おいしがっているようじゃ、たいした味覚の持ち主じゃないさ。だけど、うちの親父《おやじ》も好きでね、よく言ってるんだ。�いろんな味がわかるのもいいけれど、化学調味料を一さじかけりゃ、みんなおいしいってのも、長い人生、どっちが得かわからない�って……」 「おもしろいわ。いつも上等なものばっかり食べられるとは限らないですもんねえ」 「その通り」  啓一郎は、頷《うなず》きながらも、なにか釈然としないものを感じた。自分で言いだしたことなのに、納得できないところが少しある。味覚はそうかもしれない。だがほかのこともみんなそうだろうか。いい絵がある。つまらない絵がある。どちらも同じように見えるのでは情けない。  美しい花がある。つまらない花がある。なんの関心も持たずに、ただ同じようにながめていたのでは、おもしろ味が薄い。  ——女性についてはどうかな——  ほろ酔いの頭にとりとめのない思考が昇って来る。 「文化ってものは、結局のところよいものとわるいものとを、きちんとより分けるところから始まるわけだろ」  啓一郎の声に、法子が、  ——なにかしら——  とばかり視線をあげる。フォークの背に野菜を上手に載せながら。 「化学調味料をかけたら、みんなおいしいってのは、一生の食生活としては、たしかに便利だし幸福の総量は大きいだろうけれど、そっちの方向へ進んでしまったら、袋小路《ふくろこうじ》だ。文化としちゃ、なんの進展もないな」 「ふふふ」  法子がおかしそうに笑った。今度は啓一郎のほうが怪訝《けげん》な視線を投げる番だ。 「なんだかフランス人と話しているみたい。理屈っぽくて……」 「ああ、そうか」 「でも、おもしろいわ。絵を売っていても同じこと感じるときがあるわね。つまらない絵でも、本人がそれを見て�いいな�と思って毎日いい気分でいられるなら、それでいいような気もするのね。でも、もう少しレベルの高い美しさもわかってほしいと思うときもあるし……」 「そのほうが商売にもいい」 「それはどうかしら。化学調味料で満足していただけるほうが、商売はやりよいところもあるわ」  啓一郎は法子《のりこ》の話を聞きながら、頭の半分でもう一つの思案を揺らしていた。  ——女性についても化学調味料をかけている奴《やつ》のほうが、しあわせなのかもしれない——  あまり厳密な判断力を持っていると、かえってあらばかりが見えてしまう。どの女を見ても、みんな食指が動くというのも困るけれど、幅広く、数多く、平均点くらいならみんな好感を持てるほうが人生は楽しい。化学調味料をかけて、ほどほどおいしく味わえるのとよく似ている。舌に鋭い味覚を持っているほうが、いつも幸福とは限らない。 「お父様、お元気ですか」  法子はグラスについた口紅の色を指先で拭《ぬぐ》って尋ねる。 「うん、相変らず……」 「お仕事は?」 「相談役ってのかな。週に三回くらい、もとの会社へ顔を出している。あとは家でぶらぶらして……時折料理を作ってくれる」 「お上手なんですってねえ」 「特別上手じゃないけど、台所に立つのが嫌いじゃないらしい。不思議な人なんだ」  ウエートレスが近づいて来て、話が途切れた。 「デザートは、なんにしましょうか」 「もうお腹《なか》いっぱい。コーヒーをいただきたいわ」 「僕もそれでいい」  冷気が吹き込み、たて続けに二組新しい客が店に入って来た。一組は商用のビジネスマンたちらしい。もう一組は若い男女。男が得意そうに店の内装を説明している。  ——恋の始まりだろうか——  見ていて啓一郎はちょっと照れくさい。 「このあいだタイへ行って来た」 「あら、そう。めずらしい。お仕事で?」 「うん。ポストが変って、だんだん外国へ行く機会も多くなりそうだな」 「ヨーロッパへは?」 「いずれ行くかもしれない。先進国はほかに担当者がいるけど」 「ご案内しますわ」  ウエートレスがコーヒーを運んで来た。法子はいつもブラックで飲む。ミルクも砂糖も、丁寧な言葉遣いと身ぶりで断わっている。 「帰りに飛行機事故にあって、香港《ホンコン》で一泊させられてしまった」 「本当?」 「香港へ行ったことある?」 「ええ、一度だけ」 「俺《おれ》はなんにも知らなかったんだよな。いきなり空港のホテルへポンと放《ほう》り出されてしまって……。案内書もないし、名所の名前もわからない」 「どうしました?」 「それでもビクトリア・ピークだけは行ってみた」 「ああ、あそこね」 「行った?」 「行ったけど、あいにく雨降りで」 「きれいだった」  本来ならもう少し詳細に話すテーマなのだろうが、この話題には少々うしろめたさがつきまとう。  啓一郎は一人でビクトリア・ピークへ登ったわけではない。女の連れがあった。それが一番主要な中身でありながら、そのことに触れるわけにはいかない。法子にはたいていのことを、ざっくばらんに話しているけれど、やはり話してはいけないこともある。  日常の会話には、思いのほか繁《しげ》くこんな風景が潜んでいるのかもしれない。一部分だけを話す。語られている部分はけっして嘘《うそ》ではない。だが語られていない部分にこそ、とても大きな問題がある。それを故意に話さない。全体としては嘘と同じような効果をもたらす。 「たしかケーブルカーがものすごく急で」  法子が長いパイプを取り出してタバコを喫《す》う。啓一郎もポケットのタバコをさぐった。 「そう。まわりのビルが傾いて見えた」  本物の嘘が混りこむ。啓一郎はそのケーブルカーには乗らなかった。 「そうだったわね」 「教訓を思いついた」 「ええ?」 「傾いているのは自分のほうなんだ。それなのにまわりのほうが傾いて見える」 「人生にも通用するってわけね」 「まあ、そんなとこ」  会話が途切れると、 「ちょっと失礼します」  法子が化粧室に立った。  啓一郎は残りのコーヒーを飲み干し、クレジット・カードを出して勘定を頼んだ。 「おいしかった」 「またどうぞ」  姉か妹かわからないママと話していると、法子が戻って来た。 「ごめんなさい。ご馳走《ちそう》になってしまって。よかったのかしら」  平川亭を出たところで法子が背後からつぶやく。 「たまにはね」 「この前もご馳走になったわ」 「仕事で会食するときは、やっぱりあんたが払うの、むこうでも?」  夜の輝きを仰ぎながら暗い歩道を歩いた。啓一郎のほうが首ひとつ高い。 「そうよ。相手がよほど偉い人ならべつですけど」  法子は舗装の凹《くぼ》みを避けながら、 「なまじお食事をご馳走になったりすると、べつな意味が加わったりするから」  と言う。 「どういうこと?」 「お誘いに応じてもいいですって……」 「なるほど。やっぱり仕事の中にも恋愛ごっこが介入するわけ?」 「そうよ。とくにフランス人はそれなしってこと、ないわねえ」  説明しにくい感情が啓一郎の心をよぎった。あえて言うならば、軽い嫉妬《しつと》のようなものだろう。法子もときに女であることを武器にして仕事をやっているのだろうか。 「画家の恋人になれば、有利だもんな」 「そりゃ当然そうでしょ。でも、なんて言うのかな、そのへんが日本とちがって、どこかスマートなのよね。恋愛は恋愛としてあるのよ。�俺の恋人になれば俺の絵を売らせてやる。だから……�って、そんなギラギラした感じじゃないわ。たまたま意気投合して恋愛関係になっちゃった。その結果、仕事にも便をはかってあげようって……そりゃ打算はおたがいの胸のうちにあるでしょうけど、それがそうどぎつく表面に出て来《こ》ないのね」 「うん」  話しながらホテルのドアを抜けロビーを横切ってエレベーターへ向かった。 「お帰りなさいませ」  ベル・ガールが丁寧に頭を垂れる。 「ただいま」  外国人の宿泊客を次々に降ろして三十七階で止まった。 「どうぞ」  早足で進む法子のあとを追った。啓一郎はここでも香港の夜を思い出す。  法子は部屋のドアを開け、 「散らかってますけど……」  と、目顔で啓一郎を招き入れる。ドアを閉じながら、 「むこうで知りあった方に、日本の一流ホテルの社長さんがいらして……」  と笑いながら話しだした。 「うん?」 「私、前からちょっと疑問に思っていたんでその方にお尋ねしてみたのよね。ホテルというのは今でも正式な夫婦でなければ一つ部屋に入っちゃいけないものなんですかって」  廊下を早足で歩きながら、法子もなにほどかのうしろめたさを感じていたらしい。  日本に帰って来たとき、法子はいつもこのホテルのツイン・ルームを借りる。世田谷《せたがや》に弟夫婦がいるが、そこへはひまがあればちょっと顔を出す程度らしい。 「なにか飲みますか」  部屋は法子の言葉に反してさほど散らかっていない。右手のベッドにはカバーがかかったまま。左手のベッドは毛布をまったいらに伸ばして、寝乱れたあともない。デスクの上だけが書類やらタイプライターやらでにぎわっていた。 「ビールを飲むかな」 「待って」  法子は上着をクロゼットに納め、グラスとビール壜《びん》をそれぞれ二つずつあぶなっかしい手つきで持って戻ってきた。ソファに腰をおろし、それぞれのグラスにビールを注《つ》ぐ。窓の外に無数の灯《ひ》が散っている。東京の夜はどこまでも果てがない。 「さっきの話ですけど……」  法子はソファの背に両腕を載せ、全身でTの字を作ってつぶやく。テーブルの上には、平川亭と同じ黒百合《くろゆり》が一輪さしてある。 「うん」 「ホテルの二人部屋に男女が泊まるときは夫婦でなきゃ駄目って、べつに利用規定に書いてあるわけじゃないけど、一流ホテルじゃそういう雰囲気になっているでしょ、なんとなく」 「そうらしい」 「でも、このごろはいろんな男女関係があるわけだし。そりゃコールガールが出入りしたり、ラブホテル同然に使われたりしたんじゃ、ホテルのほうも困るでしょうけれど、恋人同士がおたがいに納得ずくで利用するぶんには、ホテルがあれこれ干渉する理由はないでしょ」 「そりゃそうだ」 「それで日本のホテルの社長さんに尋ねてみたのよ、今でも夫婦でなきゃ駄目なんですかって」 「なんて言った?」 「おかしいわ。今でもホテルの立場としては、そうなんですって」 「へえー。驚いた」 「キリスト教のモラルね。やっぱりホテルの発生から考えて」 「じゃあ夫婦でない二人が一室に泊まろうとしたら……」 「それも聞いたわ」 「うん?」 「原則としては、お断わりするべきことだし、実際に断わることもあるそうよ」 「日本で? そうかなあ」 「現実には黙認しているでしょ。でもホテルとしては、けっして結構なことじゃないのね。だから嘘《うそ》でもいいからお客さんには�夫婦だ�って装ってほしいんですって」 「明らかに夫婦と見えない二人でも?」 「そうらしいわよ。明々白々の嘘をつくなんて、かえって馬鹿《ばか》らしい気がするけど、ホテルはそうしてほしいんですって」 「私どもは深い追及をいたしません。本人の申告を信頼します。責任はどうぞそちらで……ってことか」 「そういうことね」  法子は愉快そうに笑っている。 「夫婦には見えないかなあ」  壁も白ければテーブルも白い。黒百合が白いテーブルの表面に花粉を落としている。部屋の中が明るいので、ガラス窓に二人の影がぼんやりと映り、それを貫いて夜の街が見えた。高速道路は今夜も混んでいるようだ。 「中さんと私?」  法子は指先で長いパイプをもてあそんでいる。 「ああ」  知りあって十年あまり。恋愛関係と呼んでよいような時期もあった。今でも充分に親しい。年恰好《としかつこう》は夫婦でもおかしくはない。 「見えないわね」  確信のこもった声で言う。 「どうして?」 「夫婦じゃないから」 「なるほど」  これ以上明快な答えはない。たしかに本当の夫婦は、なにかしらそれらしい気配を放っているものだ。 「ここも同じ百合だな。今、安いのかな。花にはみんな花言葉があるんだろ?」  啓一郎が顎《あご》でテーブルの黒百合をさす。 「そうみたい」 「百合はなんだ?」 「色によってちがうんじゃなかったかしら。白はたしか純潔。これだけ色の濃いのは嫉妬《しつと》かしら。わからない」 「嫉妬ね。さっきもあったな、平川亭で」 「百合って私は好き。デザインとして、とてもきれいだから。でも花粉が白い服なんかにつくと大変なの」  法子は指先に、こぼれた花粉をつけて拭《ぬぐ》った。グラスもビール壜《びん》もからになっている。 「もう少しめしあがる?」 「いや、俺はいい」 「じゃあ私もたくさん」  啓一郎は腕首から時計をはずしてテーブルに置いた。 「少し汗を流して来る」 「どうぞ。浴衣《ゆかた》が……」  と法子は言いかけ、立ちあがって引出しから糊《のり》のよくきいた長方形の浴衣を取り出した。 「ありがとう」  啓一郎はハンガーを一つ持ってバスルームに入った。  バスルームも白い。バスタブもミルク色。二つの栓《せん》をひねってバスタブにお湯を満たした。  シャワーだけではもの足りない。首までお湯の中に浸《つか》らなければ、風呂《ふろ》に入った気がしない。湯加減を計り、バスタブに足を伸ばした。水音が絶えると、部屋のほうからタイプライターを打つ音が聞こえた。だが、それもすぐにやんだ。  石鹸《せつけん》を体にぬりつけ、もう一度バスタブに沈んだ。わけもなくこの瞬間に麻美《あさみ》のことを思った。  ——ちょっと調子がよすぎるかなあ——  そんな気がしないでもない。  バスルームを出ると部屋はカーテンを閉じていた。 「お先に」 「私もちょっと失礼させていただくわ」  法子はワインカラーの夜着に着替えていた。  啓一郎はバスルームの響きを計りながらテレビのスイッチを押した。つぎつぎにチャンネルを替えてみたが、あまりおもしろそうな番組はない。動物の生態を映している画面に戻してタバコをくわえた。カナダの森林が映り、二匹の穴熊《あなぐま》がしきりに求愛の仕ぐさを演じている。興味はあるが、こんな夜にふさわしい映像ではない。  スイッチを押した。  ベッドに寝転がり、これから始まる営みを思った。  ——法子と何回抱き合っただろうか——  思い出すのもむつかしい。初めは山中湖のバンガローで、稚拙な抱擁だった。  啓一郎が博多《はかた》に勤務していたとき法子が訪ねて来てくれた。それを待つために独身寮を出てアパートを借りた。六畳間とキッチンだけのアパート。あのころが一番熱く燃えていたかもしれない。  ——今はどうかな——  法子を抱くことが楽しくないはずがない。今日一日、仕事の最中にもずっとそれを考えていた。奇妙な言いかたかもしれないが、昨今は体がなじんできて抱くたびに新しい喜びがある。  ——思いのほか奥行きの深いものだな——  と感ずるときがある。法子の反応にも、そのつど新しい発見がある。だが……なんだろう、かすかに釈然としないものがある。愛は心の営みではなかったのだろうか。 「男と女って、なんなのかな」  啓一郎は白い天井に向かってつぶやいてみた。  煎《せん》じつめれば、体の関係。それを愛という名の包装紙で体裁よくくるんでいる。そんな風景が見えてくる。もちろん包装紙の価値を否定しない。包み紙がすばらしければ、それだけ中身もすばらしいと信ずることができる。  だが、もし体の関係がけっしてありえないものだとしたら、男は女を必要とするだろうか。プラトニック・ラブでさえ、ネガティブな形で体の関係を必要としている。それを裏側のエネルギーとして燃焼している。  人間は愛しうるのだろうか。原点を男と女にすえて考えてみれば、二つの性は肉体を通しておたがいを必要としあっている。必要であればこそ相手を求める。ほかのもので間にあわせるのはむつかしい。そうである以上、そこに愛が発生する基盤がある。  けっして二つの性は、心で相手を必要としているわけではない。本源は肉体のほうにある。少なくとも男はそうだ。体がなじむにつれ愛が深まるという作用もたしかにある。女もそうなのか。  ——法子も男の体を求めているのだろうか——  そのあたりが読みきれない。日本に帰って来るたびに啓一郎を呼び出すのは、なぜだろう。  バスルームのドアが軋《きし》んだ。 「香港ではどこでお泊まりになったの」  声と一緒に水脈を伝うように香水の匂《にお》いが飛んで来た。 「エアポート・ホテル。泊まったんじゃない。泊められたんだ」 「たしかペニンスラというホテルがすてきなのよね。古い感じのホテルで……。昔は、東洋人は入れてもらえなかったんですって」  話しながら法子はカバーのかかったベッドに腰をおろした。黒い髪を片側に寄せて、太く編んでいる。肌は浅黒い。むらのない滑らかな黒さだ。  目がとても大きい。それが法子の特徴だ。寸法を計ってみて、本当に大きいのかどうか。大きいとしても、せいぜい一ミリか一・五ミリくらいのちがいでしかあるまい。大きさそのものより目の輝きが鋭いのかもしれない。黒目が大きく、それで目全体が大きく見える。  そしてまつげが長い。  しばらく忘れていたが、啓一郎は急に思い出した。ずっと昔、まだ法子と知りあって間もないころ�まつげの長い人だな�と、ながめた記憶がある。もし画家が法子の似顔を描くとしたら、浅黒い顔とアンバランスに束ねた髪、それから目とまつげだけをくっきりと描いてカリカチュアを作るだろう。 「いやだわ。なにを見ているの」  指先で眉間《みけん》のあたりを撫《な》でている。 「顔を思い出そうとすると、目だけが出て来る」 「私の?」 「そう」 「そんなに大きいかしら」 「光っているんだな、目が」  情事の前奏に人はなにを語るものなのか。恋の手くだに巧拙があるとすれば、きっとこのあたりに大切なポイントがあるだろう。 「日本語にない言葉がある」  照れくささがあって、ついおかしなことを口走ってしまう。 「そう?」 「うん。たとえば、電話の受話器」 「ええ?」 「送話器も一緒にくっついている。昔は、受話器だったろうけど、今は適当な言葉がない」 「フランス語はどうかしら。アパレイユ。ただ機械って言うことが多いみたいね」  法子は戸惑ったようにつぶやく。  ——この人、なんでこんな話をするのかしら——  そう訝《いぶか》っているにちがいない。  啓一郎は視線をそらしたまま告げた。 「アイ・ラブ・ユーも、日本語にないね」 「ああ、そうね」  納得の声を聞きながら、ベッドから立った。あかりを暗く落としベッドのすそをまわって法子の前に立った。法子の首が�なにかしら�とばかり上向くのを待って、肩を抱きながら唇を重ねた。 「あなたらしいわ。アイ・ラブ・ユーが日本語にないなんて……」  唇が離れると、法子が言う。薄く笑っている。  視線が啓一郎の目の中をのぞきこんでいる。まなざしは�あなたが好きです�と、日本語ではめったに告げない言葉を告げているように見える。法子の目は、いつも雄弁だ。とりわけこんな瞬間には熱いものを語りかける。  ——本当かな——  そのまなざしを疑っているわけではない。だが……目はなかなかの演技上手である。本心を誇張したり、包み隠したりする技を知っている。本当の心理は目よりもむしろ口もとに表われると、そんな心理学者の説もある。  啓一郎はもう一度唇を寄せ、肩を抱えながら法子《のりこ》をベッドの上に誘った。  法子は手早く、ガウンをぬぎながらスルリと毛布の下に身を潜めた。肩甲骨《けんこうこつ》と細い腰が薄闇《うすやみ》を裂いて、隠れた。啓一郎も浴衣を払って、その隣に滑りこんだ。  そのまま抱きあい、おもむろに唇を重ねた。舌先をさしこむ。まるで返礼でもするように法子の舌先が堅く尖《とが》って入って来る。微細な動きの中に異国の文化を思った。  ——敏腕なジャポネーズは、むこうでも時折こんな口づけを交わしているのだろうか——  法子の肌はすべすべとして心地よい。潤いもある。餅肌《もちはだ》と言えば、普通は色白の肌を言うのだろうが、法子は小麦色の餅肌だ。筋肉には、やわらかく押し返して来るようなばねがある。愛の仕ぐさもけっして受け身ばかりではない。男女平等……。こんなところにも法子の主張があるらしい。  ほとんど言葉はない。  愛撫《あいぶ》が深まるにつれ、法子は首を振る。いやいやをしているようにも見えるし、自分の意識を鮮明にしようと努めているようにも見える。  乳房はけっして大きくはないけれど、とても鋭敏だ。乳首を愛されるよりも、ゆるやかな丘陵を下側からそっと持ちあげられるのが好きだ。そんな気配がある。そんな愛撫を受けると、やすらぐような豊潤な喜びが広がるのではあるまいか。体の反応が、そんな生理を伝えている。毛布の動きにつれ、香水が匂《にお》いを増したようだ。  ——いつもこの匂いだ——  法子はベッドに入るときにしか香水をつけない。芳香が男の官能をくすぐる。いつのまにか条件反射が備わってしまった。  ——なんという名前の香水だろう——  尋ねようと思いながら情事が終わったときには忘れてしまう。  はっきりとした興奮が女体を浸し始めた。ため息が漏れる。人差指の腹を噛《か》んでいる。顔には、焦燥とも苦悶《くもん》とも陶酔ともつかない微妙な表情が映り……今、あの犀利《さいり》な法子の理性はどこを飛翔《ひしよう》しているのだろうか。啓一郎は、体を起こし、重みのかからないように静かに女体を覆った。  いったん営みが始まってしまえば法子は、みずからの喜びに対して貪欲《どんよく》である。弓を作る。足を開く。爪《つめ》を立てる。ため息が細く糸を引く。頭を絶えず左右に振りながら……。  内奥《ないおう》には、明らかに歓喜の要所が二つ、小さな距《へだ》たりを置いて潜んでいるようだ。一つは浅く、一つは深く。体の角度によって接点が変る。反応が微妙に異なる。  啓一郎は左腕で自分の体を支え、もう一つの手をまわして豊満な領域から隠微な部分へと渉猟する。 「いや……」  法子は拒否を伝えるように、さらに激しく首を振るのだが、次の瞬間、喜びはさらに深く内奥に達する。  啓一郎は思う。考えても仕方のないことだが、いつもこのときに思ってしまう。  ——愛の行き着く先が、どうしてこんな不思議な形なのだろうか——  造物主もたちがわるい。もっと優美な姿が、なかったのか。とても法子の美意識に適《かな》うような形状ではない。 「こんな恥ずかしい姿までお見せしたのです」と、そこに人間の真実が現われるのかもしれない。  長い文化の歴史の中で、人間たちはあまりにも嘘《うそ》つきになってしまった。造物主はそのことを予測していた。せめて愛の極致では、無様《ぶざま》な姿をさらけだし、嘘のつけない基盤から出発することを望んだのかもしれない。  啓一郎はけっして神を信じないが、この営みには天の摂理とも言うべき大きな寓意《ぐうい》を感じてしまう。造物主の企《たくら》みは、充分に成功しているのだろうか。  興奮が深まるにつれ、奇妙な鬼ごっこが始まる。啓一郎が喜びの奥へ奥へと法子を追いつめる。法子は逃れる。逃れるといっても、それは追われることを求めながら、逃げているのだ。  だが、もう少しでつかまりそうになると、女体の歓喜は堪《た》えられない極致にまで達し、今度は本当に逃げる。腰を引き、啓一郎を押し戻す。そして高まりの少し収まるのを待って、また新しい鬼ごっこが始まる。そのリフレーン。  啓一郎はもどかしいほどの快感を覚えながらタイミングをはずされ、果てることができない。できないというよりも、流れに乗ってその瞬間を先へ先へと延ばす。  ——山中湖で抱きあったとき、法子は初めてだった——  男の脳裏には、こんなときにもさまざまな思案が浮かぶ。歓喜に集中すれば、たちまち果ててしまうだろう。だから、あえて魂をよそごとに遊ばせる。  ——稚拙な営みだった——  そのあと少しずつ法子は慣れた。少しずつ喜びを訴え、熟達した。どんなことでもうまくなるのが速い人だった。  ——今は異国の文化も混っているらしい——  昨今はいつもそんな気配を感じてしまう。  けして堪えられないほどの嫉妬《しつと》ではないのだが、啓一郎は法子の反応にかすかな屈託を感じてしまう。一種のナショナリズムらしい。  法子がヨーロッパに住むようになって六年あまり……。外国人と抱きあっている法子を想像するのはやさしい。たとえばフランス人。きっと愛の技巧にすぐれているだろう。大和《やまと》なでしこは唯々《いい》としてその軍門にくだってしまうのではあるまいか。時代錯誤の思案が啓一郎の心を刺す。  相手が日本人なら、いいのかな——  ありえないことだ、と思う。なんの根拠もないのに、法子がほかの日本人に抱かれるのはあってはならないことだと思っている。  ——美しくないから——  身勝手を承知で言うのだが、法子が自分と抱きあっているのは許せるけれど、ほかの男が相手となると、とたんに醜くなる。法子らしくない。だが、そんな想像にも焼けつくほどの痛みはない。嫉妬はほとんどない。  熱い嫉妬を覚えた時期もあった。そう、ひときわ熱心に法子に言い寄っていた男がいた。十年も昔になるだろうか。スキーの名手。明るさだけがとりえみたいな男だった。  ——なんだ、この野郎——  あの冬は、法子がスキーをすることさえ気に入らなかった。いつのまにかそんな苛立《いらだ》ちも遠くなった。不安の振幅が小さくなった。  愛情が薄くなったから……。  それは言えるだろう。だが、嫉妬が減ったと同じ分量だけ愛が減ったわけではない。その心象をどう説明したらよいものか。 「見えないところでは、おたがい自由にやろうな。気まぐれみたいに出会って、とても快適な時間を過ごす。本当に親しい男女でなければ絶対に持てないような……」  二人のあいだにはまるでそんな約束が交わしてでもあるようだ。  啓一郎は、いつも同じ心で法子を思っているわけではない。大部分は忘れている。忘れているのが許されるほど親しい人間関係というのも、ある。男同士はたいていそんなものだ。かと思えば、ひたすら法子を抱きたいときもある。法子が性欲の対象でしかないときもある。さしずめ今、この瞬間がそうだろう。  啓一郎を滑らかに包んでいるのは、なかば法子でありながら、なかば法子ではない。表情も、反応も、さまざまな動作も、たしかに法子に属するものだが、このこころよさを与えてくれるものが、是が非でも法子でなければいけないわけではない。相手が法子であるゆえにことさらに楽しめる部分もあるが、ただ女体でさえあればそれでいいという部分も、たしかにある。それが男と女の本当の姿だろう。 「中さん……」  女はほとんど声にならない声で呼んだ。  男はまた追い求める。女は蠢動《しゆんどう》をくり返しながら逃げる。そして止まる。そして迎える。もう男は堪えられそうもない。見えない鬼ごっこの終焉《しゆうえん》が近づいている。  啓一郎は無言のまま果てた。  一瞬を境にして男の中から急速に歓喜が散っていく。しらじらとした理性が駈《か》け足で戻って来る。  女体はまだ歓喜の丘をさまよっているらしい。ゆるゆるとくだり始めているが、一気に駈け降りる様子はない。男の、逃れようとする堅さを、女の内奥が捕える。輪状の力で引き締める。淫《みだ》らにも感じられる筋肉の動きだ。それを恥じるように法子は、 「あ」  と短く息を漏らす。  男は無様《ぶざま》な腕立て伏せを続けながら、女が丘陵をくだりきるのを待つ。これは、愛のさなかに仕組まれた魔の時刻なのかもしれない。体を重ねながら、心はかならずしも重なっていない。少なくとも男は女を必要としていない。  ——この一瞬に、胸の下の女をいとおしく思えるならば、男はその女を本当に愛している——  啓一郎はいつもそう考える。  ——今はどうかな——  うとましさがないとは言えない。だが、けっして厭《いや》ではない。妖《あや》しい蠢《うごめ》きは消え、人格をともなった法子が少しずつよみがえってくる。法子の人柄は、やはり好ましい。  ——女にも性欲があるのだろうか——  尋ねられれば当然「ある」と答える。ないはずがない。では、それは男と同じようなものかと聞かれれば、正直なところ啓一郎は確信を持って答えられない。  男たちは、少年の日から長い時間にわたって、みずからの鬱勃《うつぼつ》たる性欲に悩まされ続けて来た。横暴な魔物に蹂躙《じゆうりん》され、それを懐柔するのにどれほどの努力を傾けたかわからない。  ——女も同じ魔物を持っているのだろうか——  とてもそんなふうには見えない。男の欲望の激しさに比べれば、とるにも足りないもののように映る。ほとんどゼロに等しい。加えて、女たちは、みんな巧みな演技者だ。なにほどかの欲望があったとしても、ゼロに等しいように装う。魔物をかいま見せない。�女には性欲がないのかもしれない�と、理性ではけっして信じられないことを、たいていの男は頭のどこかに宿している。啓一郎も例外ではない。法子の歓喜をまのあたりにながめながらも、なお、  ——これは彼女の、心からの欲望ではない——  と思ったりする。つまり……法子は心ならずも始めたのだが、ついのめりこんでしまった、本当はけっしてやりたくなかった……。啓一郎は否定しながらも何パーセントかそんなふうに考えたりする。 「メルシー」  閉じていた目がくっきりと開いて笑った。感謝をするのは、とりもなおさず法子に欲望があり、それが満たされたという合図だろう。  含んで笑うような�メルシー�には、それなりの真意が含まれている。法子はいたずらっぽい言いかたに隠して本当の気持ちを少しこぼしたのだろう。言葉はフランス語でも、フランス人の習慣ではあるまい。外国人との情事をのぞかせるような、そんな不用意なリークを法子はけっしてやりゃしない。  ——帰国のたびに俺《おれ》を呼び出すのは、この�メルシー�のためかな——  男と女が逆の立場なら、なんの苦もなく啓一郎も納得がいく。  男が久しぶりに外国から帰って来た。親しい女を呼び出す。恋は盛りを過ぎているが、会えばきっと二人は抱きあう。男にとって、これはわざわざ労を費やしておこなう甲斐《かい》のある快楽だ。だが、女もそうなのか。  ——法子も同じように欲情するのだろうか——  まるで磨《す》りガラスのむこうを見ているようにはっきりとしない。 「きれいね」  法子が肩をシーツにくるんで身を起こす。カーテンが開けてある。部屋のあかりを全部消しているので、外から見える心配はない。遠い光が夜の底を埋めていた。またしても啓一郎は香港《ホンコン》の夜景を思った。その夜景の中には寺田|麻美《あさみ》がいた。  ——あの夜、麻美の部屋に入ったら——  きっと今と同じようにベッドに入っていただろう。麻美と抱きあったなら啓一郎の今日の気持ちも微妙にちがっていたはずだ。いま考えてみると、強引に麻美の部屋に入れなかったのは、法子に対する配慮も少しあったように思う。法子とはなんの約束もない関係だが、なんの重みもない関係ではない。  今日の昼休み、麻美に電話をかけたが、連絡がとれなかった。三時過ぎにもう一度ダイヤルをまわしたが、やはり不在だった。法子と会う前に、麻美の声を聞いておきたかった。その人が実在していると耳に記しておきたかった。  もし「好きな女ができた」と告げたら、法子はどうするだろう? 「すみません、タバコを取ってくださいな」  そのときにも法子はきっとタバコを喫《す》うだろう。 「はいよ」  枕《まくら》もとの台からハイライトとパイプを取って渡す。啓一郎も一本くわえ、ライターの火をつけた。 「あの黒百合《くろゆり》、生花よね」 「さっき花粉が落ちてた」 「でもこのごろ本物そっくりの造花があるでしょ。百合なんか、もともと造花っぽい花だから、わかんないわ。花粉までつけてたりして」 「いまに区別がつかなくなる」 「ええ……。でも生きている花がいいわね。明日は散るの。でも今は精いっぱい咲いている。それがいいのね。造花がどんなに本物に似ても、命のりりしさがないでしょ」  タバコの灰を灰皿に落としてから、 「なにか考えごとがあるのかしら」  と、長いまつげが尋ねた。 「いや、べつに。少し疲れているのかもしれない」  啓一郎は、すかさず否定した。 「海外出張のあとですものね」 「あんたみたいに慣れていない。英語は下手くそだし」 「そうでもなかったじゃない」 「いや、ヒアリングがやっぱり駄目だな。特に数字。いま聞いたのは数字だなってわかるけど、いくつなのかぴんと来ない。商売じゃそれが一番大事なのに」 「そうね。フランス語でも、しばらくそれに苦労したわ」 「かけ算だの、たし算だの、いろいろやるんだろ、フランス語の数字は」  啓一郎は努めて闊達《かつたつ》に話した。 「そう。4かける20、たす10、たす7、それで97ね」 「楽じゃないね」  法子は腕を頭上に組んで肩の凝りをほぐす。 「景気はどうなんですか、会社の」 「製鉄業はよくないよ。円高もつらいし……」 「でも潰《つぶ》れるわけはないんだし」 「いや、わからん。同じ製鉄業でも、うちあたりは前近代的なところが残っているし……。それだけに自由で、いいとこもあるけど」 「今、課長さん?」 「いや、まだだ。係長だ。そう簡単には偉くなれない」 「知らないのよ、サラリーマンの世界は。やったことないから」 「そうか。そうだったよな」 「せいぜいアルバイトくらい。なにがつらいの、サラリーマンて?」 「なにもつらくないさ。みんなでつらくならないようバランスをとって荷物を担《かつ》いでいる」 「ああ、そうなの」 「人間関係かな。それに尽きるね。�会社とは直接の上司だ�って、そういう言葉もある」 「どういう意味?」 「会社には大勢の人間がいるよ。うちだって七千人くらいいる。でも実際には直接の上司だけで、会社のよしあしはきまるんだ。すぐ上がよければ、サラリーマンはしあわせだな。とてもいい会社だ。上司がわるけりゃ最悪。どんな一流企業にいたって、よくない」 「どうなの、中座係長様の立場は?」 「あんまりよくはない。上のほうはまだ古いんだよな、考えかたが。なにせ滅私奉公型だから。もうそんな時代じゃないよ。会社は仕事をしてサラリーをもらうところなんだ。身も心も捧《ささ》げるとこじゃない。若い連中は、はっきりそう意識している。そういう意識をベースにして新しい企業内モラルを作らなきゃ駄目なんだよ」  いつのまにか啓一郎は雄弁になっていた。法子の片頬《かたほお》がゆるむ。 「すごいのね。居酒屋なんかへ行くと、日本のサラリーマンは偉い人が多いわ」 「へえー、そうかね」 「みんな酔っぱらっちゃって�うちの課長にババーンて言ってやったんだ。人間には心ってものがあるでしょ。心がなきゃサルだ、ってよオ。俺、言ってやったんだよ�なんて……。威勢がとてもいいの。正論の品評会。りっぱな人ばっかりみたい。ウフフ」 「なるほど。そういう意味か」  どうやら皮肉を言っているらしい。  まったくの話、サラリーマンが酒場で話しているのは、ほとんど会社のことである。上役、同僚、そして部下……。悲憤|慷慨《こうがい》。現状を分析し、人間関係をおもんぱかり�まことにごもっとも�の正論を語る。それだけ聞いていると、  ——世の中には、りっぱな人が多いんだわあ——  法子ならずとも、ちょっと揶揄《やゆ》を挟んでみたくなる。  法子のものの見かたは、なかなか辛辣《しんらつ》だ。それでいながら当たりは軟らかい。ユーモラスに語るすべを知っているからだろう。  見て美しい女はいるけれど、話して楽しい女は少ない。「女と話をするくらいなら一人で寝ているほうがずっといい」男たちのあいだではそんな意見も多い。程度の差こそあれ、ほとんどがそう思っている。啓一郎もそう考えないでもないが、法子は例外に属するようだ。話していて充分に楽しい。ベッドは抱きあうためだけの道具ではなくなる。  法子はのみこみが速い。ものの見かたがおもしろい。時折鋭い反撃が飛んで来る。それでいながら心のやさしいところがある。 「やっぱり派閥なんてあるものなの?」 「あるね。人間の集まりだもん」  体の位置を整えようとして、毛布の下で法子の手に触れた。もてあそぶように掌《てのひら》を握った。法子も軽く握り返す。 「中さんくらいの年齢でもどれかに属しているわけ?」 「まあね。旗色は鮮明じゃないけど。たった一人ってのは、つらいね。うちの親父《おやじ》なんか、どこにも属さず一人でやっているうちに、あっちの派閥から�あいつなら許せる�こっちの派閥も�まあ、あれならいい�って、力のバランスで役員になったらしい。そういうときもあるけどね、たまには。本人に野心がなかったから結果としてそうなっただけで、初めからそれを意図してやるのはむつかしいさ」 「やっぱり親分の引きがあって出世したりするの?」 「基本的には本人の実力だよ。ただ昇進なんかが微妙なときには�こいつはいい奴《やつ》なんだ。俺が面倒をみるから頼む�って、上のほうの、しかるべき人が推薦すれば、それが通ることもあるねえ」 「ああ、そうかもね」 「サラリーマンも楽じゃない。このごろは女の人のほうがのびのび生きてんじゃないかな。ときどきそう思うよ」  法子の指のはざまをさぐりながら啓一郎がつぶやいた。 「男の人は大変ですもんね。結婚をしたり、家族を養ったり、家を建てたり、子どもの教育を考えたり、会社で気を使ったり、いろんなことがみんなできるように二十歳くらいから考えておかなきゃいけないでしょ。まわりにそんな期待がありますもんね。女のほうは、わりと思いきりよくやって……失敗したら適当な人でも見つけて結婚。最後にその手が残ってるから。実際に残ってるかどうかはともかく、心理的にはそれがあるから」  法子がからめた指を解く。 「ちょっとガウンを取ってくださいな。汗を流して来ます」  毛布が揺れると、香水が薫《かお》った。情事のイメージがふっとよみがえって来る。  パタン。  法子の足が小走りに動いてドアの外へ消えた。くるぶしが細い。それがばねのある全身の特徴をよく表わしている。  ——麻美の足音はどうだったろう——  今夜はこの思案が頭に浮かんで仕方がない。「なにか考えごとがあるのかしら」と法子に言われてしまった。  ——ひどいもんだな——  情事のすぐあとで、もうほかの女を考えている。節操のない話だが、頭に浮かんでしまうのだからどうしようもない。一つを知る。もう一つと比較する。人間の脳味噌《のうみそ》には、もともとそういう作用が備わっているのだから……。  これまでは法子を見るとき、いつも法子だけを見ていた。ほかの女を知らないわけでもないが、法子の引力が抜群に強かった。そんな情況に微妙な変化が起こり始めたらしい。法子のうしろにふいと麻美が立っている。  二人の女。はっきりとちがうのは、まず肌の色だ。法子は浅黒い。麻美は白い。  ——それがどうした——  なんの答えにもならない。啓一郎は特にどちらが好きということもない。ただ、あえて言えば法子の肌にはすっかり慣れている。けっしてわるい感触ではないけれど、  ——白い肌はどうなのだろう——  と、新しい好奇心が湧《わ》く。白さが体のどの部分をどんなふうに染めているのか。どこから淫靡《いんび》な色に変るのか……。 「お先にごめんなさい」  法子が戻って来てカーテンを閉めた。  あかりをつける。カレンダーの風景を見ながら、 「旅に行きたいわね」 「年中行ってるんだろ」 「ううん。わりと行っていないのよ、日本は」  足を折り畳むようにしてベッドに滑り込む。 「行ってない県、ある?」 「あるわよ、たくさん」 「都道府県は全部で四十七あるのかな。このうちいくつ足を踏み入れているか。通過しただけじゃ駄目だ。なにか用があって行ったのだけ数えると……」 「どのくらいかしら。行ってないのは、秋田、山形、それから山陰のほう、鳥取とか島根とか。四国も行ったのは高松だけだわ。それと沖縄もまだだし」 「自分の年齢くらい行ってなくちゃいけない」 「へえー、本当に? 中さんは?」 「わりとよく行っている。仕事の出張なんかもあるし……」 「私は年齢がやっとってとこね」  と法子《のりこ》は頬杖《ほおづえ》をつく。数を数えているらしい。  啓一郎は、女と旅へ行く楽しさを想像する。その女は法子であるより麻美のような気がする。 「今夜は……泊まっていらっしゃる?」 「どうしよう。帰ったほうがいいかな。明日必要な資料が家に置いてあるんだ」 「どうぞ」 「ごめん」  それが合図のように法子の肩を抱き、唇を重ねながら押し倒した。新しい情事が始まる……。  今夜、二度目の抱擁のほうが、法子は激しく燃えた。啓一郎には、それが女体のなまなましい生理のように感じられた。  新しい愛撫《あいぶ》を受けて、体の底にくすぶっていた余燼《よじん》が火を噴く。たちまち野を駈《か》ける火となって全身を焦がす。火はいつまでも燃え続けて狂い、やがてゆるやかに消えた。  時刻は十二時に近い。  啓一郎は下北沢の家に帰らなければいけなかった。明日の会議に必要な書類が家に置いてあるから……。  情事を終えてすぐに部屋を出るのは、やさしさが足りない。さりとてこのまま長くベッドにいては帰りそびれてしまう。 「いつパリへ戻るんだ?」 「来週の月曜に」 「もう一度会えるかな、それまでに」 「どうかしら。今回はわりといそがしいの。約束がいっぱいあって」 「でも夜は眠るんだろ」  ホテルに帰るなら、会う…機会もあるはずだ。 「もちろん。でも、ごめんなさい。東京にはほとんどいないの。岡山と倉敷と……それから仙台へも」 「大変なんだな。明日は?」 「早い新幹線でたつわ」  法子は�早い�という部分にちょっと力をこめて言う。�お帰りください。私もぼつぼつ眠らなくちゃあ�と、そんな意思が感じられなくもない。潮どきだと思った。 「東京で時間があるようなら連絡してくれないかな」 「ええ。そうします」  法子はポカンと視線を宙に浮かせて、スケジュールを考えているふうだったが、それ以上はなにも言わなかった。 「じゃあ」  啓一郎はベッドを出て服を着た。 「いそがしいのに、ごめんなさい」 「会えてよかった」  法子はドアのきわまで送って来た。啓一郎はドア・チェーンをはずしてから、ふり返って唇を重ねた。軽く別れの挨拶《あいさつ》をするみたいに……。ドアの外をだれかが通る。小声で、 「さよなら」 「うん、また」  ささやきあって啓一郎は廊下へ出た。  ——これでよかったのかな——  うしろめたさを覚えた。自宅に置いてある資料が必要なのは本当だが、ほかに手段がないわけでもあるまい。たとえば、明朝六時に帰って持ち出すこともできる。相手が麻美《あさみ》だったら、事情が変っていただろう。  ——やっぱり愛がしぼんでいるのかな——  法子も明日の出発が早いと告げていた。このくらいに帰るのが�ほどのよさ�だろうが、女は心の片隅《かたすみ》で不満を覚えるのかもしれない。  啓一郎は地下鉄の駅へ急いだ。タクシーに乗るのはもったいない。平川|亭《てい》で大枚の出費をしたことだし……。少しは埋めあわせをしなくてはなるまい。  ——蛮勇に欠けるところがあるんだよなあ——  古い言葉を思い浮かべた。  啓一郎は、われながらそう思う。法子の事情に関係なく、夜通し法子を抱くのがよかったのかもしれない。明日の書類も仕事も忘れて女体を貪《むさぼ》るのが�男らしい�やり方なのだろう。そうとわかっていながら、ついつい�ほどのよさ�が出てしまう。  ——香港《ホンコン》でもそうだった——  麻美の部屋へは、なんとしてでも踏みこまなければいけなかった。自分の欲望であるより先に、それが相手への礼儀ではないのか。  ——本当にそうかな——  夜遅い電車には酔っぱらいが、いぎたなく崩れている。いかにも好色そうな感じの赤ら顔……。啓一郎自身、酒は飲むけれど、酔っぱらいはきらいだ。自分でもだらしなく酔ったりはしない。それも�ほどのよさ�のせいなのか。  男と女のあいだには、言いがたい瞬間がある。このところ何度も香港の夜のことを考えた。ドアの前での応接を思い返した。まるでケース・スタディかなにかみたいに……。  あの夜は最高のムードだった。唇を重ねた。ドアの中にはベッドまで備えてあった。冒険は情事で終わるのがふさわしい……。  だが、出会ってまだほんの数時間の人でしかなかった。どういう女かわからない。麻美はいったん唇を許してからは、むしろ身を堅くして次の進攻を避けているように見えた。とりあえずスマートに退《ひ》きさがるほうが、よい場合もある……。  ——この酔っぱらいなら、なんの躊躇《ちゆうちよ》もなく襲いかかるだろうけれど——  脂ぎった赤ら顔を見ていると自尊心が勝手な想像を描く。  啓一郎にも当然のことながら打算がある。思慮がある。  ——独身は、かえって身を慎むものなんだ——  世間は案外この単純な真理を知らない。大部分の妻帯者は�独身は気ままでいいよなあ。いくらでも浮気《うわき》ができて�と考えているらしい。  とんでもない。独身であればこそ慎重でなければいけないところもおおいにある。  女は男が独りとわかると、にわかに本気になる。遊びが遊びで終わりにくい。なんとか終わっても後味がわるい。�もてあそんだ�という印象が色濃く残ってしまう。 「奥さん持ちこそ気楽なもんじゃないですか」  と言ってやりたい。  奥さんがいる。子どもがいる。世間がいる。心理的にみんなが妻帯者に加勢をしてくれる。 「君を愛しているけど家庭を捨てきれんしねえ」  あるいは、また、 「初めから俺《おれ》が家族持ちって、知っててつきあったんだろ」  と開きなおる手段もある。  麻美の部屋の前でも、独り者の保身の意識がさっと頭をよぎった。それでもなお踏みこむのが男の蛮勇なのだろうけれど……。  啓一郎は考える。  つまるところ、麻美に関して性の欲望を我慢するのは、さほど苦しくはない。少なくともあの夜はそうだった。抱きたかったのは本心だが、もうその件は心の始末がきれいについている。気がかりなのは、麻美にとっても�あれでよかったのか�という微妙なテーマのほうである。  麻美自身が、冒険の最後に情事のあることを期待していたとしたら……。それを勇敢に演出できない男を、  ——なによ、この人——  と思ったとしたら……。これは情けない。男として一番つらい我慢をして節度を守り、そのうえ馬鹿《ばか》にされたんじゃ、わりがあわない。抱けなかったのは、そのときだけの苦痛だが、頼りない人だと思われたら、いつまでもあとを引く。おしなべて女はこんなとき、どう考えるものなのか。法子なら明快に答えてくれるだろうけれど、尋ねるわけにもいかない。  渋谷《しぶや》で乗り換えて下北沢まで。犬に吠《ほ》えられながら住宅街の近道を抜けた。妹たちの部屋にあかりがついている。勝手口から鍵《かぎ》をあけて入った。  すぐには眠れそうもない。  青い表紙のノートを取り出した。ルーズ・リーフをめくって�千倉《ちくら》法子�のページを開く。ポートレートが一葉|貼《は》ってある。法子についての情報がなんの脈絡もなく記してある。  もとはと言えば、会社に勤めて間もないころ、父に、 「サラリーマンは人間関係が大切だ。交渉のあった人について仕入れた情報を、ノートにまとめて書いておくとあとで役に立つ」  と教えられたから……。  仕事には利用しなかったが、女性について私的なノートをつけてみようと考えた。  よい趣味かどうか……。人に知られたら「暗い趣味ね」と言われそうだが、実体は日記みたいなものである。日記をつけるのは、暗い趣味かどうか。このノートをだれかに見せるつもりは毛頭ないけれど、書くときは、心のどこかでだれかの目を意識している。いつかだれかに盗み見られることを想像して書いている。みえを張っている。一番恥ずかしい秘密は書かない。日記をつけるときも、同じ心理が働いているだろう。  それではつまらない。よいことも、わるいことも、そのまま思いつく通りに記してみようと思うのだが、これがなかなかむつかしい。微妙な抑制力が働くものだ。  ボールペンを取って、今夜体験した新情報を書き加えた。少し狂気を帯びているかな。  ——心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ—— �徒然草《つれづれぐさ》�の冒頭を思い出した。国語はきらいな学科ではなかった。独り笑いが浮かぶ。  法子と会ってから別れるまでの時間を脳裏にくり返してみた。 �人生はすべて次の二つで成り立っている。やりたいけど、できない。できるけど、やりたくない�  字句のこまかいところはちがっているかもしれない。法子が食事の最中に教えてくれた言葉。ゲーテとか言ってたな。  おもしろい。どこかで使えそうだ。この箴言《しんげん》を青いノートの�千倉法子�の欄に日付をそえて書き加えた。 �化学調味料をかけただけで料理がおいしくなるのは、しあわせかどうか。化学調味料では本当の味はわからない。しかし一生おいしい思いで生きられる。絵画についても同じことが言えるのか。異性の趣味はどうなのか。すぐれた鑑別力を持った人がしあわせとは限らない。法子の意見はどっちつかず。商売には、お客さんがあまり鋭い鑑別力を持たないほうがやりよいよし�  赤線を引いておいてもよいような大問題である。法子の欄には、こんな理屈っぽいエピソードもたくさん記してある。 �フランス人は、仕事の場面でも恋愛抜きってことはないらしい。画家の恋人になれば、当然画商は有利。しかし、やりかたはスマート。法子も少しは大和《やまと》なでしこの魅力を商売に利用している。その気配、なきにしもあらず�  法子が見たら怒るかな。 �ホテルは今でも夫婦で泊まるのが原則。それ以外の男女関係では、一つ部屋に泊まってはいけない。だが、これはたてまえ。ホテル側としては、すぐにばれる嘘《うそ》であっても「夫婦です」と言ってほしい。法子がホテルの社長から聞いた話� �部屋に黒百合《くろゆり》があった。法子は色もデザインも好きだとか。野性味があって、色がはっきりしていて、法子の性格に似ている。しかし、そのことは言いそびれた�  このノートには、情事の特徴も書き込む。どう書いたらよいものか、赤裸々な表現は、やはりためらわれてしまう。この記述こそ、  ——後日だれかに見られたら、ひどい——  と、そんな意識が強く働いてしまう。 �キス。かならず法子は舌をさし入れる。こちらの動作とほとんど同じことをやる。男女同権の思想かも……。全体として、とてもうまい。本場仕込みの感あり� �内部に歓喜のポイントが二つある。一つは浅く、もう一つはかなり深い。浅いほうが鋭い。深いほうが、ゆったりとした豊かな喜びをもたらすようだ。鋭いほうは度を過ぎると、苦しくなる。性医学書の特徴にぴったり。体も教科書通りの優等生�  こんなことを深夜のデスクで書きつらねるのは、たしかに�あやしうこそものぐるほしけれ�かもしれない。 �四十七都道府県のうち法子の行ってないところが、かなりあるみたい。秋田、山形、鳥取、島根、愛媛《えひめ》、高知、徳島、沖縄など。日本の旅をしたいよし�  最後に無難な情報を記してノートを閉じた。 [#改ページ]   かとれあ  法子《のりこ》は出発のまぎわまでいそがしかったらしい。成田から職場に電話をよこしただけでパリへたった。 「また近いうちに来ます。とてもすてきだったわ。ご機嫌よう」  法子は別れぎわの言葉に独特の情感がある。大きく光る目が浮かんだ。演技上手のまなざしが、きっと電話機をにらんでいるだろう。啓一郎としては、ちょっとうしろめたい。  寺田|麻美《あさみ》には何度か連絡をとったが、こちらもいそがしい人だ。香港《ホンコン》から帰ってすぐに唐津《からつ》に飛び、そのあと雑誌記者にとって一番あわただしい校了の時期が入り、さらに津和野《つわの》へ旅立った。 「ぜひ会いたい」 「ええ」 「いつならお会いできますか」 「来週くらい。旅から帰りましたら」 「そのころにまたご連絡します」 「はい、よろしく」  なかなか会えないのは、文字通りどうにも時間が作れないほど多忙なのか、それとも少し啓一郎を避けているところがあるからなのか……。  デートの約束がまとまったのは、笹田三彦《ささだみつひこ》のほうだった。笹田は、ギターの名手で、旅行好きで、遊び人で、生徒には人望があるらしい。昨今は学校の先生のほうが、へたなサラリーマンよりよほどくだけている。 「久しぶりだな。上野の�黒兵衛《くろべえ》�なんかどうだ?」 「知らん」 「あれ、行かなかったかなあ、一緒に。あんこう鍋《なべ》だけど」 「いいよ。めずらしいものがいい」  広小路《ひろこうじ》のコーヒー店で待ちあわせ、大通りを秋葉原《あきはばら》のほうへ歩いた。  あまりきれいな店ではないが、この手の料理は、こんな店のほうがたいていうまい。学校の先生は安くてうまい店をよく知っている。あらかじめ予約がしてあったらしく、二階の三畳間に通された。あんきもは他所《よそ》でも食べるが、鍋となると、いつ食べたのが最後だったろう。 「今日はいい材料が入っているそうだ。見たことあるか、調理場を?」 「いや」 「二十キロもあるやつを鈎《かぎ》で宙に吊《つ》るして、そのまま解体するんだ。肉がやわらかいから、まな板の上じゃうまくさばけないんだな。サッ、サッ、サーッと手ぎわよくやって四、五分で一匹がバラバラになる」  笹田は身ぶりで示す。飲み物は焼酎《しようちゆう》のお湯割り。 「どうだった、タイは?」 「十月なのにやたら暑かった。腹はこわすし、帰りは香港に泊められるし」  麻美のことを話すのは、もう少しあとにしよう。旅のよもやま話が一段落すると笹田が、 「俺《おれ》、今、統計をとっている。協力してくれ」 「俺に? 駄目だよ」 「いや、キスについての統計学的研究だ」  と、教師はおかしなことをつぶやいて一人で頷《うなず》いている。  あんこうの専門店だけあって、小鉢《こばち》のあんきもは量が多い。小さなカン詰くらいの分量がオレンジ色の切り口を見せている。  だが、こうした珍味は、量が多ければそれでいいというものではあるまい。半分ほど食べると、もう箸《はし》が伸びない。鍋の中の白菜が煮え始めた。これが新鮮で、よい味を出す。 「生徒に質問されちまってね」  笹田は白菜の、しおれた軟らかい部分を取る。啓一郎はむしろ堅く、身の厚い部分が好きだ。 「このごろの高等学校ってのは、キスまで教えるのか」 「生徒ったって、現役じゃない。卒業生だ。なかなかおもしろいテーマなんだな、これが」 「ほう?」 「キスというのは、セックスの前戯みたいなもんだろ。欧米じゃ少しちがう面もあるかもしれんけど、日本じゃ、まあ、そうじゃないのか。契約で言えば、手つけ金みたいなものよ」 「とりあえず、ここまでやっておいて……」 「そう、そう。そこで�ゴー�か�ストップ�か考える」 「うん」 「それで、だ。キスはどの程度のパーセンテージでセックスに到達するか、それがよくわからない。つまり、男が女と口づけをする。やがてその女と抱きあうか、抱きあわないか、その可能性をパーセントで表わすと、日本女性の場合はどのくらいなのか……」 「あ、なるほど。わかった、わかった。キスまで行けばセックスは、一応OKと考えていいのか、それともまだまだ道はけわしいのか……」 「そう」  笹田は焼酎に少しむせながら、 「さすがに中座は、この方面のことになると、のみこみが早い。できるだけ大勢の男に尋ねているんだ。分母にキスをした女性の数を置いてもらう。その中でセックスにまで到達した女性の数を分子に置いてもらう。商売女は除外する。八分の六とか、三分の三とか、人それぞれちがうわな。たくさん集まったら、分母は分母で加え、分子は分子で加え、パーセンテージを出す。日本女性におけるキスとセックスの距離が、統計的な数値で表わされるな」  教師の口調で解説する。  ちょうど女中が野菜の追加を運んで来た。笹田はくいと顎《あご》をつき出し、ぶしつけな目でにらんで、 「あなたなんかどうかな。キスを許すときは、この男と寝てもいいって……実際にそうなるかどうかわからんけれど、そのくらいの気持ちがなけりゃ唇を許さないのかな? それともキスなんかべつにどうってことない。セックスと切り離して考えているか」  と尋ねた。 「厭《いや》だわ、先生。なんの話かと思ったら」 「まじめな研究だ。キスとセックスとは、わりと近いものだと考えてるかね。それともべつべつと考えているかね」  女中は中腰のまま上目づかいで戸惑っている。質問の意味はわかったらしい。よく見ると、わるい器量ではない。恋愛の一つや二つ体験しているだろう。 「知りません」  尻《しり》あがりの調子で言う。 「知らんわけないだろう。ま、これから先のことでもいい。今は、どう思っているか。キスをするときは、もうこの人とは深い仲になるんだと覚悟したとき……」 「そりゃそうです。厭だわ、そんな話」  野菜を鍋《なべ》に入れて、そそくさと逃げて行く。笹田はそれを笑いながら見送ってから、啓一郎のほうへ顔の向きを移した。 「欧米人の場合は断然分母のほうがでかいだろうな。日本人の生活感覚もずいぶん欧米並みになったけど、このテーマは昔とそう変っていないんじゃないのか。それともこのごろ相当パーセンテージがさがっているのか……これは、まだだれもやっていない研究だ」  啓一郎としては、厭でも麻美のことを思い出さずにはいられない。ビクトリア・ピークで唇を重ねた。麻美の部屋の前まで行ってそのまま引き返した。  唇まで許したのだから……という考え方もある。それから先はまたべつ……という考え方もある。大和《やまと》なでしこの平均的な数値はどのくらいなのだろうか。 「今、二十代、三十代の男性を対象にして調査している。協力してくれ。あんたの数値はいくつだ。分母と分子を書いてくれ」 「俺の……?」  すぐには答えられないが少し考えれば正確な数が言えるだろう。 「俺の教え子は、まだ二十代だからな。三十代が決定的に不足している。もちろん秘密厳守だ。みんな同じ用紙に記入してもらって箱の中に入れ、かきまわして統計をとる。どれがだれの数値かわからない」 「思い出せるかなあ」  と、啓一郎はとりあえずとぼけて見せた。 「あんた、そんなに多くはないだろ。分母も分子も……」  笹田はポケットからメモ用紙の束を取り出す。結構本気でやっているらしい。たくさんの例を集めて一定の数値を出せば、それなりの価値がありそうだ。話題性もあるだろう。 「多くはないな」 「書いたら縦長に二度折って、昔の恋文みたいに結んでくれ。個人的な興味でやっているわけじゃない」 「あとで書いておこう。中間発表はないのか」 「まだ正確な集計はやっていない。ただ俺が思っていたほど分母と分子の数値は近くないみたいだ。欧米型に近づいている」 「ざっとどのくらいでまとまりそうだ?」 「そうだな。七十パーセントくらいかな」  啓一郎は頭の中で自分の数値を考えてみた。少なくとも麻美のぶんだけ現在は分子のほうが小さい。  お茶漬けを食べ終えるとデザートに梨《なし》が出た。果汁のしたたりから察して二十世紀だろう。  笹田が楊子《ようじ》でつき刺して、 「今年もあと二カ月か」  とつぶやく。 「ああ」 「先生って、わりともらい物が多い商売なんだよなあ」 「そうらしい」 「たいしたものは来ない。もらっておいて文句を言うのもなんだけど、去年は梨の箱が三つも来た。そうめんなんかも五箱も六箱も来たら、うんざりするだけだ」  苦情をいいながら梨をサクサクと噛《か》む。 「年によって片寄るんだ、あれは」 「もうやめたほうがいいんだ、あんな習慣。うちの校長なんか奥さんと二人家族だろ。昔の人だからものを無駄にすることができない。ほかに食べたいものがあるのに、もらったものを一生懸命に食べているらしい。ようやく片づけたと思うと、また次のシーズンが来て、ドーンといらないものが押し寄せて来る。賽《さい》の河原《かわら》だな。あのぶんだと、死ぬまで好きなものが食えない」 「あはは。かわいそうに」 「どんな少額でも、金なら始末がつくんだけど……。そうもいかんし」  デザートを平らげて外に出た。ほどよく酔っている。 「どうする?」 「もう一軒どこかへ行こう。四《よ》ツ谷《や》なんか……」  啓一郎が誘ったが、 「いや、四ツ谷は遠い。この近くに知ったバーがあるから行こう」  笹田が指を差してさっさと歩き始めた。啓一郎があとを追う形になった。 「千倉《ちくら》さんは、たまには日本へ帰って来てるのか」  笹田も法子《のりこ》を知っている。 「うん。ついこのあいだも帰って来てた。一緒に食事をしたよ」 「彼女はなにを考えているのかな」 「わからん。みんなが結婚に向いてるわけじゃない。独りで気軽に生きているのもいいんじゃないのか」 「あんたもそうか」 「俺はまだ一生独りときめたわけじゃない」  めまぐるしいほどネオンの点滅する路地へ入ると、客引きが「社長、社長」と呼びかける。  ——やっぱり社長は偉いのかなあ——  サラリーマンになったばかりのころは、みんなが心のどこかでトップになることを考えている。社長になれないまでも、せめて取締役くらいは……。そのうちに少しずつこのレースのむつかしさを知らされる。自覚する。もちろん実力がなければ話にもならない。運も必要だ。他人を蹴落《けお》とす気力も大切だ。そして、絶えず、  ——俺は社長になるぞ——  そう思い続けること。心の奥深く隠して、あるいは公然と口に出して……。懐疑的になったら、もういけない。 「結婚はともかく、親に向いていない人ってのは、たしかにいるな」  笹田がふり返って言う。 「そうかね」  世間には二十パーセントくらい結婚に向かない奴《やつ》がいる——これが啓一郎の持論だが、笹田がそれに新説を加えた。 「教師をやっていると、つくづくそう思うよ。こういう人が親をやってちゃいけないんだなあ、とな」 「どういうのが、よくない?」 「そうよな。まず自分がまだ餓鬼の奴。愛情のないのも困るが、愛情のありすぎるのも困る。なんの考えもなくボヤーッと親になったみたいの、この頃《ごろ》、大勢いるからな」 「わかるな」  笹田が顎で指すと�ピタゴラス�という名がドアに記してある。店内は細長い三角形になっている。 「すごい名だ」 「初めてか」 「うん」  この界隈《かいわい》にしては、地味な作りの店だ。マスターと女の子が二人いる。一人はカウンターの中にいるのが苦しそうなほど太っている。 「いらっしゃいませ。なんにしましょうか」  型通り水割りを頼んだ。 「先生というのは、やっぱり行末は校長になりたいと思っているのか」  啓一郎がこう尋ねたのは、さっき客引きに「社長、社長」と呼ばれたときの思案が残っていたからだろう。  笹田は思いがけないことを聞かれたみたいにジロンと啓一郎の顔を見てから、 「思っちょらん。思っている奴は少しはいるけど、校長になってもなんもいいこと、ないからな」 「なにを楽しみに生きてるんだ?」 「あんた、すごいこと聞くなあ。生徒の成長を楽しみに……と言いたいところだが、それはほんの少しだな。一度教師になってしまったら、あとは平坦《へいたん》な道しかない。中座たちみたいに課長になったり部長になったりするわけじゃないしな。自分の生活を楽しくやるよりほかなんかありゃしないさ。教師仲間なんか、たいていは退屈な奴だけど、なかにおもしろいのがいる。日本一の鮎釣《あゆつ》り名人とか、手品のプロ級とか」  カウンターの奥に立った若い娘の横顔が……鼻の形が三角形で、麻美にちょっと似ている。その横顔を啓一郎は目顔で指し、 「彼女たちには、例の統計を尋ねたのか」 「うん、もちろん」 「どうだった?」 「秘密厳守だ。個人的な興味はさしはさまない方針なんだ」 「なるほど」  自分が話題になっていると気づいたのか、細いほうの娘が近づいて来た。 「いらっしゃいませ」 「どうも。鼻がきれいだね」 「厭だわ。とんがっていて」 「そうでもない」 「おビールをいただいていいかしら」  と聞く。 「あ、いいよ」  笹田が答えると、娘は手際よく栓を抜いて、壜《びん》をまわしながら細いグラスにビールを注《つ》ぐ。 「昼はなにしてるの?」 「お芝居です。卵です」  殻《から》を割る仕ぐさをする。 「新劇? よくあるケースだな」 「ええ。掃いて捨てるくらい。水割り作りましょうか」 「うん、頼む」  それからなにを話したか。芝居の話、タイの話、映画の話……酔ってからの時間は、信じられないほど早くたつ。だれかが盗んでいるんじゃあるまいか。 「もうこんな時間か」  笹田が腕の時計を見る。 「明日はお休みでしょ」 「生徒につきあって利根川《とねがわ》歩行だ。用意もあるし」 「出ようか」  女たちの声に送られ、連れだって店を出た。表通りに出たところで、啓一郎が尋ねた。 「帰るのか」 「今日はこれでやめておく」 「そう」  別れぎわに啓一郎は、メモ用紙を渡した。五分の四。分母も分子も、そう大きな数ではない。 「おっ、ありがとう」 「じゃあ、また」  笹田はタクシーを拾い、啓一郎は地下鉄の階段を降りた。  ——四ツ谷へ行ってみるかな——  赤坂見附《あかさかみつけ》で乗り換えれば、十一時半前に�かとれあ�に着けるだろう。出張から帰って、まだ�かとれあ�には顔を出していない。薫《かおる》の顔が見たくなった。 「いい調子だぞ」  自嘲気味《じちようぎみ》につぶやいてみたが、酔いのせいもあって、今夜はすこぶる上機嫌だ。�かとれあ�は、そう何度も通った店ではない。せいぜい四、五回だろう。最初は偶然入った店だった。 「開店して間もないの。またいらして」  ママの薫は初めから愛想がよかった。なにかが起こりそうな予感、そう表現したほうが適切かもしれない。  啓一郎が帰ろうとすると、いつも薫は店の外まで送って来る。どの客にも同じことをするのだが、ちがっているのはそのまましばらく大通りまで一緒に歩いて来る点だ。背後から腕をねじるようにからませて……。ともすれば胸の弾力が、啓一郎の脇腹《わきばら》に触れる。そして大通りまで来て腕を離したあとも啓一郎が地下鉄の口に消えるまでそのまま立って見送っている。追いすがるようなまなざしで……。そんなときには、  ——もてちゃったのかなあ——  背後の視線に刺されてくすぐったい気分を味わう。  啓一郎は、自分の魅力について採点はとても控えめだ。多少の自負はあっても、都会のどこにでもいるようなサラリーマン。勤める会社も超一流というほどじゃない。身長百七十八センチ。これは当節評判のいい高さだが、肉体的にはっきり長所と言えるのは、これだけだろう。もっとも男はほかになにを評価すればよいのか。  顔。まあまあ。それから「指がきれい」と言われたことがあった。妹が二人いるので、年下の女を扱うことに少し慣れている。  それはともかく、男が女にもてるというのは、どういうことなのか、啓一郎はいまだによくわからない。なまじもてたりすると、  ——なにかの誤解じゃあるまいか——  そう思ってしまう。「もてた、もてた」と喧伝《けんでん》している奴の顔を見ると、たいてい知性を欠いている。いい気になっている。  どんな男だって一人の女に愛されるくらいの割当てはあるだろう。長い一生のうちには、二度か三度そんな配給があるだろう。  笹田の�学説�を思い出した。先生だけあって笹田は、ときどきおもしろい�学説�を吐く。 「だれかに好かれているときってのは、男の体から、ゆとりのエーテルが発散しているんだ。こいつはなかなか強力で、その作用で、ほかの女にもついでにもててしまう。だから、もてるときってのは、集中的にドッと来る。いったんつきが落ちると、とたんにいけなくなるな。ゆとりのエーテルが消えちまって、ものほしげなエーテルが発散するんだ。女は、これが特にきらいでね。嗅覚《きゆうかく》でわかるらしいぞ」  そんな台詞《せりふ》を思い出しながら地下鉄の四谷三丁目で降りて薄暗い歩道を踏んだ。 「いらっしゃいませ」  みいろの声が飛んで来た。ママとチーフとアルバイトの娘が一人。薫はカウンターの中で頷《うなず》くように笑い、そのまま客と話し続けている。チーフが歩み寄って来て、 「遅いですね、今夜は。なんにします?」 「ビールとトマト・ジュース」 「半々ぐらいに割りますか」 「いい。自分でやる」  どうせ明日は休日だ。夜ふかしも宿酔《ふつかよい》も、さほど気にする必要もあるまい。  ——わがうちなる�ほどのよさ�に挑戦——  そんな気分もあった。  右手の壁に二十号ほどの絵がかかっている。正面を向いた女の裸身。花弁の広い花が一つ、腰のところに咲いている。 「なにかな、この花?」  昨今は花の名に心が向く。その理由もわかっている。 「カトレアでしょ」  薄赤い、シンメトリックな花びら。それが下腹に咲いている。画家には、はっきり意図するものがあったにちがいない。 「なんだか猥褻《わいせつ》な感じだなあ」 「そうですかあ。でも、きれいじゃないですか」 「うん」  曖昧《あいまい》につぶやいてグラスの中の酒と色を比べた。  カウンターがL字型になっているので、ママの横向きの姿がよく見える。薄茶のドルマン・スリーブ。ウエストを焦げ茶のベルトで締めている。  表情はこけしに似ている。仏像にも似ている。こけしに似ているのは、切れ長の目のせいだろう。仏像に似ているのは、下唇《したくちびる》が形よく、ふっくらと脹《ふく》らんでいるから。酔うと目も唇も微妙に崩れて、淫《みだ》らに映る。啓一郎にはそう見える。  薫は啓一郎が店に来たことを充分に承知していながら、なかなか啓一郎の前へはやって来《こ》ない。さっきから同じ客と、愉快そうに話し続けている。  それがなにを意味しているのか、啓一郎は酔った頭で考える。  二週間前には、ずいぶんむつまじい気分で別れた。啓一郎がタイから帰って来るのを、今か今かと待ちわびるような様子だった。正直なところ�かとれあ�のドアを開けたとたん、薫が駈《か》け寄って来る場面を心に描いていた。  よそよそしく見えるのは、ただの偶然かもしれない。他意もなくたまたま客と話し続けているのかもしれない。薫の目の前にいる三人連れの客が、大切なお得意さんだったりして……。話が興に乗って、中断しにくいときもあるだろう。  ——コケットリイかな——  じらしているのかもしれない。その可能性も充分にある。横顔は、ちゃんと啓一郎を意識している。そう見えなくもない。 「ビール、もう一本いきますか」  チーフは東北|訛《なま》りで、人柄《ひとがら》はよさそうだが、話し相手になるようなタイプではない。アルバイトの娘は啓一郎と入れ替りに帰ってしまった。 「水割りのほうがいいな」  苛立《いらだ》っている自分がおかしい。さっきは集中的にドッともてることを案じたりして……。  ——法子はどうしているだろう——  赤いグラスをのぞきこむ。この瞬間、ひどく法子がいとおしく思えた。信頼感といってもいい。法子ほど安らかな気持ちでつきあえる相手はいない。  ——粗末にしちゃいけないな——  せっかく日本へ帰って来たのに、少しそっけなかったような気がする。もうひとつ心がこもっていなかった……。気づかれないようにうまくふるまったつもりだが、鋭敏な法子は感づいたかもしれない。さびしい気持ちで成田をたったのではあるまいか。 「お帰りなさい」  薫が啓一郎のそばに寄って来たのは、三人の客を送り出してからだった。チーフは無線タクシーを捜しに客と一緒に出て行った。 「ああ、ただいま」 「どうでした?」 「ただ暑いだけ。腹をこわした」  同じ話をくり返すのはあきてしまった。薫もそんな気配を察したのか、それ以上は聞かない。今どき、外国旅行の見聞録なんか、話すほうはともかく、聞くほうにとってさほど楽しいことではあるまい。 「あたしも水割りをいただくわ」  カウンターの上のボトルからグラスに景気よくウイスキーを注いで濃い水割りを作った。氷を揺らしながら啓一郎の隣にすわった。 「うれしいわ。待ってたのよ」  水割りをビールみたいに飲む。 「そんなに飲んで……」 「いいの。もう今日は閉店。ね、どこか飲みに行きましょ」  ちょうどチーフが帰って来た。 「お茶だけ飲む酔っぱらいが来ないうちに早く閉めましょ」  チーフに声をかけ、薫は手早く帰り仕度を整えた。 「じゃ、お願い。よろしく。さ、行きましょ」  薫にうながされ、啓一郎は壁の絵に挨拶《あいさつ》をしてから、 「ご馳走《ちそう》さん」 「いい絵でしょ」 「ちょっと……すごい」 「あたし、好きなの。この花」  背後から腕をからめる。 「どこへ行く?」 「飲みたいわ」  運よく店のすぐ前で銀座方面へ向かうタクシーをつかまえた。 「六本木に行ってくれ」  車の中で軽く肩を抱いた。薫は身悶《みもだ》えでもするようにして顔を啓一郎の肩口に埋める。女の肩は小さい。腕の中にしっかりと包まれてしまう。  薫が顔をあげた。豊満な唇がかすかに開いている。酔った表情が誘いかけている。  やはり仏像に似ている。  啓一郎は、いたずらでもするように顔を寄せ薫の下唇を含んだ。それから歯に触れ、舌に触れた。キクンと薫の体が震えた。そのまま目を閉じている。  車が弾んだ。  運転手が厭《いや》がらせをしたわけではあるまいが、もう六本木も近い。唇を離して薫の頭をもとの肩口に据《す》えた。 「すいません。そこで結構」  テレビ局の近くに夜遅くまで開いているバーがある。薫の体を抱くようにして階段を昇った。 「ブランデー・ロック。いい?」 「いいよ。僕は水割りだ」  カウンターの椅子席《いすせき》には背がない。薫は揺れながら心もとない様子で腰かけている。 「お酒、毎日飲むんですか」 「いや、そんなことはない。週に三日くらいだろう、せいぜい」 「晩酌《ばんしやく》をするの?」 「しない」 「中さんもてるでしょ」  薫が�中さん�と呼ぶのは、これが初めてだろう。法子と同じ言い方だが、苗字《みようじ》を愛称で言うとすれば、どの道こんなところだろう。 「そんなことないな」 「嘘《うそ》ばっかり。やさしいとこがあるもん」  啓一郎は、人当たりが軟らかい。わがままを言わない。やさしく見えることはあるかもしれない。  啓一郎も酔っている。あんこう鍋《なべ》のときから計ってみれば、日ごろの酒量をはるかに超えている。 「何月生まれなの?」 「四月」 「牡羊座《おひつじざ》かしら。逆境に強い運勢よ」 「そうかなあ」  たあいのない話を交わしながら啓一郎も薫もすぐにグラスをからにした。 「出ようか」 「ええ……」 「家はどこ?」 「大京町」  外に出て車を止めて乗りこむと、薫が胸の中にドンと崩れて来た。  ——同じまちがいをくり返してはいけない——  啓一郎は頭の中の酔いを払いながら意識を集中した。  相手もちがう。事情もちがう。だが、何日か前に、たしか似たようなことがあった。  ——この道はいつか来た道——  薫《かおる》がブランデー・ロックを一ぱい飲んだだけで素直に立ちあがったのは、酒を飲むのが目的ではなかったからだろう。体を男の胸に預けて目を閉じている。信濃町《しなのまち》を過ぎても行先を告げようとしない。 「まっすぐ行ってください」  薫にも聞こえるように啓一郎が言った。  交差点を横切って二、三百メートル走ったあたりに旅荘があるのを知っていた。決断をする時が来たらしい。 「そこで……いい」  薫の腰を支えるようにして路地に入った。  すぐに入口があった。ドアをぬけると、チャイムが鳴る。無人の状態でも来客を告げる仕組みになっているのだろう。 「ここ、どこなの?」 「ちょっと休もう」  年輩の仲居が現われ、気まずい瞬間をスイと通りぬけた。 「いらっしゃい。お泊まりですか」 「いや、休むだけ……」 「どうぞ」  入口は小さいが奥行は深い。石畳の廊下を通り、角を二つ曲がって�浅間�と書いた部屋へ案内された。  啓一郎はこの手の宿をほとんど知らない。襖《ふすま》を開けると、座卓がある。座椅子がある。座布団《ざぶとん》がある。茶道具がある。テレビがある。冷蔵庫がある。狭い部屋に一通りの家具がそろっているのに、どこかにすきまがあるような印象だ。芝居のセットのようだ。 「お風呂《ふろ》にお湯を入れますか」  と仲居が平板な声で聞く。 「うん」  薫は窓の近くにすわって、座椅子の背にうつぶしている。 「ポットを持って来ますから」  仲居が出て行くと、薫がふり向いて、 「もっと飲みたい」  甘えるような調子で言った。冷蔵庫を開けてビールを取り出した。 「これでいい? ウイスキーもあるけど」 「ビール」  座卓の上にコップを並べて栓をぬいた。薫がもがくような手つきでテレビのスイッチを押す。外国の、戦争映画を映している。 「ああ、今日は飲んだな。高校のときの友だちとあんこう鍋《なべ》を食べに行ってね。これからがあんこうのシーズンらしい。たまに食べるとうまいね。見かけはグロテスクな魚だけれど……」  つい、つい饒舌《じようぜつ》になってしまう。 「お部屋代、お願いします」  仲居がポットを持って戻って来た。手まわしよく釣り銭まで用意してある。 「お風呂、とめてくださいね」  啓一郎はドアに鍵《かぎ》をかけ、風呂の蛇口《じやぐち》をとめ、ほっと肩で息をついた。  部屋のあがり口のたたきに啓一郎の靴がない。薫のハイヒールだけがそろえてある。仲居が持って行ったのだろう。それがこの種のホテルのルールらしい。こっそり逃げ帰るわけにはいかない。  薫ははすかいに体を崩し、ビールを飲んでいる。 「先にお風呂に入るよ。酔いをさまさなきゃあ」 「ええ、どうぞ」  ピンクのタイルを敷いた殺風景な風呂場。エア・マットが立ててあるのは、それを敷いて男女が抱きあうためだろうか。  ——つい、このあいだもこんなことがあったな——  さっきからしきりにそれを考えている。  湯船に体を沈めた。頭の芯《しん》に酔いがとどこおっているから、思考の速度が少し鈍くなる。薄い膜でもかけたように不鮮明になる。  ほんの数日前、こんなふうに湯船につかり、そのあと法子《のりこ》と抱きあったのを思い浮かべた。下腹の突起を指先ではじいて、 「ひどいね」  自分自身を茶化すようにつぶやいてみた。人前で話せることではないけれど、男の生活にはけっしてないことではあるまい。もっとひどい奴《やつ》もいるだろう。  汗を流すだけであがった。籠《かご》の中に浴衣《ゆかた》が二つそろえてある。 「ちょうどいい湯加減かな」 「うん」  薫は頷《うなず》いてから、浴衣姿の啓一郎を見あげ、 「あたしも……そういうの、ほしい」  と子どもっぽい調子で言う。 「浴衣? 中にあるよ」 「うん」  同じようにこっくりと頷いて立った。  テーブルの上に飲みかけのビールがある。薫のグラスはからになっているが、もう一つは半分も減っていない。しかし、もうたくさんだ。  襖を開けた。狭い部屋いっぱいに大きな布団が広げてある。スイッチを一つ一つ押して、どれがどのあかりか確かめた。  枕《まくら》もとのあかり一つで、いいだろう。タバコとライターを持って布団の中へ入った。  ——この瞬間が一番楽しいのかもしれない——  そうならば心を集中して一瞬一瞬を大切に賞味しなければなるまい。  だが、集中力を欠いている。意識がどことなく散漫だ。アルコールのせいだろうか。それとも降って湧《わ》いたようなチャンスに酔っているのだろうか。  薫とは、いつかこんなことがあるだろうと考えていた。なぜそう思ったのか自分でもよくわからないけれど、会って間もないころからそんな予感があった。あんまりたやすく叶《かな》えられてしまったので、それだけでポカンとしているのかもしれない。  風呂場のガラス戸が開いた。  布団の中で待つのは、横着すぎる。そう気づいて啓一郎はタバコをもみ消して立ちあがった。  薫はスーツをハンガーに吊《つ》るしている。下着をたたんで片づけている。その動作が終わるころを計って背後から近づいて肩を抱いた。小づくりの体がすっぽりと男の腕に包まれる。不自然な姿勢のまま唇を重ねた。そのまま襟《えり》もとから手を忍ばせて乳房をさぐった。  ピクンと震える。  乳房は小さいが、乳首は大きい。それがとても感じやすいらしい。触れるたびに体が震える。男のもう一つの腕に重みがかかる。  ——このくらいの体なら、うまく抱きかかえることができるな——  バレエやスケートのショウを見ていると、いとも簡単に男が女を抱きあげる。本当は重いのだろうけれど、技の力で軽く見せている。素人《しろうと》は、多少力があってもああはできない。  浴衣の腰をまるく撫《な》でるようにして薫をかかえた。猫のようにしなやかに抱かれている。目を閉じて、体を委《ゆだ》ねている。そのまま隣の部屋へ運んで、布団の上に置く。薫はすぐにかけ布団を引いて、 「タバコ喫《す》ってもいいかしら」 「どうぞ」  火をつけて渡した。 「中さん、もてるでしょ」  六本木の酒場でも同じことを聞かれた。あのときはなんと答えただろう。 「そうでもない。残念ながら」  やっぱり同じことを言ったのではあるまいか。答えようがない。  たしかに最近の風向きはわるくない。だが……ゆっくり考えてみると、法子とはずいぶん昔から続いている仲だ。麻美《あさみ》とは、なにかがあったわけではない。もてたとは言えない。帳面だけが黒字で現金がまだ入っていないような……。笹田《ささだ》に渡した分数は年齢のわりに多いのか少ないのか。分母と分子に、もう一つずつ加えることになりそうだ。 「ウフフフ。いいのよ。いろいろ思い出したりしなくて」 「いや、そうじゃない」  図星を指され、あわてて口ごもる。困ったときは逆襲がよい。 「あなたこそもてるだろう」  薫の容姿は十人並みくらい? その少し上……。日本的な穏やかな顔立ち……。女優のだれかに似ているが、啓一郎はその女優の名を知らない。  鼻梁《びりよう》が先端に来て、ほんの少し上を向いている。面差《おもざ》しに愛敬《あいきよう》が加わる。  唇の豊満さ、歯並びの美しさ、それがこの人の顔立ちの特徴だろう。水商売の女は笑顔がよくなければいけないんだとか。薫はもちろん合格点。かなりあましていると言ってよい。  ——荒木町と関係があるのかな—— �かとれあ�は荒木町に近い。荒木町は古い花街だ。なにかの折にふっとこぼれる薫のコケットリイは、生まれ育った土地のせいかもしれない。 「もてないわ。客商売だから、そう見えるでしょうけど……。だれとでもこんなふうになるわけじゃないのよ」 「そりゃそうだろう」  答えながら腕を肩の下に伸ばした。  抱き寄せると、肌《はだ》の匂《にお》いが散る。耳をさぐった。薫は黙ってなすがままにまかせている。髪が腕に挟《はさ》まれて、引きつれたときにだけ、 「痛い」  と声を荒げた。  いけない、いけない。もっと丁寧に扱わなくちゃあ。  細い鎖骨を撫で、一つの肩をあらわにした。肩の凹《くぼ》みにほくろがある。二の腕が頼りないほど軟らかい。下唇を口に含みながら帯の結びめを捜した。片結びだから、すぐにほどける。指先にからめて帯を抜いた。そして次に手早く自分の帯も抜く。  相変らずこんなときに言うべき言葉が浮かばない。「好きだよ」は軽すぎる。そぐわない。「愛しているぜ」は大げさだ。日本語じゃないような気さえする。薫の口を鎖《とざ》したままもう一つ肩を剥《は》ぐ。両手を滑らせて、包みこむように体をあわせた。脚を割ってからめた。  骨も肉も軟らかい。ほどよく形を変えてしないつく。そして啓一郎の動作が奥へ奥へと進むにつれ、そのたびにピクンと体を弾ませ、さらに軟らかくまとわりついて来る。  ——ほう?  採光のせいなのだろうか。薫の顔が、やけに美しく映った。  もともとわるい顔立ちではないけれど、目を閉じ、上気して、かすかに顎《あご》をあげているさまが、わるくない。淫《みだ》らでありながら、けっして美しさをそこねていない。  魂の陶酔につれ美しくなる面差しというのも、きっとあるのだろう。官能の波に洗われれば洗われるほどときめく表情もあるのだろう。眉《まゆ》をしかめる様子もなまめかしい。  ——それに——  こんなときにも啓一郎は理づめな思案をめぐらしてしまう。  立った顔と寝た顔では、おのずと筋肉の引かれる方向が異なるだろう。ほんのわずかなちがいだが、人間の表情なんて表皮の微細な張りやゆるみで大きく変化する。頬《ほお》や顎のゆるみは、あおむけになってまっすぐ上を向いたときに一番よく引き締まるにちがいない。  あれは学生のころだったろうか。真上から見た顔のとても整った娼婦《しようふ》がいた。新宿のいかがわしい場所で知った女……。本当に四、五歳は若く見えた。薫にも同じ力学が作用しているのかもしれない。  腰も細いし、恥毛もとても軟らかい。愛撫《あいぶ》の道筋をまちがえたように軽く、深い部分に触れてみた。かすかに、本当に風のように……。 「あ」  と、くぐもった声が漏れ、また薫の体が震えた。  二度目に同じ部分を訪ねたときには、指先にはっきりと肉の褶曲《しゆうきよく》を感じた。指を押し進めると一つが二つに割れた。  そこは豊満な感触だった。いくばくかの厚みを持って、堅く高潮しているように感じられた。ただ軟らかくしおれかかるのとは少しちがっている……。  だが、ゆとりはない。薫の体は小さく動き続けている。逃れ、誘い、震え、けっして留《とど》まっていない。攻撃のたびに、きまってばねを弾ませる。  眉根の皺《しわ》が深くなった。唇が�シ�の音を言うように薄く開く。嘆息が漏れ、声がこぼれ、はっきり焦燥の色が浮かんだ。 「お願い……」  力のない声が言う。  女体は卵を割ったように滑らかに潤っている。 「あ……あ」  と、ひときわ甘美な声が響いて途切れた。たやすく内奥《ないおう》へと滑りこむ。もう逃がしゃしない。男が女を。女が男を。  薫の体はすっかり腕の中に包まれている。締めればどこまでも軟らかく崩れて密着するようだ。  啓一郎は腰だけを浮かせて自由な動きに委ねた。激しい快感が襲って来る。堪《た》えるのがむつかしい。  ——なにを考えればいいのか——  今夜はどうかしている。歓喜がただごとではない。  初めてだから……。そう、新鮮さも興奮の大きな理由かもしれない。だが待てよ、男と女はそう初めから体がなじんだりしないものだ。  薫の表情は、またさらに淫らに変ったのではあるまいか。気のせいかもしれないけれど……。  ——仏像に似ている——  またしても同じことを思った。  どこの、どの仏像かわからない。仏像の顔はいくつも見ているけれど、一つ一つ名を記憶するほどの関心はない。どこかにきっとこの瞬間の薫にそっくりの仏像がいるのではあるまいか。  恍惚《こうこつ》の相。もし極楽の歓喜があるならば、やはりこの表情よりほかにあるまい。遠い世の仏師たちも同じ思いを抱いたにちがいない。それともこれは不謹慎な想像なのだろうか。 「とてもいい」  目の前の耳に声を注いだ。潤いは環状の波を作って幾重にも押し寄せて来る。  ——モルヒネの注射を打ったことがあったな——  胆石の痛みに堪えきれず一度だけ鎮痛の注射を受けたことがあった。針を抜いた瞬間から心地よさが湧きあがって来た。痛みが堅いキャベツみたいになっていて、それが一皮一皮剥げ落ちていく。痛みが溶けて安らぎが押し寄せて来る。あのときの感触に似ている。いや、それともちがっている……。  なにを考えても、もう堪えることができない。ひときわ強く抱きしめた。女体がしなうように張りつめた。 「落ちちゃう」  薫があえぐように漏らす。  その声も一枚膜を張ったように耳もとでくぐもって聞こえた。体液がほとばしる。  啓一郎はしばらくは死体のようになっておおいかぶさっていた。 「重いわ」  薫が堅い声で言う。普段の音色に戻っていた。 「ごめん」  啓一郎は体を半回転させて滑り降りた。二人で申しあわせたように、かけ布団を首まで引く。 「いつもこんなことしてるわけじゃないわよ」 「うん」  薫は、さっきもそう言っていた。 「本当よ」 「ああ」  顔を拭《ぬぐ》いながら曖昧《あいまい》に答える。  言葉というものは、くり返せばそれだけ真実味を増すものではない。ときには逆の効果もある。  啓一郎自身は、どちらかと言えば、性善説の信奉者。人間はもともとよいものだ、と考えている。  だが会社に勤務し、営業を担当するようになると、そればかりではいられない。性悪説も加わる。 「大丈夫ですよ、ご心配なく」と取引先に言われて、いつもまるまる信頼していたのではビジネスはやっていけない。言葉の裏を読むくせが、身についてしまった。  薫が見さかいもなく男と親しくなる女だとは思わない。思いたくもない。ただ……なんと言ったらいいのだろうか。抱き終ってみると、�これは、男がそばにいない体じゃない�と、漠然《ばくぜん》とそんな気配を感じてしまう。短い期間のうちにここまで来てしまった。ほかの男にも同じようなことがあっても不思議はない。  それに……もう一つ、よくわからないことがある。  ——ほかの女とちがっていた——  そんな感覚が啓一郎の中に残っている。  人柄《ひとがら》のことではない。女体の持つ妖《あや》しい特徴についてである。啓一郎もそう多くの女体を知っているわけではない。笹田にメモで渡した程度のものである。データの持ちあわせは少ないが、それでもなお、  ——少しちがっている——  と考える。  どろどろと溶け、その微妙な感触が男を溶かしてしまう。幾重にも心地よさが襲って来て、簡単に果ててしまった。  ——こんな人のそばに男がいないはずがない——  急に苦笑が浮かびそうになるのを喉《のど》の奥でこらえた。�桃李言《とうりものい》わざれども下おのずから蹊《みち》を成す�などと、いかめしい言葉を思い出してしまったから……。国語の教師の顔が浮かぶ。りっぱな人物になれば、わざわざ宣伝しなくても人が寄って来る、といった意味だろう。成蹊《せいけい》大学というのは、たしかこの文句から名前をとったはずだ。  ——来週は三菱《みつびし》の連中と飲まなきゃいかんな——  成蹊は三菱と関係の深い学校だ。このあたりの連想を薫に理解してもらうのはむつかしい。法子のようにはいかない。  考えてみると、薫について啓一郎はほとんどなにも知らない。酒場のママだということ以外は、まるで知識がない。それでもいいような、いけないような……。 「お風呂に入って来るわ」  薫は裸の背を見せ、浴衣を羽おり、すいと走って消えた。  風呂からあがって来た薫は、すでに服装を整えていた。 「ちょっと待ってくれ。すぐあがるから」  啓一郎も背広を持って風呂場へ行く。  ——やけに長い一日だったな——  そんな実感がある。  午前中はタイの市場情況について最終的なリポートをまとめた。午後は人事課のヒアリング。職場の人間関係について、ずいぶん立ち入ったことまで意見を述べた。おかげですっきりした部分もあるが、かえって後味のわるいところもある。人間を評価するのはなかなかむつかしい。課長の植田さんとは、そこそこにうまくやっているけれど、本質的には折りあえない。いつもそう思う。譲ってさえいればいいのなら、やさしい。過去にも啓一郎の観測のほうが正しいケースがいく度もあった。こっちは感情でものを言ってるわけじゃない。算盤《そろばん》で言っているんだ。  ——わるい人じゃないけどな——  古いタイプの滅私奉公型。会社のためなら命も賭《か》けかねない。それはそれでいいんだけれど、植田さんは、愛社精神のあまりわが社だけが儲《もう》けようとする。それが露骨すぎる。�相手にも儲けてもらおう�と、そのあたりが啓一郎と微妙にちがっている。  帰りぎわにちょっと衝突をしたが、今日のところは七分三分で譲った感じ。むこうはそう思っていないかもしれないが……。  五時過ぎに会社を出て笹田と飲んだ。  ——笹田はいい奴だな——  古い友だちはいつ会っても楽しい。教師のわりには遊び人だが、昨今はああいう自然体で生きている先生のほうがいいのだろう。  ——あのまま二人で飲み続けていたら、薫とこんなふうにはならなかった——  笹田のほうに利根川《とねがわ》歩行の予定があったから別れた。その行事の日取りは、いつ、だれが、どうして決めたのか。知らない学校の職員会議の決定が、めぐりめぐって啓一郎と薫の夜を結びつけた。  ——どの道こうなるはずだったかな——  そんな気もする。今夜でなくても、いずれは抱きあっただろう。 「お待ちどおさん」  啓一郎がのぞくと、薫は髪を整えながらテレビの妖しげな画像をながめていた。 「いやあねえ、これ」 「有線で流しているやつだろ。さ、行きますか」 「ええ」  電話をかけて、仲居に靴を持って来てもらった。 「冷蔵庫を使いましたか」 「ビールを飲んだ」  仲居はビール代を受け取り「ありがとうございます」とも「またどうぞ」とも言わない。愛想のわるいほうが、よいサービスなのかもしれない。  タクシーを拾い、薫をマンションの前で降ろし、  ——ああ、つかれた——  シートにだらしなく体を預け、大あくびを吐いた。  もう朝の四時に近い。それでも青山通りあたりは赤いテールランプが切れない。タクシーも空車ばかりではない。  ——みんな頑張っているんだなあ——  遊んでいる人ばかりではあるまい。不幸に見舞われている人もいるだろう。よからぬ仕事を企てている人もいるだろう。夜は暗いとばりの下でさまざまなものを仕掛けている。 「お客さん、景気はどうですか」  サラリーマンらしいと見て、運転手が声をかけてきた。 「よくないんじゃないかなあ」 「やっぱりそうですか。遠距離が少なくなったもんねえ」 「家に帰るよりビジネス・ホテルあたりに泊まったほうが安いんじゃないかな」 「そう。忘年会のシーズンになると、課でまとめてホテルの予約をとる会社があるそうですよ」  話しているうちに下北沢の家に着いた。玄関の常夜灯だけがついている。家族は寝静まっている。だれか一人くらいは、  ——ああ、帰ったな——  と布団の中で思っているかもしれないが……。  足音を忍ばせて啓一郎は自分の部屋へ入った。机の上に本を包んだような郵便物が置いてある。ひっくり返すと�寺田|麻美《あさみ》�と記してある。  ——なんだろう——  手荒く包み紙を破った。 �園芸大図鑑�と記した厚手の本が現われた。和紙の便箋《びんせん》に書いた手紙がそえてある。 �津和野から帰って、また京都へ行きます。ちょっと近所の本屋さんに立ち寄りましたら、これがあったのでお送りします。たしか花の名前を知りたいとおっしゃっていらしたので……。今年の秋は短いとか。ご自愛くださいませ�  二枚目はただの白い紙である。  たしかに「花の名前を知らない」と飛行機の中で言ったような記憶がある。それを心に留めておいてわざわざ本まで送ってくれるのは大変な好意だろう。もともとそういう親切が好きな人なのかもしれないが、ただの儀礼ではあるまい。好意以上と言ってもよい。  啓一郎としては、麻美の心を計りかねていた。香港《ホンコン》では、ずいぶん親しい関係にまで進んだのに、東京へ帰ってからは、よそよそしい。二週間もたつのに会うことさえできない。いそがしいのはたしかだろうけれど、会おうという気持ちさえあれば、なんとか会えるものだ。せめて昼飯を一緒に食べることくらい……。のべつ旅に出ているわけでもあるまいし。会えないのは麻美のほうに、もう一つ熱意が湧《わ》いて来《こ》ないから……と、思案が傾きがちだった。 �園芸大図鑑�は表紙に鮮やかな花の写真を広げて、 「いいえ、そうじゃないのよ。お会いしたいけれど、本当に時間がなかったの」  と詫《わ》びているようにも見えた。  啓一郎は�園芸大図鑑�のページを立ったままめくって、見るともなしにながめた。  花の名前がアイウエオ順で並んでいる。小さなカラー写真もそえてある。どの花も、それなりに美しい。しかし名前がわからなければ、アイウエオ順で調べるわけにもいかない。その名前が知りたいときにはどうしたらいいのか。相手が人間ならば、 「あの花はなんですか」  と尋ねれば、 「桜です」  と答えてくれる。図鑑には、この機能が欠けている。コンピュータも、この機能はあまり得意ではない。  ——最近、似たようなことがあったんだがなあ——  思い出そうとしたが、思い出せない。やめておこう。コンピュータとちがって人間の頭は夜通し働くわけにはいかない。今夜はとりわけアルコール漬《づ》けになっている。�ハイビスカス�を引いてみた。赤の色が美しい。ハワイの州花。和名は扶桑花《ぶつそうげ》と言うのか。麻美がこの花を髪にさしていたイメージが、ぼんやりと浮かぶ。花ばかりが鮮明に映って、顔のほうは相変らずとりとめがない。  もう二週間もたってしまった。麻美とはほんの数時間しか会っていないのだし……。花の面影《おもかげ》を追って麻美の指先だけが映った。細い指にからんで花弁が萎《しお》れている。  図鑑のページを戻してカトレアの項目を引いた。洋蘭《ようらん》の一種。写真で見ても形状がはっきりとしない。ロールシャッハ・テストの図形みたいで……。  ——変だな——  花と女体は、どこか共通な部分があるのだろうか。薫《かおる》の店で見た絵が浮かび、絵の中の女が薫に変った。啓一郎は図鑑の上に頬杖《ほおづえ》をつき、しばらくは闇《やみ》をすかすようにして最前の情事を思った。くり返して薫と二人ですごした時間を反芻《はんすう》してみた。  廊下の時計が一つだけ鳴った。  ——もういい——  啓一郎は図鑑を閉じてパジャマに着換えた。歯磨《はみが》きは省略。薫のことをノートに記すのは明日にしよう。  あかりを消してベッドに潜りこんだ。まどろみはすぐにやって来るだろうけれど、それまでの数分間を放恣《ほうし》な空想にゆだねよう。王者にも奴隷《どれい》にも等しく与えられている快楽……。ちがうかな。  思考は際限もなく淫《みだ》らなものへと傾いていく。女体の隠された部分が浮かぶ。しかし思考はいちじるしく集中力を欠いている。とりとめがない。もはや思考ですらない。脳裏になにかが映っているだけ……。  ——あ、いけない——  もう一つ大切なことを忘れているのに気づいた。  ——あれでよかったのかな——  簡単に薫を抱いてしまった。あらかじめ決められていた手続きみたいに。  つい昨日までは、一人の女を……麻美を抱かなかったことを思い悩んでいた。今でもそのテーマが解決したわけではない。  抱かないことについて、あれだけ考えたのなら、抱くことについても、もっと熟慮してよかっただろうに……。  そんな気がする。  そうでもないような気もする。  二つの出来事が啓一郎の中で繋《つな》がっていることはまちがいない。麻美と薫とを一まとめにして�女�としてながめれば、なんの矛盾もない行動である。前回は慎重すぎた。だから今度は大胆に踏みこんでみた。あいにく相手はそれぞれちがっている。  なにかしらよくない思案が湧いて来た。  ——ああ、そうか——  営業を担当して間もない頃《ころ》、外資系の商社からの注文を落とした。慎重すぎたのがいけなかった。次に大手の建設会社の仕事を、あせってしくじった。特に後者はひどい。入社以来最大の失敗だったろう。それと少し似ている。  ——時期がわるいなあ——  漠然とそんな予感が胸を刺す。  麻美からの贈り物が届いた。新しい人間関係が着実に始まろうとしている。よりによってこんなときに薫と深い関係になってしまうなんて……。もう少し待ってみてもよかった。  ——薫について、なにを知っているのだろうか——  まだ青いノートに名前さえ記していない。年齢もきちんと聞いていない。 「三十歳と……ちょっとね」  そう言っていたけれど。その�ちょっと�がどのくらいなのか、肝腎《かんじん》なところがわからない。  年齢なんかどうでもいいようなものだが、薫についての情報はそれほど少ない。そばにいたというだけのことなら麻美より薫のほうが、ずっと長い時間を一緒にすごしているけれど、大部分は客とママとの時間でしかない。またしても�かとれあ�の壁に吊《つ》るしてあった絵が浮かんだ。  裸の女。しかし顔も体も淡い印象だった。人体は線と薄い色彩だけで背景のようにあっさりと描いてあった。腰のあたりにカトレアの花が一つ、これは色濃く、大きく花弁を開いていた。薫の存在そのものが、あの絵のように感じられてならない。妖《あや》しい花の図柄《ずがら》だけが思い浮かぶ。  ——それはともかく——  自分の置かれた情況について、なにか考え落としていることがあるようだ。忘れものをしていながら、なにを忘れたのか、わからないときみたいに。だが、もう眠い。ややこしいことは明日また考えればいい。  いくつかの夢を見た。  会社の会議室で読書会のようなことをやっている。植田課長がいる。同僚もいる。法子《のりこ》の顔もある。妹たちまでいるのは、どうしたわけだろう。テキストは�風とともに去りぬ�。啓一郎が一生懸命に説明している。  ——今夜は眠ろう。明日の朝、また考えよう——  そんな、ヒロインの考え方がどれほど感動的か、しきりに述べている。説明は充分に功を奏したらしい。みんなが泣きだした。  ——課長は涙もろいところがあるんだ。浪花節《なにわぶし》なんだよな——  夢の中身がいつのまにか変って、部屋に古めかしい蚊屋《かや》が吊るしてある。女が浴衣姿《ゆかたすがた》で中にいる。近づいてのぞくと、麻美だとわかった。  麻美は行儀よく膝《ひざ》をそろえて布団の上にすわっている。 「どうぞそのまま」 「ええ。すみません」  啓一郎は蚊屋の外に身を横たえた。  ——よかった——  太い帯のように歓喜が寄せて来て、頭の中に広がった。とてもうれしい。  目を開けると、カーテンの上に筋やら丸やら、さまざまな模様が映っている。外が雨戸になっていて、その薄板に穴が散っている。通り抜けて来る光が鋭い。  夢は目ざめる直前に見るというが本当だろうか。�風とともに去りぬ�は高校二年の夏休みに読んだ。ヒロインの名はスカーレット・オハラ。  ——女は結構したたかなんだなあ——  恋愛も生活手段の一つ。スカーレットの生き方の中に、それを感じたのは、ずっとあとになってからだったろう。高校生では早すぎる。法子と映画を見たとき……かな。  夢の中でしきりに啓一郎が解説していたのは、長い作品の最後の部分だろう。立ち直れないほどの悲運に見舞われたヒロインが�今日は寝よう。明日になればまたいい思案が浮かぶ�と考えるくだりである。感動的な幕切れだった。たしかによれよれの状態で考えていても、よい知恵は浮かばない。朝の光には、人間を励まし、利巧にしてくれる力が含まれている。  啓一郎も今朝がた眠る前にそれを考えていた。それが眠りの中に滑りこんだらしい。  もう一つの夢はなんだったのか。夢の中では感情の増幅が激しい。やたらにうれしかったり、やたらに悲しかったりする。  たしかにうれしいと感じた。その感情が目ざめてもそのまま残っていた。どうやら麻美と蚊屋一枚をへだてて眠ったのが啓一郎の脳味噌《のうみそ》にとってお気に入りだったらしい。  とても本心とは思えない。  夢は嘘《うそ》つきだ。根も葉もないことを映したりはしないけれど、頭のすみに潜んでいるひとかけらの異分子をことさらに取り出して大げさに主張する。せめて夢の中でくらいは麻美を犯せばよかったものを……。  ベッドの中から見ると置時計の針は縦に直線を作っている。十一時半かと思ってよく見たら、もう一時間あとのほうだ。 「よく眠ったな」  Gパンにトレーナーをかぶって部屋を出た。 「親父《おやじ》は?」  リビングルームでテレビを見ているひろみに尋ねた。腕と手でYの字を作り、頬杖をついている。 「あら。お早いこと。お父さん? 散歩へ出てったわ。碁会所にでも行ったんじゃない」 「保子《やすこ》は?」  家の中がひっそりとしている。ひろみが急にうれしそうに笑って、 「おデートかしら」 「ふーん」  めずらしいことがあるものだ。長男は朝帰り。長女はデート。まあ、いいか。 「このあいだの見合い、いいみたいよ」  保子の見合いの話は、啓一郎も聞いていた。タイにたつ前に、 「どうかしら?」  と保子に聞かれて、 「いいだろ。会ってみろよ。恋愛はいつでもできるけど、見合いは独身のときだけだからな」  われながらうまい台詞《せりふ》を吐いた。むしろ啓一郎自身に言うべき言葉かもしれない。兄貴の勧めに従ったわけではあるまいが、保子は相手の男と会ったのだろう。 「それで……むこうが保子を気に入ってくれたのか」 「そうなんじゃない? いろんな趣味の人がいるから。お姉ちゃんもまんざらじゃないみたい」 「へえー、めずらしいな」 「一人くらい決まってくれなきゃ私のとき不利になるわよ。どっか体に欠陥のある血筋じゃないかって思われて」 「お家も断絶するしな」 「そうよ」  ソファに腰をおろしてタバコに火をつけた。口の中がやけに苦い。やはり飲みすぎたのだろう。 「朝帰りのお兄さまは、なにかめしあがるのかしら」 「そうよな。コーン・スープ。トースト」 「面倒なこと言って」 「ひろみだって昼めしを食うんだろ」 「三度三度、いやねえ」  口をヒョットコにしながら立ちあがった。同じ姉妹でも、こちらのほうがしっかりしている。思いっきりがいい。短大を一年でやめて、今は獣医の学校へ通っている。なにしろ親父が四十歳のときに生まれた子だ。心のどこかで�そう長くは親のすねをかじられないわ�と覚悟しているのかもしれない。 「はい、コーン・スープ」 「ありがとう」  姉の保子のほうは、チャッカリ屋だが、優柔不断。家庭的。学校を出てから勤めにも行かず、ずっと家にいるのは結婚準備期間のはずだが、今日までのところまだ成果はあがっていない。  ——女はなにを考えて結婚に踏みきるのか——  妹に聞いてみたところで、どうせ茶化すにちがいない。  ひろみは長い髪を襟首《えりくび》でかきあげ、青い毛どめで留めている。細いうなじが女を感じさせる。  ——こいつも今に男と抱きあって身悶《みもだ》えなんかするのかな——  今までにほとんど思ったこともないことを考えた。  想像するだけで気持ちがわるい。背筋のあたりにモゾッとしたものを感じる。生理的な嫌悪《けんお》に近い。  タブーを犯しているから……。  きっとそうだろう。短い日時のうちに法子を抱き、薫を抱いた。さらに麻美を抱きたいと考えている。不道徳ではあっても、これはまだ許される。�女�の中に妹を加えたら大変だ。生きている基盤が危うくなる。脳味噌《のうみそ》はいち早く危険を察知して�生理的な嫌悪�を張りめぐらすだろう。ひろみと二人だけで無人島に流れ着いたらどうなるか。今朝はちょっとおかしいぞ。 「なに見てんの、いやらしい。お茶漬け食べたい?」  ひろみは一人でお茶漬けをかきこんでいる。 「いや。同じように育ったはずなのに、顔も性格もちがうな、と思って。保子と」  とっさに日ごろ思っていることをつぶやいた。親みたいな言いかただが、妹たちに対して、啓一郎はそんな気分がないでもない。 「あ。それ、ちがうみたいよ」 「なにが?」 「よくそう言うでしょ。姉妹が二人いて、同じように育てたのにちがうとか」 「ああ」 「でもネ、姉であるか、妹であるか、それだけで決定的にちがうことなんですって。ぜんぜん同じようにじゃないの。そりゃそうよね。生まれたときから、先に強いライバルがいるのと、いないのと、ずいぶんちがうわよ」 「なるほど。そうかもしれん」  新聞を引き寄せ、見出しをながめコラムを読んだ。 「きのうはどこで飲んでたの?」 「笹田《ささだ》と会って……。六本木とか……」 「五時|頃《ごろ》だったでしょ」 「それよりは少し早かったな」 「不潔」  ひろみも兄の周辺に怪しい匂《にお》いを感じているのかもしれない。 「ご馳走《ちそう》さん。午後は家にいるのか」 「そうよ。どうして?」 「ちょっと出て来る」 「どこ?」 「泳いで来る」 「へえー。どうぞ」  洗面をすませて原宿のアスレチック・クラブまで電車で出た。ここには温水プールとテニス・コートと運動器具を置いたジムがある。サウナ風呂《ぶろ》もある。会員制のクラブだが入会金が安い。日曜日のせいもあってプールは混《こ》んでいる。啓一郎は入念に準備運動をしてから、足、腰、胸と水の中に沈めた。  それからプールサイドにあがり、飛びこんで百メートルほど泳いだ。半分はクロールで、半分は平泳ぎで。  体がひどく重い。一息ついてから今度はバックでゆるゆると遊んだ。 �気持ちがムシャクシャするときはとにかく泳ぐ�と、ついこのあいだ大学の恩師が新聞のエッセイ欄に書いていた。  啓一郎は本日とくにムシャクシャしているわけではないけれど、まあ、気分はモラトリアム。考えなければいけないことがあるはずなのに、それを先へ先へと延ばしている。考えてみたところで、さほどよい結論は出ないだろう。それが予測できるだけに、考えるのが億劫《おつくう》になる。  若い頃は、自分の脳味噌の働きを信じていた。理性が完全に自分の肉体を支配していると考えていた。  だが、事実はかならずしもそうではないらしい。理性にも曖昧《あいまい》な部分がある。いつも同じコンディションで作動しているわけではない。体調のわるいときには判断がどうしても消極的になってしまう。腹がすいていれば怒りやすくなってしまう。禁欲が続けば女性の評価が甘くなる。どんなに冷静な理性でも微妙に肉体のコンディションに影響されるものだ。裸になって水をくぐると理性の汚れが洗われる。そんな気がする。  心の洗濯《せんたく》をすませ、プールサイドに寝転がった。若い娘がきれいなクロールで泳いで行く。スピードも乗っている。  ——速いなあ——  一度は選手をやったことのある人だろう。水からあがった肢体《したい》は、みごとと言ってよいほど無駄な筋肉がない。均整はとれているが、細くまっすぐで、鉛筆みたいな印象だ。  高い水しぶきがあがった。年輩の外国人が抜き手みたいなフォームで泳ぐ。これは白熊《しろくま》のよう。  啓一郎も二百メートルをクロールで泳ぎ続けてあがった。最後の二十五メートルはもうヨレヨレの状態。腕の力でプールサイドにはいあがるのがむつかしいほどだった。  しかし水泳ぎの疲労は心地よい。一カ所の筋肉だけが痛むということがない。全身が一様に疲労して、マッサージを受けたようになる。  渋谷《しぶや》のデパートと書店に寄って帰ると、夕食の時間になっていた。  家族がそろっているのを見て父がワインをあけた。�ボジョレ・ヌーボー�の赤。最近やけに人気がある銘柄《めいがら》。保子もひろみも少しは飲めるくちである。 「トランプでもやろうか」  父の提言で食後にはトランプが始まった。  ゲームはナポレオン。妹たちが小さい頃は、七並べやフォーティワンやツーテンジャックをやったけれど、大きくなるにつれてトランプと言えばきまってナポレオンをするようになった。家族|麻雀《マージヤン》というのはあるが、家族トランプというのはめずらしい。これは母が死んでからの習慣である。こんな方法で家族の団欒《だんらん》を保とうと、父が考えたのは疑いない。保子もひろみも泣きながら楽しんでいた。今はだれのためにやっているのか。子どもたち三人で父をあやしているようなところもある。 「スペードで十三」 「スペード? やめて。きらいなタイプなの。ダイヤで十四」  ナポレオンはツーテンジャックに似ている。スペードのエースがオールマイティ。一番強い。切り札はあるが、マイナスはない。四人が、ナポレオン軍と連合軍とに分かれて二十枚の絵札を奪いあう。ゲームに先立ってなにを切り札にするか、せりをやって決める。「スペードで十三」というのは、�スペードを切り札にしてくれれば、自分はナポレオンになり、副官ともども絵札を十三枚集めます�の意である。自分の手札を見て何枚くらい取れそうか見当をつける。  父が子どもたちに言っていたのは「無理してもナポレオンになれ」であった。黙っていれば副官か連合軍である。負けても責任の所在がはっきりとしない。そういう生き方を父は嫌ったのだろう。  勝敗の行方はわからない。たとえ負けるにしても自分がナポレオンになって打って出るほうがましだ。とりわけ啓一郎は、しつこくそれを父に言われた。  サラリーマンはどちらがいいのか。上層部は、 「そりゃ文句なしに積極性のある奴《やつ》がいい。ミスはやっても、プラスの多いほうがいい」  と断言するけれど、現実には、当たらず触らず、ミスもプラスも少ない者が評価されるケースも多い。いい気になって積極性ばかりを信じていると、二階にあげられ梯子《はしご》を取られかねない。 「ダイヤで十四。いいわね」 「それ以上言えないもん」  保子がせり勝ってダイヤが切り札に決まった。 「副官はもちろんオールマイティ」  スペードのエースを持っている人が副官に指名されたが、これは名乗らない。ひそかにナポレオンを助ける。ゲームの後半に入ってスペードのエースを出したとき初めて敵味方の陣営が明瞭《めいりよう》になる。  もう十年あまりも同じメンバーで遊んでいる。ゲームが始まれば、長年慣れ親しんで来た楽しさが加わる。半畳が入る。年齢が少し高すぎるけれど、これも、まあ、なごやかな家族の肖像……。  ——おかしなもんだね——  昨夜の情事とこの団欒は、どう繋《つな》がっているのか。  ——人間にはいろんな顔があるからなあ——  啓一郎は当たり前のことを、あらためて感じ入っていた。  家族ゲームは十回戦で終わった。そのくらいの回数がいつもの習慣だった。  ナポレオン軍でも、連合軍でも、勝った側に○印をつける。負けた側に×印をつける。記号のわきに小さく�ナ�と書いてあるのは、そのゲームでその人がナポレオンになったというマークである。 「保子とひろみが○印六つか」 「でも、あたしのほうが、ナポレオンを多くやっているから……」  ○印の数が同じなら、みずからナポレオンとなって勝った回数が決め手となる。つまり、○印が多く、しかもナポレオンとして数多く勝っている者がその日の最高勝利者となる。幼い頃はご褒美《ほうび》の出ることもあったけれど、今はアマチュアリズムに徹している。 「ナポレオンより優秀な副官だっているわ」  だから無条件にナポレオンを優遇するのはおかしい、と、これは保子の持論である。 「そんなこと言ったら、連合軍のほうだって、大活躍する人もいるし、一枚も取れない人もいるし」 「だから査定をもっと細かくするべきなのよ」  もう議論というほどの激しさはない。何年となくくり返して来た話をむし返して楽しんでいる。�査定�という言葉が啓一郎の頭に新しい連想を運んで来る。ボーナスの査定の時期も近い。  ——細かく査定をすれば、それで公平になるってものじゃないんだよな——  むしろ逆かもしれない。  啓一郎が入社した当時はABCの三段階だった。九割がたがB。よほどの努力をしなければAにはなれない。よほど怠けなければCには落とされない。努力の度合いには天と地ほどの差があるのに、AとCのボーナス支給額を比べてみれば数千円程度の差でしかない。  ——実質的にはCが一番得をしてるんじゃないのかな——  などと思ったりしたものだ。  今は会社でももっと細かい区分を採用している。働きに見あうように工夫されているけれど、区分が多くなればそれだけ不満も増える。同じ会社に入ったら運命共同体。働く奴《やつ》も働かない奴も、ほとんどBという区分のほうが、波風の立たない評価なのかもしれない。  ガス・コンロのお湯が沸くのを待って、保子《やすこ》がお茶をいれる。湯飲みは益子焼《ましこやき》のおそろい。一つでも欠けると、父は全部とり替えてしまう。 「貧乏くさいからな」  何度かそんな台詞《せりふ》を聞かされた。  ——親父《おやじ》は家族のだれかが欠けるのをおそれているのかもしれない——  と、四つ並んだ茶碗《ちやわん》を見ながら啓一郎は考えた。 「じゃ、おやすみ」  父が寝床へ立った。 「お風呂《ふろ》に入るかなあ」  ひろみがだれに言うともなく告げて立ちあがる。それを目のはしで見送って、 「今日はどうだった?」  保子に尋ねたのは、デートの首尾についてである。 「べつに……。どうってことないけど」  保子は照れくさそうに笑っている。  父は娘の結婚についてあまり熱心ではない。少なくともそう見える。だから柄ではないが、兄が多少心配してやらなければいけない。ジェスチャーくらい示してやらなければ、愛想《あいそ》がなさすぎる。  昼のうちに、ひろみから「お姉さん? おデートらしいわよ」と聞かされていたので、ちょっと様子を尋ねてみたのだった。  だが、この種の会話は、中座家ではめったに語られない。ほとんど伝統のない世界である。 「少しは真剣に考えろよ」  そう言っている当人が、三十五歳になって独りなのだから説得力を欠く。苦笑が浮かぶ。 「お兄ちゃんみたいの、英語でコンファームド・バチェラーって言うんですって」 「ほう?」  保子は今でも英語の教室に通っている。  バチェラーは独身者。コンファームドは……�確認した�とかいう意味だったな。 「独身男性にも二種類あって、結婚したくてしたくてたまんないけど、できないのが、マーリング・マン。意気がって独りでいるのが、コンファームド・バチェラー。学校で習ったわ」 「俺《おれ》はそう決めたわけじゃない。保子はどっちだ。マーリング・ウーマンてのはないのかな」 「女はだいたいそうだから、わざわざ言葉なんかないのよ」 「しかし、あせることもない。一生に一つ見つければいい」 「そうは思ってるわよ。もったいないけれど、合格点はいっぱいいるのよね。でも�なんで私がこの人と一生暮らすのか�って、そう考えると、ぜんぜんピンと来ないの。�いや、やめて。パス�って感じになっちゃうのね」  その気分はわからないでもない。 「今度もそうか」 「まあねえー」  言葉じりを長く引いたのは、いつもよりは少しはましというサインだろう。まるっきり厭《いや》なら、保子はデートにも出かけない。 「お兄ちゃん、会ってみる?」 「俺が? 親父の仕事だろ」 「お父さんが出るのは、もっとあとよ。大げさになるじゃない」 「会うのはかまわんけど……会ってどうするんだ。�いい男だからあれにしろ�そう言ったら、保子はすなおに従うのか」 「ううん、すなおには従わない。根がすなおじゃないから。二つの目で見るより四つの目で見るほうが確実じゃない。職場で若い人をたくさん見てるんでしょ。二十九歳ですって」 「サラリーマンとしてどうかって感じなら、少しはわかるかもしれんけどなあ。夫としてどうかってことになると……」  だれか世慣れた女の人の目のほうがたしかなのではあるまいか。  ——さしずめ法子《のりこ》——  第一感としてそう浮かんだが、まさかいそがしい人にそんなことまで願うわけにはいかない。 「もう少し自分で考えてみろ。それでよさそうなら俺が会ってみてもいい。軽い気分でな」 「その節はお願いします」  保子は大仰に頭をさげた。  啓一郎はよく�年齢のわりには落ち着いている�と言われる。三十五歳は、もっと目茶苦茶なところがあるものだ。  幼いときから聞きわけのいい、穏和な性格だった。二十歳で母を失い、ずいぶん年の離れた妹が二人いるのだから、どうしても分別が先に立ってしまう。二人の妹に対しては親のような気持ちを抱くときがある。 「ま、あわてることはないよ」  口の中でつぶやいて居間を出た。  啓一郎の部屋は一階の西側の角にある。面積は広いが、日照条件はよくない。 「どうせ昼は寝てるか、いないかでしょ」  妹たちの主張があって、二階の日あたりのいい部屋を奪われてしまった。  八畳の洋間。麻美《あさみ》から贈られた�園芸大図鑑�は押入れの中にポンと置いてある。妹に見られたら、  ——お兄ちゃん、どうしたのかしら——  と勘ぐられてしまう。花になんかまるで関心がなかった。 「気がくるったんじゃない」  ひろみはきっとそう言うだろう。  勘ぐられて困ることはなにもないけれど、多少のわずらわしさは生ずるだろう。勝手な想像をされ……朝帰りもやりにくい。図鑑を引き出して、またページをめくった。  ——近いうちに、なにがなんでも麻美に会おう——  と考えながら。  花の名は多い。学生時代に生物を習ったが、あれとこれとはなんの関係もない。光合成の仕組みを知ることと、身近な花の名を熟知しておくことと、長い一生を考えれば、どちらが大切なことなのか。おしなべて学校教育は、人生を楽しむ方法に関しては吝嗇《りんしよく》である。めったに教えてくれない。  ——国の予算でやってるからかなあ——  だから娯楽に対するサービスが薄いのだろうか。  椅子《いす》に腰かけ、今度は青い表紙のノートを取り出した。寺田麻美についてはあらたに加えるものはなにもない。ルーズ・リーフの新しいページに田川|薫《かおる》と記した。  ——なにから書こうか——  淫《みだ》らなイメージばかりが浮かぶ。それから書き始めるのは気が引ける。この抑制力はなんなのか。  年齢は空欄のまま�□□歳�とだけ記した。そのうしろに括弧《かつこ》をつけて(昭和六十年現在)と書いた。住所は�新宿区大京町�まで。番地は後日記入することになるだろう。  そして内容……。 �面差《おもざ》しはこけしに似ている。これは目が細いから。仏像にも似ている。とりわけ下唇の脹《ふく》らみ。陶酔につれ仏像みたいな法悦の表情を浮かべる。淫らさを増す� �全体に肉が軟らかい。頬《ほお》や顎《あご》の肉もきっとそうだろう。だから上向きになると、ほんの少しだけ肉が下に引きずられ、顔が引き締まる。そのせいで美しさを増す。そういうタイプの顔。ベッドで美しい顔というのもあるものだ�  走り書きで記した。  啓一郎には絵ごころが薄い。犬と馬をかき分けるのさえむつかしい。いつも法子に笑われている。  それでも啓一郎はページの右すみの余白に額ぶちらしい長方形をかき、その中に薄く、ぼんやりと女の裸形をかいた。それから赤鉛筆を用いて腰のあたりにシンメトリックなカトレアの花弁を描いてみた。これは薫の店にあった絵のつもり。 �服装は仕事がら華やか。ファッション雑誌で見るような、めずらしいデザインを着ていることも多い。とてもよく似あうときと、気恥ずかしくなるようなときとがある。初めてホテルへ行った夜は、薄茶のドルマン・スリーブ。焦げ茶のベルト。シックな感じで、よい。このほうが頭がよさそうに見える�  服装と頭のよしあしは、どう関係しているのか。とりわけ女性の場合……。  ずいぶん頭のいい女でも、妙ちきりんな服装をしていることがある。反対に、馬鹿《ばか》まちがいなしといった脳味噌《のうみそ》でも、着るものだけは不思議とセンスのいい女がいる。衣服の趣味と頭の働きはまちがいなく繋《つな》がっているはずだ。けっして無縁のはずはないのだが、どこでどう関係しているのか、わからない。薫については、目下のところまだデータが足りない。 �細い体。感じやすい体。うなじ。乳首。背すじの下のほう�  わざわざ書き留めておくほどのことかどうか。 �毛髪は軟らかい。花弁が大きく厚い�  本当かな。このあたりは、フィクションを書いているような気さえする。どうしても筆がにぶってしまう。薄闇《うすやみ》の儀式。どうもはっきりとしない。不充分な記憶でデータを記すのはやめておこう。 �声について。ふたいろの声を持っている。陶酔のときには、声の音色が変る。少しかすれるような、うわずるような声�  これもよくわからない。演技かもしれない。陶酔への自己暗示なのかもしれない。薫の人柄《ひとがら》についてもなにかしら記しておかなくては、と思った。  思案のすえに、 �普通の人�  ただ一行だけ書いてみた。  書いたところでほとんど意味のない表現。普通でない人なんかいるだろうか。  そう。たしかに千倉《ちくら》法子は、それほど普通ではない。性格も行動も世間一般の物指しで計れば少し変っている。寺田麻美は……? こちらは変っているのかどうか、それさえわからない。 「お兄ちゃん、お風呂に入る?」  ひろみがドアの外から尋ねた。 「いや、いい」  妹たちは、まあ、普通のほうだろう。当然のことながら普通の人はいっぱいいる。薫についてことさらに�普通の人�と記したのは、それなりの考えがあってのことだった。  ——第一印象というのは本当に信頼できるものだろうか——  啓一郎は、ずいぶん昔からそんな疑問を持っている。最初に受けた印象と、その後その人とずっとつきあってみて、  ——ああ、こいつはこういう人間なのか——  と理解した人格とを比べてみて、みごとに一致したケースもあるけれど、まるっきりはずれた例もけっして少なくない。  学生の頃《ころ》はともかく、サラリーマンになって、さまざまな人間に接するようになり、少しは人を見抜く目を持つようになってからもやっぱり、  ——はずれたな——  と感じたことはあった。厳密に考えてみれば、かなり多くはずれている。そう意識するのは、これも笹田三彦《ささだみつひこ》のユニークな�学説�に影響されているせいかもしれない。 「三分の一理論というのがある」 「数学の定理か」  まだ春も寒い頃、一緒に野球を見に行ったときだったろう。 「ちがう。俺の学説だ」 「アハハハ。またか」 「人間の脳味噌《のうみそ》なんて曖昧《あいまい》なものだからな。三つに一つが命中すれば、�当たった、当たった�と思うものなんだ。競輪場へ行ってみろ、俺は知らんけど、予想屋の予想ってのは、三つも書いてあるそうじゃないか。そのどれか一つが当たっても�大当たり、大当たり�って叫ぶらしい。厳密に言えば、三つのうち一つしか当たっていない。むしろこれは的中してないんだ」 「うん?」 「春先に野球の優勝チームを予想して�阪神だろうな。巨人かもしれんけど�と言う。その結果、巨人が優勝すれば�最初から、俺、そう思ってたんだよ�って気分になる。これは二つのうち一つが当たっただけで、本当ははずれだ」 「そうかな」 「そりゃそうだろ。実際に行動するときには、あっちの道もこっちの道もってわけにいかない。一つを選ばなくちゃいけないんだ。評論家が偉そうに見えるのは、このせいだな。三つくらい意見を言う。その一つが当たれば�ほら、この通り�って感じになる。実際にやる奴は、一つだけ選んで、それがうまくいかなければ意味がない。�あっちも一応考えたんだけど�なんてのは泣きごとでしかないよな」 「それは言えるな」  人柄の判断についても同じ理屈が成り立つだろう。第一印象はけっして一つではない。三つか四つか五つ、とにかくいろいろな性格を予測する。それを第二印象、第三印象が修正し、補足する。初めのどれか一つが当たっていれば、  ——第一印象の通りだな——  と考えてしまう。そんなケースが多い。  啓一郎は、ルーズ・リーフに薫の印象として、とりあえず�普通の人�と記し、そのあとにクエスション・マークをつけてみた。�普通以下の部分が表われて来るかもしれない�と、そんな思いがないでもないから……。 「これでよし」  ボールペンを置き、パジャマに着換えた。 [#改ページ]   梅もどき  十一月に入っていそがしい毎日が続いた。おまけに中座啓一郎は風邪《かぜ》を引いて、これがなかなかなおらない。  高熱が続き、三日間休んで出社したが、すっきりとしない。風邪薬を飲んで残業。取引先に誘われて、ちょっと一ぱい。なおりかけたものがまたわるくなってしまい、さらに二日休んだ。 「風邪なんてもの、本当はすっかりなおしてから出て行くほうが、だれにとってもいいんだがな」  父はそう言うが、現実はそうもいかない。父自身だって現役のサラリーマンの頃《ころ》は結構無理をして会社へ行っていたはずだ。 「風邪を引いたら休むのが一番りっぱなサラリーマンね」  保子《やすこ》が、冴《さ》えない啓一郎の顔を見ながら屁理屈《へりくつ》をこねる。 「どうして?」 「だって、風邪引きのくせして出勤するのは、周囲にビールスをばらまいて会社の業績を低下させるわけでしょ」 「まあな」 「自分がわるく見られたくないばっかりに、周囲の迷惑を考えないのよね。その点、休む人はりっぱよ。自分は白い目で見られながらも全体の利益を考えてるわけ。自己犠牲のかがみね」 「ふーん」  とても百パーセントの真実とは言いがたいが、そんな側面もなくはない。ほとんどのサラリーマンが、風邪ぐらいなんのその、  ——自分の責任をまっとうしたい——  と、けなげな心がけで出勤して来るが、その実多くの人に病気を移している弊害についてはほとんどなんの考慮も払っていない。  ——いつになったらなおるんだ——  啓一郎もさぞかし見えない凶器で周囲の何人かを傷つけたにちがいない。こんな状態では�かとれあ�へ足を運ぶのもままならない。一度だけのぞいたが、ホット・ウイスキーを一ぱい飲んだだけで店を出た。 「どうしたの?」  薫《かおる》は不満そうな顔つきで大通りまで送って来た。腕をからめ、肩を預けながら……。仕ぐさは以前と少しも変らないが、時折、心の目配せみたいなものが、ふっと飛んで来る。抱きあった二人のあいだにだけ走る微妙な吐息だろう。 「風邪がひどいんだ」 「今年はひどいんですって」 「毎年そう言っているじゃないか」 「早く元気になって。またご馳走《ちそう》してくださいな」 「ああ」  なにかご馳走をしたかな。  女体がそばにいること自体がうとましい。まともな体調ではなかった。  麻美《あさみ》からは休んでいるときに電話があったらしい。こちらから連絡をとると、 「とにかく病気を早くなおしてください」 「たいしたことないんだが……」  しかし、どうしても会おうという意欲は湧《わ》いて来ない。結局、麻美と会う約束がまとまったのは、月が変って、クリスマス・ソングが町に流れる頃だった。 「じゃあ銀座で。六時。おいしいものを食べましょう」  啓一郎は首と肩とで受話器を挟《はさ》み、書類に目を落としながら電話のむこうの麻美に誘いかけた。  オフィスでは、このポーズが一番落ち着く。書類の中身など、ほとんど頭に入っていない。  会社の雰囲気は自由なものだ。勤務時間こそきまっているが、その中での裁量はほとんど各人の良識にゆだねられている。私的な電話だって、さほど気を使う必要がない。サラリーマンの�おたがいさま�感覚。聞こえても聞かないふりをしている。他人のことなどかまっちゃいられないほど仕事に没頭していることも多い。 「いいですわね」  麻美の口調はやさしいが、少し他人行儀に響く。仕方ない。四十日あまりも会っていないのだから。 「なにが好きですか」 「なんでも。好き嫌いのないほうなの」 「和食? それとも洋食?」 「どちらでも。中座さんはどちらがお好きなの」 「私もかまわない。どっちか一つ選んでもらわないと……」 「そうねえ。じゃあ和食。気楽で、お酒のおつまみみたいなものがあるお店」 「わかった」  待ちあわせの場所に銀座八丁目のコーヒー店を告げて電話を切った。  ——さて、どこにしようか——  お酒のおつまみみたいなものと言われても、縄《なわ》のれんに案内するわけにもいかない。カウンター割烹《かつぽう》のような、小ぎれいな店はないものか。 �彩�という名の店を思い出した。ほんの二回ほど行っただけ。それも半年以上前だろう。名刺の束を捜した。  四すみをまるめた、小ぶりの名刺が見つかった。  時刻は二時過ぎ。ダイヤルをまわしてみると、ママらしい声が答える。こんな時間に出勤しているのだろうか。啓一郎は、この前そこへ案内してくれた知人の名を言い、会社の名をそえて、 「中座といいますが」  と名のった。 「あら、お久しぶりですこと」  弾んだ声が返って来る。客商売だけあって、むこうは忘れていない。たくさんのお客が来るだろうに……どうやって覚えておくのだろう。  新宿のスナックには、ポラロイド・カメラを持ったママがいて、これは新しい客が来るとかならず撮影する。その写真に名前と身分を記しておく。�彩�のママにもなにかノウ・ハウがあるのかもしれない。 「こんなに早くから……」 「ええ。今日はちょっと。いつもはもっと遅いのよ。たまには顔を見せてくださいな」 「今夜二人。いいですか」 「はい、お待ちしています。なにかご希望のお料理でも……」 「いえ、行ってから決めます。よろしく」  料金はどのくらいだろう。カードのきく店じゃあるまいし……。電話を切ってから啓一郎は財布の中身を案じた。  割烹店�彩�は、新橋駅を出てからコリドー街へ抜ける細道にある。麻美《あさみ》と待ちあわせるコーヒー店もその道筋に位置している。  ガード下の信号は赤。何人かが横断歩道に足を踏み出して待っている。パチンコ屋から流れて来るのはジングル・ベルズのにぎやかなメロディ。これからしばらくはこの手の曲目が街を席捲《せつけん》する。厳粛なメロディから陽気な歌まで、それぞれにわるくない。クリスマスはどの祭よりも楽の音に恵まれている。  啓一郎はうろ覚えの英語をくちずさみながらコーヒー店のドアを押した。  窓際の席に腰をおろす。 「レモン・ティー」  ボーイに告げてタバコを抜いた。アメリカのビジネスマンの間では五十パーセント以上も禁煙が進んでいるとか。たしかに最後は健康の勝負だ。こんなもの、百害あって一利なし。  ——しかし日本の会議は長いからなあ——  タバコでも喫《す》わなければ、とてもやっていられない。  外国映画を見ていると、オフィスで上役らしい男がポンと手を打って、デスクの角に尻《しり》をのせる。周囲に部下たちが集まって来る。椅子《いす》にすわっている男もいれば立ったままの女もいる。くだけた雰囲気の中で、意見が飛びかい、論議が始まり、間もなく、 「わかった。それでいこう」  また上役が手をたたいて会議の終了。日本のオフィスも早くああならないものか。  啓一郎の目の届く席に二組の客がいた。どちらも男と女の二人連れ。女は二人ともこの界隈《かいわい》のホステスだろう。そこそこに美しい。それ以上にそばに置いてある毛皮のコートが豪華ですばらしい。  一組は……客とホステス。女の顔が笑っている。もう一組は、女がスカウト・マンの話を聞いているところ。中身は聞こえないが、十中八、九まちがいあるまい。こちらは表情がけわしい。  よく見ると、二人の女の顔立ちはとてもよく似ている。同じくらいの年齢。同じような化粧。銀座の顔というのが、あるのかもしれない。  しかし、表情には陽と陰の二つがはっきり表われている。接客用は当然のことながら愛想がいい。色気もこぼれている。銭かねのからんだ話のほうは、どうしても顔つきがいやしくなってしまう。  ——こんな話で、せっかくの化粧を崩したら損だわ——  まるでそうとでも思っているみたいに強《こわ》ばっている。  ドアが開いた。  ——来たな——  すぐにわかった。ラベンダーのコート。大きな茶封筒を持っている。店の中が急に明るくなったように感じたが、それは啓一郎だけの感覚だったろう。 「ごめんなさい。お待ちになった?」 「いや、今来たところだ」 「よかった」  麻美は息を整えるみたいに胸に手を当ててから、 「お久しぶりでございます。その節はどうも……いろいろと」  と、笑いながら丁寧に頭を垂れた。深いお辞儀が身についていて、美しい。  そう、本当に久しぶり。その節は……お世話かどうかわからないけれど……多分いろいろではなかったと思うけれど、一つか二つ、大切なことがあったはずだ。 「なにを飲みますか」  ボーイが水を運んで来た。 「どうしようかしら? 今日はもう四はいもコーヒーを飲んでますの」  藤色《ふじいろ》のコートは同じ色のベルトで結んである。その結びめを解こうか解くまいかと思案している。 「ああ、そうか。じゃあ行きますか」 「よろしいんですの?」  啓一郎のカップの中をのぞきこむ。まだレモン・ティーが半分以上も残っていた。しかし、とりたてて飲みたいほどのしろものではない。まさか待ちあわせの客にあわせて、店主がわざわざまずく作っているわけではあるまいが……。 「すまん」  ボーイに告げて啓一郎も席を立った。 「お風邪はすっかりよろしいんですか」 「うん、ようやくなおった。しつこいね」 「私も今年はひどいめにあって……。いそがしい最中でしたから、ホント、風邪薬を飲んだりビタミン剤を飲んだりしながら」  歩道は狭く、凹凸《おうとつ》もある。敷石の下に泥水がたまっていて、踏みつけると、ビュッとはねあがる。人が歩くために作られた道とはとても信じられない。  麻美が先に立って歩いた。  むこうから来る男が麻美の顔を見る。もう一度視線を凝らして見る。  ——おや、美人だな——  きっとそう思っているにちがいない。男たちは道を歩きながらも、美学の研究を怠らない。 「その角を曲がって……」 「はい」 「そこ……です」  白地に�彩�と書かれたあかりを指さした。格子戸《こうしど》を立てた、間口の狭い店である。 「なんと読むのかしら」 「サイです」 「きれいな名前」 「居酒屋みたいなもんですよ」 「それが好きなの」  格子戸を引くと、 「いらっしゃいませ、お待ちしてましたわ」  ぬくもりと一緒に歯切れのよい声が飛んで来た。  細長い店。入口から奥へむけて白木のカウンターが伸び、カウンターの内側は狭い畳敷きになっている。ママと店員が一人、いつも和服で給仕をする。お客は椅子に腰かけて酒をくみ、料理をつつく。 「寒くなったね」  席はほぼ満員で�御予約席�とプレートの立っているところが啓一郎たちの席だった。  背後にコートをつるし、麻美が壁寄りの椅子にすわった。すぐに熱いおしぼりが出る。 「いらっしゃいませ」  ママがあらためてきっかりと会釈《えしやく》をする。腕の間隔を広くとり、背筋を伸ばしたまま軽く頭をさげる。武道の挨拶《あいさつ》に似ている。男のお辞儀に近い。これがこの店の作法らしい。 「今晩は。ご馳走《ちそう》になります」  麻美は店の中を見まわしている。床の間の花。みずやの什器類《じゆうきるい》。  啓一郎としては、この界隈《かいわい》にほかに知った店もないので漫然と�彩�を選んでみたのだが、あらためてながめてみると、ここは麻美にふさわしい店かもしれない。 「お飲み物は?」 「まずビールかな」 「ええ……」 「それからお酒。いい?」 「はい」  向うづけは、お盆に載った三品。ゆず釜《がま》。なまこのこのわたあえ。ままかり寿司《ずし》。それぞれのグラスにビールを満たし、 「どうも久しぶり……」 「すみません」  グラスをあげて口に運んだ。 「おいしい」  麻美が箸先《はしさき》になまこをつまんでつぶやく。 「そう。とてもいいなまこですから」  このママはもう五十歳に近いだろうか。目が大きく、ちょっと奥目で、若い頃《ころ》はかわいらしい顔立ちだったろう。店員のほうは、ずっと若く、実直にママに仕えているような印象だ。 「お料理はなんにしましょうか。一応コースにはなっていますけれど」 「おつくりは?」 「まぐろ。烏賊《いか》。赤貝。しまあじもおいしいのが入ってますけど」 「どうする?」  麻美の好みはまだなにもわからない。 「しまあじをいただこうかしら」 「そうなさいまし。中座さんも同じ物でいいのかしら」 「ああ、そうして」 「あと、白川の西京焼き、海老《えび》しんじょう、お野菜のたいたの、みんな少しですから、ちょっとずつ召しあがってくださいな」 「ええ、おいしそう」  料理が決まり、ビールのグラスがからになって、これでプロローグの終了。 「図鑑をありがとう」  電話口で一応お礼を述べておいたのだが、話題を捜すように啓一郎は麻美の横顔をのぞきこんだ。 「お役に立ちました?」 「うーん、まだだ。これから徐々に」 「もっとくわしいのもあるんですけど」 「いや、あれくらいで充分だ。ただ花の名前がアイウエオ順に並んでいるもんだから、名前がまるでわからないときは調べようがない」 「それはそうねえ。写真を次から次へと見ていって……」 「うん。義務教育の段階でちゃんと教えてくれればいいんだな、花の名前を。そうすれば自然に対する関心も高まるし」 「ええ……。あれはなんでしょう。わかります?」  テストでもするように床の間の花を指して問いかける。木の枝に赤い小粒の実がいっぱいついている。 「南天かな」 「はずれ。梅もどき」  ママが麻美の言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。 「わからん」 「南天とは、葉も枝もちがうわ」 「どこが梅に似ているんだ? もどきって、似ているからだろ。南天もどきじゃないか」  と啓一郎が笑いながら抗議をした。 「たしか葉っぱが梅に似ているからでしょ」 「木の葉っぱなんか、みんなこんな感じだがなあ」 「少しずつちがうのよ」 「そうだろうな。がんもどきってのは、やっぱり雁《がん》の肉に似ているからかな」  麻美とママの顔を交互にながめながら尋ねた。 「さあ」 「あとで出て来ますよ、野菜といっしょに。小さい飛竜頭《ひりようず》」 「がんもどきと飛竜頭は同じものですか」  と麻美がママに聞く。 「このごろは少し上等なのを飛竜頭って呼んでんじゃないかしら。がんもどきじゃお金をいただきにくくて」 「そりゃ、そうだ」  お銚子《ちようし》が出ると、籠《かご》の中の盃《さかずき》を選ぶ。おつくりは褐色《かつしよく》の皿に、薄桃色のしまあじが載っている。 「備前かしら」  皿をなでながら麻美がつぶやく。 「いえ。越前焼なんですのよ。よく似てますけど。去年行ったときに気に入って……」 「この感じ、とても好き。私、身分不相応な物を一つだけ持ってますの」  今度は麻美が啓一郎とママの顔を次々に見ながら声を弾ませる。 「なんでしょう」 「茶碗《ちやわん》。藤原啓先生のところの窯《かま》なの」 「それは大変なものでございましょ」 「ちいちゃいときから、わけもなく好きで……。�形見のつもりでちょうだい�って、父のところから持って来ちゃったの」 「お目が高いわ。その盃も、ちいちゃいけど、一応|伊万里《いまり》なのよ」  ママが人差指を上に向けて麻美の手もとを指した。 「ああ、やっぱり。色が華やかで……。一つ一つ、いい物を使っていらっしゃるのねえ」  麻美は隣の人の器にまで視線を伸ばして見入っている。 「そんなこともありませんけど、好きなものですから」  言われてみれば、この店の什器類はみんな凝っているようだ。知識はとぼしいが、啓一郎にも見当くらいはつく。 「あの小鉢、すてき」 「ああ、これ」  みずやの中からわざわざ取り出して麻美の前に置いた。内側が一面に鮮やかな朱の色で、柿《かき》の実を写したものとわかった。 「この色、なかなかないんですのよね」 「うれしいわ。気に入っていただいて。あとでなにかを盛りつけてもらいましょ」  みずやから二つ取り出して調理場のほうへまわした。 「お願いします」  料理を賞味するのに、味以外にもう一つ、こんな方法があることを啓一郎は忘れていた。麻美は心から楽しんでいるようだ。ママに対しても誇らしい。  ——まずは大成功——  電話口での、とっさの考えだったが、よい店を選んだと思う。 「いくつくらい買うんですか」  まだ什器の話が続いている。 「一つのときもあるし、五つくらいまとめて買うこともあるし。高いものは買えませんもの、そうたくさんは」 「でも、いいわあ。こわされたりしたら大変。泣いちゃいますね」 「仕方ありませんよ。商売でやっていることですから」 「箸置きまでかわいいわ」  啓一郎は二人の話を聞きながら、それとなく他《ほか》の客たちの様子をうかがった。  啓一郎の右側は三人連れの男たち。五十代の……仕事仲間だろうか。そのむこうに、男女の連れが二組すわっている。遠いほうは、どういう二人連れかよくわからない。これも仕事の仲間かもしれない。料理をつつきながらしきりに話しこんでいて、ほとんど啓一郎たちに関心を示さない。近いほうの二人連れは、銀座のホステスと客。これはひとめでわかる。白い和服を着たホステスはなかなかよい器量だが、視線にとげがある。  ——なによ、この人たち——  チカッと刺すような視線が時折麻美のほうに飛んで来る。三人組の男たちは、含み笑いを浮かべながらママと麻美の話を聞いている。 「今度、写真を写させていただこうかしら。婦人雑誌を作ってますの」 「あら、すてき。私のあこがれの仕事ですのよ。恰好《かつこう》いいわあ」 「雑用ばっかりで、恰好いいことなんかないですよ」 「いえ、いえ」 「このごろは食器類を借り出す専門家までいるんですのよ。お料理の写真を撮るとき、どこへ行けばどういう器が借りられるか、いろいろ伝手《つて》を持っていて……」 「そうなんですってねえ」  啓一郎の位置からは、かえって隣にすわった麻美の顔は見づらい。  ママの給仕が、三人連れの客のほうへ移るのを待って啓一郎は体をはっきりと麻美のほうへねじった。 「少し酔っちゃったみたい」  麻美は掌《てのひら》を頬《ほお》にあててつぶやく。すっきりと伸びた三角の鼻の稜線《りようせん》がこの人の特徴だ。記憶の中にいつもこの鼻だけがあった。  ——やっぱりよい器量だな——  あらためてそう思う。 �骨かくす皮にはたれも迷いけん美人というのも皮のわざなり�と、だれの歌だったろうか。理屈はその通りだが、皮一枚が馬鹿《ばか》にならない。大変な価値を持つ。  ——不公平だよなあ——  啓一郎もしみじみそう思うが、さりとて目をつぶって不公平の解消を実践する気にはなれない。 「女の歴史は、女の地理できまるんですって」  そう言っていたのは法子《のりこ》だろう。鼻山脈がどうなっているか、目海峡がどう凹《くぼ》んでいるか、顔の地理によって女の一生はたしかに大きく影響を受ける。ことのよしあしではなく、事実がそうなのだ。  ——平均点だったら、どうだったかな——  もし麻美が普通の器量だったら香港《ホンコン》で出あって、これほどの執着を持ったかどうか。多分ビクトリア・ピークまでは行っただろう。だが東京に戻ってから何度も電話をかけ、いそがしいあいまをぬって、なんとか再会しようとしたのは……啓一郎はやはり、  ——顔のせいだよなあ——  そう思わないわけにはいかない。考えるまでもなく自明なことだ。  ——ほかにこの人の、どんな長所を知っているのか——  花の名前にくわしい。啓一郎の知らない世界について教養が深い。性格は、女らしいように見えるけれど……。どれも本質的な理由ではない。 「もどきって、にせもののことだろ」  三人連れの一人が大きな声で言う。梅もどきはその男の正面にある。 「まあ、そうねえ」  ママはためらいながら同意する。きっと梅もどきに同情しているのだろう。なんの罪もないのに梅のにせもの呼ばわりされてしまって……。 「もどきはいっぱいいるよ。政治家もどき、女子大生もどき、弁護士もどきっての、ないか」  地声の大きい人なのだろう。 「ある、ある」  苦笑をしながら隣の席が答えたのは、彼自身がその職業に属しているかららしい。  ——恋愛もどき——  啓一郎はふと思ったが、口には出さなかった。もともと境界線の曖昧《あいまい》なものではないのか。麻美はしきりに「おいしい」と「きれい」をくり返している。 「お食事はなんにしましょうか」 「もうお腹《なか》がいっぱい」 「でも、お茶漬けくらい。あなごのお茶漬け。おいしいわよ」  ママは勧め上手だ。 「じゃあ……」  麻美がうなずいた。  猫の御飯ほどのお茶漬け、二粒のいちご、それでメニューは終わった。麻美は掌《てのひら》で包むようにして湯飲み茶碗の感触を確かめている。目尻《めじり》の表情はやはり三十代のものだろう。  ——この人の頭の中には、今、なにが映っているのか——  過去にいくつか恋をしただろう。今もなお続いているものがあるのかもしれない。きっとあるだろう……。  啓一郎には奇妙なこだわりがある。これまでに女性を相手に、 「今、恋人がいるんですか」  と尋ねたことがない。  なんの関心もない人には、そう尋ねたことくらいあるだろう。だが、啓一郎自身が、  ——いい人だな——  と思い、できれば親しくなりたいと考えているときには、それが聞けない。法子にも尋ねなかった。薫《かおる》にも……まだ尋ねてない。こだわりの理由は自分でもよくわかっている。  ——空巣ねらいじゃあるまいし——  そんな美意識がある。  相手に今恋人がいないから�だから始めましょう�というのは、味気ない。能率的ではあろうけれど、それを尋ねたとたんに大切なものをこぼしてしまいそうだ。  本当に好きならば、相手に恋人がいようといまいと、心のたけを精いっぱいうち明けてみる。それが正道だろう。  そこで、どうするか……その先は相手の女性が考えればいいことだ。ちがうかな。  麻美はママに名刺を渡して、 「今度、お仕事の面でも利用させてくださいな」 「ええ、どうぞ、どうぞ」  編集者も人づきあいの多い職業だ。毎日新しい人間に出あっているにちがいない。  ——だれか親しい男がいるな——  そうではないような気もするけれど、それは希望的な観測というやつだろう。�だれかいる�と覚悟しておくほうが確かだろう。 「お勘定?」 「あとで……お送りします。よろしいでしょ」 「じゃあ、そうして。ごちそうさん」 「またどうぞいらしてくださいね」 「うん」  店の外まで送って来たママが啓一郎の耳もとで、 「おきれいなかた」  とささやく。  これも商売のこつ……かな。  ——さて、どこへ行こうか——  迂闊《うかつ》なことに、啓一郎はこれから先の手はずをあまり考慮していなかった。男同士なら、食事をする、酒場へ行く、カラオケという手もある。わざわざ思案するまでもなくコースはおおむね決まっている。法子《のりこ》と会ったときは……これもたいてい決まっている。 「飲みますか」 「ええ。でも……」  ホステスのいる酒場は適当ではあるまい。 「夜景でも見ましょうか」  大通りに出て車を止めた。 「赤坂のホテル・ニューオータニまで」  月並みだが、屋上のラウンジで夜景をながめてみようと思った。 「花盗人《はなぬすびと》ってのは、許されるんですか」  車が動きだしてすぐに麻美《あさみ》に尋ねた。 「ええ。いいんじゃないのかしら」 「本と、花と、女性は……」  啓一郎は一語一語を句切ってはっきりと告げた。 「ええ?」 「持ち主より自分のほうが、より多く愛《め》でる自信があれば、取っちゃってもいいそうですよ」  麻美がどう反応するか、横顔をうかがってみた。 「ああ……」  と形のよい唇が曖昧《あいまい》に言う。  すぐには言葉の意味がわからなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。だれにでもわかる程度の内容だ。だが、なぜ啓一郎がこれを言ったか、そこまでわかるかどうか。  視線を宙にめぐらし、 「貸した本て、本当に返って来ませんよね」  それが麻美の返事だった。  苦笑がこみあげて来る。麻美の答えは、少しそっぽうのような気もするけれど、どうして、どうしてなかなか見事な返答なのかもしれない。啓一郎には二の矢の備えがない。 「どんな本が好きですか」  仕方なしに平凡なことを尋ねてしまう。 「乱読のほうなの。あっちをつついたり、こっちをつついたり。中座さんは?」 「うーん、このごろは、ろくなものを読んでいないなあ。仕事の本はべつだけど……。一番読まないんじゃないのかな、俺《おれ》たちくらいの世代は」  麻美を相手に、どのくらい丁寧な言葉を使ったらいいのか。初めて�俺�という自称を使ってみたのだが……。 「そうですよね。おいそがしいから」  麻美のほうは、かなり丁寧な言いかたをベースにしている。それが彼女の心のありかを伝えている……。  手は手袋をつけたまま膝《ひざ》の上できっかりと組んでいて啓一郎が握るのもむつかしい。 「高校生の頃《ころ》�風とともに去りぬ�を読んだ」  と告げたのは、いつかの夢の記憶が残っていたから。 「あら、めずらしいわ。女の小説でしょ」 「小説にも男と女があるのかなあ」 「どちらかといえば、女性むきじゃないのかしら」 「アメリカの南部がよくわかるって言われたなあ。つい、このあいだ夢に見て……」 「�風とともに去りぬ�を、ですか? すごいのね」 「いや、ほんの一部。最後のところだけ。主人公が今日は眠ろう、明日また考えよう、って思う場面……」 「ありますよね、そんなこと」  車が大きな半円を描いて、ホテルの玄関に止まった。  ホテルのロビーは、映画館の休憩時間を思わせるほど混《こ》みあっていた。リムジン・バスが到着したばかりらしい。大きな宴会が終わったところらしい。麻美の肩を抱くようにしてエレベーターに滑りこんだ。  途中で何度も止まりながら屋上のラウンジに着く。エレベーターは先に乗った人が、あとから出る。些細《ささい》なことだが、少々不合理な構造になっている。ラウンジのマネジャーは、先に着いた客から順によい席を割り当てるのだろうから……。偶然立つ客がいて、窓際の席に案内されたのは、小さな好運だったろう。  ドーナツ型のラウンジがゆっくりと回転し、居ながらにして東京の夜景をくまなく賞味することができる。二十数年前、ここが作られたばかりの頃は、ずいぶん話題にもなったらしいが、今は�おのぼりさん�むきの気配がなくもない。 「きれいね」 「やっぱりきれいだねえ」  眼下に迎賓館と東宮御所の黒い森がうずくまっている。それ以外は、遠く近く光を散らした夜の絨毯《じゆうたん》だ。少し離れてもう一つ黒い森が見えるのは、神宮公園のあたりだろう。 「こんなに電気がたくさんついているんですもの……電気代が大変ね」 「考えたこともないけど……そうだよなあ」  啓一郎は水割り、麻美はカクテルを飲んだ。  飲み物が来るまでのあいだ、啓一郎は手洗いに立った。顔がほてっている。鏡に映しながら人影のないのをたしかめて、 「唄《うた》を忘れたカナリヤは……」  と、ほんの一節、おぼつかない調子でつぶやいてみた。有名な歌だが、正確には歌詞を知らない。たしか最後は�象牙《ぞうげ》の船に銀の櫂《かい》 夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす�だったろう。  同じ夜景を見せたなら、麻美も香港《ホンコン》の夜を思い出してくれるだろうか。 「駄目《だめ》かな?」  鏡の中に問いかけてみた。  予感は凶。少なくとも今夜は格別な進展もあるまい。わけもなくそう思う。 「弱気になっちゃあ、いかん」  バン、バンと頬《ほお》を叩《たた》いた。みずからナポレオンになって打って出る勇気がなくっちゃあ。  だが、ゆっくりと、少しずつ進む道もある。二十代の若者みたいに無謀を売り物にするわけにはいかない。臨機応変、結局それしかない。  楽団がクリスマス・ソングを奏《かな》でている。今、鳴っているのは�恋人はサンタクロース�。いつの頃からか聞くようになった新しい歌だ。 「いよいよ世間はクリスマスね」  麻美も演奏に耳を傾けていた。 「いそがしいの、この時期は?」 「クリスマスだからどうってこともないですけど、年末年始はやっぱり……。印刷所がお休みになるから」 「十二月には、新しい人間関係が始まることが多いらしいよ」  席につき、ランプの灯《ひ》のむこうに麻美の顔を見ながら、つぶやいた。 「あ、そうなんですか」  あっけないほど明るい声が麻美の口からこぼれた。 「そう」  戸惑うように啓一郎がつぶやく。  啓一郎は二十代の初めからずっと千倉《ちくら》法子とつきあって来た。女性の話し相手といえば、法子が圧倒的に長い時間を占めている。だからだれを相手にしても、ついつい法子を相手に話しているような気分になってしまう。  法子は含みのある言いかたが好きだ。大切なことは、けっして�みなまで�言わない。影を映して本体を想像させる。啓一郎もそんな会話に慣れてしまった。  今は十二月。「十二月には新しい人間関係が始まることが多いらしいよ」と、この言葉を法子に告げれば、それだけで充分。法子なら過不足なく言葉の重みを受け取ってくれる。 「アラ、本当? 根拠ハアヤシイケレド、感ジハワカルワネ。デ、私タチモナニカ始マルノデスカ」 「ソウデス。マルデ今年ノ忘レ物ヲ取リ返スミタイニ」  目と目のあいだでパチンと会話が弾む。だが、そんなコミュニケーションをみんなに期待するのは無理かもしれない。麻美と法子はちがう。�法子もどき�に扱ってはいけない。麻美は、もっと単純に話をするタイプらしい。さっき「貸した本て、本当に返って来ませんよね」と言ったのも、格別深い意図があってのことではないのかもしれない。  それから、もう一つ。香港のホテルでも似たようなことがあった。 「なにか起きるのかしら」  ドアの前でたしかに麻美はそうつぶやいた。三角の鼻と同じくらい啓一郎はよくこの言葉を思い出す。法子が同じ言葉を言ったのなら(今さら啓一郎にそんなことを言うはずもないけれど)それは「サア、ナニカヲ上手ニ起コシテミセテクダサイ」という意味だろう。百パーセント、女の側からの誘いの文句と受け取っていい。  だが麻美はもっと無邪気につぶやいたのかもしれない。  啓一郎は夜景から麻美の顔へと視線を移し、おもむろに説明した。 「十二月になると、だれだって心残りがあるんじゃないのかな。で、来年は新しいことが始まるといいな、ついては今年のうちに手がかりくらいは作っておこうって……」 「そうかもしれませんねえ」  話が途絶えた。麻美は音楽にあわせて指先を動かしている。やがて楽団の演奏も終わった。 「香港の夜景はきれいだった」 「どこかちがいますね、やっぱり」 「大きさがちがう」 「それにあっちは水があるし」 「ネオンが点滅しないんだろ、香港では」 「あら、そうだったかしら。気がつかなかったけど」  眼下の夜景は、どの方向を見ても光が動いている。上下に流れるもの、渦《うず》をまくもの、あるいは色をつぎつぎに変えるもの……。 「啓徳《けいとく》空港が近いんで邪魔になるから。そんな話でしたよ」 「そうなんですか」  頬杖《ほおづえ》をつき上目づかいに窓の外をながめている。  カナリヤはいっこうに歌を思い出してくれそうもない。香港の夜と東京の夜とが繋《つな》がらない。  ——なにかうまいことを言わなくちゃあ——  気ばかりがあせる。  ——しっかりしろ。もう少し頭の回転がよかったはずじゃないのか——  こんなとき男と女はなにを話すのか。隣の席はやけににぎやかに話している。麻美のほうが先に話題を見つけた。 「お妹さんがいらっしゃるんですわね」 「そう。二人」 「もうお決まりなんでしょ、上のかたは」 「いや、それがまだなんだ。いい人いませんか」 「私が……ですか? 柄じゃないみたい」 「あなたみたいにすてきな人ならすぐに決まるんだろうけど」  微妙な笑いが……自嘲《じちよう》ともとれる笑いが……演技かもしれない笑いが、麻美の頬《ほお》に揺れた。 「皮肉っぽいのね。現に決まっていないのに」 「それは贅沢《ぜいたく》を言っているからだ」 「贅沢なんか言える年じゃないでしょうが」 「する気がないってわけじゃないんでしょ?」 「結婚ですか」 「うん」 「もちろん。とてもしたい」  麻美はグラスを揺らして中の氷をのぞいている。 「まじめな話、どうして結婚をしなかったんですか」  麻美は首を振った。 「相手がいなかったから」  棒のように硬い言いかたが返って来た。不機嫌《ふきげん》を含んでいるような……。言葉遣いのやさしい麻美にしてはめずらしい。  ——馬鹿《ばか》なことは聞かないでくださいな——  そんな意志を表わしているのだろう。質問を拒否するような強さがある。表面は軟らかいが、芯《しん》にはとても堅い部分を持っている人なのかもしれない。案外|頑固《がんこ》かもしれないぞ。  啓一郎は、わけもなく父の言いぐさを思い出した。 「世間には�はい、はい�って返事をしておきながら、まるで納得してない女が結構たくさんいるからな。顔がやさしかったりするから始末におえん」  麻美はそんなタイプなのだろうか。 「コンファームド・バチェラーとマーリング・マンとがいるそうですよ」  麻美の顔をのぞきながら、保子《やすこ》から仕入れたばかりの知識を開陳した。麻美は�なんでしょう�とばかりに目をあげる。 「確固たる信念を持って独身を続けているのがコンファームド・バチェラー。結婚したくてうずうずしているのに、相手がうまく見つからないのがマーリング・マン」 「中座さんは、前のほうなのね」  今度はうれしそうに笑って断定する。 「いや、そんなことはない。このごろはむしろマーリング・マンのほうでしょう」 「そうは見えないわ」 「そうかなあ」  心の中でチンチンと警鐘が鳴っている。百キロの時速を超えると鳴り出す、車のスピード・メーターみたいに……。これ以上この話題は深入りしてはまずい。結婚のことを話すのは、まだ早すぎる。 「もう少し飲みますか」 「ええ……でも、もう遅いから帰ります」  腕時計を見て麻美はきっぱりと告げた。 「もう……ですか」  啓一郎は思わず声を高くした。周囲の客がなにごとかとばかり首をまわす。  十一時に近い。たしかに早い時間ではないけれど、三十を過ぎた男女にはもう少し長い夜があってもいいだろう。 「すいません。明日早いし……ちょっと見ておかなきゃいけない仕事もありまして……」 「そうですか。残念だなあ」 「今度もう少しゆとりのあるときに……」  麻美は申し訳なさそうに言う。そこまで言われては仕方がない。 「じゃあ」  伝票を取って立ちあがった。  円型のラウンジはほぼ一回転を終わっていた。迎賓館と東宮御所の黒い闇《やみ》。エレベーターもラウンジに入って来たときとほぼ同じ位置にある。 「また会えますね」 「はい」 「わからないことがいっぱいある、あなたについて」 「そのほうがいいんじゃないかしら」 「庭を……少し歩きますか」 「いえ、帰ります。一人で大丈夫ですから」  タクシー乗り場には四、五人の人影が待っていた。 「送りますよ」 「平気よ」 「送らせてほしいな」 「どこかに飲みにいらしたら?」 「一人じゃつまらない」 「すいません。じゃあ中座さんが先に乗ってくださいな」 「失礼」  啓一郎が乗り込み、麻美が続いた。 「広尾まで」  つぶやきながら麻美の手を取ったが、手袋をつけている。寒い季節がうらめしい。握ったからといって格別楽しいことがあるわけではないけれど、せめてこのくらいの成果がなければ今夜は情けない。  将棋だって歩が、と金になる。桂馬《けいま》と銀とを交換する、飛車が裏に成る。一歩一歩攻めて行く。いきなり王手を狙《ねら》うわけにはいかない。手袋は素手よりずっと低いレベルだろう。  麻美は手首の力を抜いて啓一郎の動きにゆだねたが、手袋を脱ごうとはしない。その手を少し引いて肩を引き寄せたが、麻美は、  ——なにかしら——  とばかりに啓一郎の顔をうかがい、もう一つの手袋を啓一郎の手の上にそえて挟《はさ》んだ。握りしめるような、たしなめるような……。  赤坂から広尾は近い。すぐに麻美のマンションに着いた。 「そこで結構です」  車が止まる。ドアが開く。啓一郎も降りようとしたが、 「どうぞ。そのまま……。ありがとうございました。とても楽しかったわ。またお電話をくださいませ」  丁寧に告げて頭を垂れる。  ドアが閉まり、車が動きだした。 「また来週にでも」  窓越しの声が麻美に届いたかどうか……。立っている姿がすぐに見えなくなった。 「どこへ行きましょう」 「下北沢」  と告げてから、 「いや、四《よ》ツ谷《や》へ行ってもらおうかな、四谷三丁目」  と方角を変更した。  ——このまままっすぐ帰ったほうがいいんだがな——  そう思いながらも、帰る気にはなれない。ちょっといまいましい。  ——うまくかわされたなあ——  そんな気がして仕方がない。  今夜、抱きあうことを期待して麻美に会ったわけではなかった。これは本当だ。一気にそこまで行くには早すぎる。だが、もう少し……そう、香港の夜に繋《つな》がる気配くらい、あってもよかっただろう。戦陣は大幅に後退してしまった。せっかく飛車を取ったのに、またもとに戻《もど》されて……。  ——俺が下手くそだから——  それも少しはあるだろうけれど、それが一番の原因ではあるまい。人間関係はキャッチ・ボールだ。男女のあいだだって例外ではない。一方が投げる。相手が受け取って投げかえす。その見えないくり返しの中で少しずつ関係が深まっていく。片方だけの力で、事態が進展するわけではない。  男がなにかしら誘いかける。女がそれに応ずる。そこでまたもう一歩踏みこむ。それに応ずる。いつのまにか深みに入っている……。啓一郎も今夜、いくつか誘いかけた。信号を送った。  ところが麻美の反応が硬い。少しそれて返って来ることが多かった。投げた球がきちっと返って来《こ》なければキャッチ・ボールはスムーズに進まない。強引に踏みこんでみてもうまくはいかない。暴投になりかねない。相手は、なにも知らない小娘ではないのだから……。 「気がついたらベッドの中で彼に抱かれていたの」などという台詞《せりふ》があるけれど、あれは多分|嘘《うそ》だろう。一つの修辞法でしかない。本気でこの言葉を信じるとしたら、これほど女性を馬鹿にした話はない。なんの判断もないまま、いつのまにか体を奪われているなんて……人間失格、禁治産者的人格と言っても言いすぎではあるまい。  香港では、たまたまあんなふうになってしまった。しかし麻美自身、  ——ちょっとやりすぎたかしら——  と考えた。今はむしろ警戒気味である。ゆっくり進もうと考えている。啓一郎に対して一定の好意を持ちながらも、はりねずみのように針を立てているのかもしれない。  運転手は慎重な人らしい。ゆっくり、ゆっくりと走る。  ——変だぜ、俺も——  啓一郎はシートでトントンと頭を叩《たた》いた。  男性むけの雑誌などを見ていると、日本中色魔になったような印象さえある。啓一郎自身�俺はちがうぜ�と気取るつもりはない。いつのまにか男と女の関係を安易に考えるくせが身についてしまった。すぐに抱きあおうとする……。相手がまともな女性ならば、そう簡単にはいかない。それが普通だろう。  麻美と会うのは、今夜が二回目。食事をしてラウンジで酒を飲み、それ以上なにが起こればいいのか。なにを期待していたのか。別れぎわに麻美は「またお電話をくださいませ」と言っていたではないか。なにも苛立《いらだ》つことはない。恋の航路は順調な道筋をたどっている。そう考えていいだろう。  ——そのくせ、なんだ?  車を四ツ谷に走らせている。�かとれあ�に行こうとしている。 「やっぱり下北沢へやってください」と、喉《のど》まで出かかったが、声にはならない。  四谷三丁目の交差点を越えた。薫《かおる》の店は近い。  ——まあ、いいか——  ちょっと顔を出して水割りを飲むくらい……。�かとれあ�にはここしばらく行っていない。薫も�ずいぶんひどい人�と思っているだろう。しかし本当に水割り一ぱいですむかな。はなはだ心もとない。  ——ちょっと眠っていてくれ——  と声をかけたのは、わがうちなる良心に対してである。まったく良心てやつは、ほかの感覚がみんなで楽しんでいるときに、ひとりでやきもきと悩んでいるやつなんだ。 「そこで結構」  車を止めた。  十一時十二分。中途|半端《はんぱ》な時刻に麻美《あさみ》が別れるからいけないんだぞ。表通りから�かとれあ�のドアまで啓一郎はゆっくりと歩いた。  ——帰るなら今だぞ——  と、この期《ご》に及んでも、まだ自分の心に念を押している。  突然、犬が吠《ほ》えた。  ブロック塀《べい》の穴から細長い顔をのぞかせ、鼻にしわを寄せて唸《うな》っている。まだ仔犬《こいぬ》。それでも顔だけは一丁前に長い。コリーかな。モジリアニの絵みたいな顔つきで見あげている。モジリアニは法子《のりこ》の好きな画家だ。  ——法子のほうはどうなんだ——  麻美はともかく、法子のことを考えると、やっぱり胸が痛む。 「負けたほうが楽しい場合って、あるのよね」  法子は本当に楽しい台詞《せりふ》を吐く人だ。 「そうかね?」 「ええ。誘惑なんか……負けたときのほうがずんと楽しいわねえ」  してやったりとばかりに笑っている顔が目の前に浮かぶ。  ——法子も誘惑に負けたことがあるのだろうか——  それならばこっちも気が楽なのだが……。 「それでも男は行く」  勝手なことをつぶやき、啓一郎は�かとれあ�のドアを押した。  さっと店の奥に視線を伸ばしたが薫の姿がない。  ——休みかな——  わるい風邪がはやっている。ママだって病気で休むときがあるだろう。啓一郎はカウンターのすみに……裸婦の絵のよく見える位置にすわった。 「いらっしゃいませ。なんにします?」  チーフが注文を聞く。いきなり、 「ママは?」  と尋ねるのは抵抗感がある。まるでそれだけを目当てにやって来たみたいで……。事実はほとんどその通りなのだが、すなおに言えない。言いたくない。�べつに�といった態度をとってしまう。  チーフがそんな客の心理を察してくれればいいのだが……そうした気配りはなさそうだ。仕事はよくやるが無口で、むしろ愛想のない男である。 「水割り」  そう告げてから、あらためてカウンターにすわっている客を見た。客は啓一郎のほかに二人だけ。いつ来てもそうにぎやかな店ではないけれど、今夜はとくにひっそりとしている。  ——これでやっていけるのだろうか——  と訝《いぶか》ってしまう。 �かとれあ�の立地条件はあまりいいとは言えない。荒木町の盛り場からちょっと離れているし、角から三軒目というのも、よくないだろう。店の内装も、客が少ないせいもあるのだろうが、いつもどことなく暗い。カウンターのドライ・フラワーは、せめて生花のほうがいいのではないか。これまでに一度も考えたことがなかったが、ママがいないと、啓一郎は余計なことを考えてしまう。ここにはまだクリスマスの飾りもない。 「ママは休み?」  水割りを二口ほど飲み、いま気づいたように尋ねた。 「いえ。ちょっとお客さんと……」  どこかへ遊びに出たらしい。この店に薫がいなければ、なんのいいところもあるまい。 「鉄はどうですか」  客のひとりが啓一郎に話しかけて来た。�鉄�というところをみると、啓一郎の勤務先を知っているのだろう。 「よくないですよ」  片頬《かたほお》で笑いながら答えた。このところ毎日同じことを言っているので口調と表情がセットになっている。暗いのは他人様《ひとさま》の店だけではなく、わが社も暗い。 「円高ですか」 「それもありますけど、内需が頭打ちですし、発展途上国もあんまり期待できないし」 「しばらくは駄目ですかねえ」 「来年の後半あたり……少しはよくなるだろうって願ってますけれど」 「鉄冷え、鉄冷え」  男は独り言みたいに言ってから、急に、 「大西って言います。玩具《おもちや》を作ってます」  と名乗った。 「中座です」  と会釈する。そのとき表に足音が響き、ドアが開いた。 「結構寒くなって来たわねえ」  薫が体を泳がせるみたいにして帰って来た。 「いらっしゃいませ」  一人一人に馬鹿丁寧《ばかていねい》な挨拶《あいさつ》をする。かなり酔っている。  薫は二人の客のあいだにすわりこんで、ビールを飲み始めた。横から見ると体が薄い。抱えこんだときの、頼りない感じとよく一致している。 「なんだ、はれぼったい目をしてるじゃないか」  大西とかいう男が薫をのぞきこんで言う。 「そう。寝不足なの」 「夜遊びがすぎるんだろ」 「嘘《うそ》よ。夜遊びなんかしてないわ。眠れないのよ」 「なんで?」 「悩みがあるから……よっ。睡眠薬でも飲もうかしら。害になるんでしょ、あれ」 「試したことないのか?」 「ないわよ」 「俺《おれ》も眠れなくてサ、主治医に相談したことあるんだよな」  カウンターの遠い席にすわった男が言葉を挟《はさ》む。 「ええ?」 「そしたら言うにこと欠いて、医者のやつ�自慰をなさい。睡眠薬より害がありませんから�って……。俺五十だぜ」 「眠くなるのかしら」  ママは真顔で聞く。 「若い頃《ころ》はな。でも女はどうかな」 「かえって駄目みたい」 「よくやるのか」 「厭《いや》あねえ。エッチ」  手で打つような身ぶりをして大西のほうへ体を預ける。 「プラシーボ効果ってのがあるんでしょ」  大西はママの肩を軽くささえながら、啓一郎にあいづちを求める。 「ええ、たしか」  プラシーボ効果……なんだったかな。聞いたことがあるけれど。  大西は首をママのほうへ戻して、 「今度、俺が持って来てやるよ。睡眠薬」 「持ってるの? 厭よ、こわいのは」 「ぜんぜんこわくない」 「効く?」 「効くとも」 「じゃあ、お願い。今度持って来て」 「なんでもいいんだけどな。胃薬でも、ビタミン剤でも」  言いながら啓一郎に笑いかけた。  ——そうか、思い出したぞ——  なんの薬効もない、見かけだけの薬を患者に与えるんだ。「とてもよく効く」と言って……。それだけで結構効果があるものらしい。効かないはずの薬が、ちゃんと効く。睡眠薬なんかとくにそんな暗示が役に立ちそうだ。 「どうして?」 「あははは。答えを教えちゃ意味がないけど……。�効く、効く�って飲ませれば、ちゃんと効きめがあるんだ」 「嘘っ」 「本当だ。医者も認めていることなんだから」 「へーえ。案外そうかもしれないわねえ」  奥の男が�うん、うん�と二つ頷《うなず》いてから、 「俺の知人でサ、アレができなくなった奴《やつ》がいるんだ」 「なにが?」 「セックス」  この手の話が得意の男なのだろう。酒場では一番無難な話題ではあるけれど。 「いくつなの、そのかた」  薫は案外こんな話が好きなのかもしれない。身を乗り出す。酒場のママは、セックス談義をきらっていては商売にならない。 「俺と同じだ」 「早いわねえ。もう駄目だなんて」 「早い。早い。だから奥さんが不満でね。医者へ行かせられたんだ」 「何科へ行くの?」 「精神科だ。あれは精神のやまいなんだよな。そこで受けたのが、暗示療法ってやつ」 「効果ありましたの」 「うん、あったらしい。夜、寝る前に、なにかおまじないを唱えている。するとちゃんと元気になるんだな。奥さんが不思議に思って、どんなおまじないかしら、ある夜そっと盗み聞きをしてみたら……」  顎《あご》をスルリと撫《な》でた。 「ええ?」 「女房じゃない、女房じゃない」 「どういうこと?」 「だからサ、奥さんと一緒に寝る前にいつも自分に暗示をかけるんだ。そう医者に言われて来たんだよな。これから抱くのは�女房じゃない、女房じゃない�って……」 「あら、ホント、おかしいわ」  絵解きをされてから笑ったのでは、さしておもしろくもない。 「サーテ、帰るか。うちも母ちゃんが待っているからな」  奥の男が立ってコートを取った。ママが外まで送って行く。カウンターには啓一郎と大西が残った。  大西はネクタイを締め、紺の背広を着て、ホワイト・カラー風。玩具《がんぐ》産業も、昔は零細企業が多かったが、昨今はコンピュータまで組み入れて相当大がかりにやっている。  ——この人、いつまでいるつもりかな——  啓一郎はピーナツを弾《はじ》きながら思う。相手も同じことを考えているのかもしれない。しらけた雰囲気をすくいあげるように、大西が口を開く。 「おいくつですか、中座さんは?」 「三十五です」 「若くてうらやましい。若いわりに落ち着いていらっしゃる」 「そんなこともありませんよ」 「いや、本当。このごろの三十五歳は頼りないから。うちの会社にもいっぱいいるけど、そろってフワフワ遊ぶことばっかり考えている」  冷たい風が吹きこみ、 「なんのお話?」  とママが首を縮めて戻って来た。 「中座さんが老成しているって」 「ロウセイ?」 「わるい意味じゃないですよ。落ち着いて、しっかりしていらっしゃる」 「やっぱり。私も年を聞いたときにびっくりしちゃった」 「それに二枚目だし。先祖は役者さんの家系ですか」 「いいえ、とんでもない」 「でも中座って……芝居小屋の名前でしょう。今でもありますよね、大阪かな」 「関係ないみたいですよ。お坊さんだそうです、先祖は」 「ああ、なるほど」  大西が小用に立つと、薫が啓一郎の耳もとで、 「坂をおりて右側の�ポン�というコーヒー屋で待ってて。すぐ店を閉めるから」  それから急に声を張り、 「うちもクリスマスの飾りつけしなくちゃね」  とチーフに話しかけた。  啓一郎としては、閉店後も薫につきあおうと、そのつもりで今夜�かとれあ�をのぞいたわけではなかった。今日は火曜日。まだ一週間の先は長い。夜遊びはやはり体にこたえる。だが、あれこれ抗弁する前に大西が席に戻って来た。  ——まあ、それでもいいか——  先に薫に誘われてしまったら断わるのがむつかしい。欲望がうごめく。  厚い花弁の感触。滑りこむ瞬間。環状の圧迫。めくるめく放出。なぜあんなに心地がよいのか。欲望のうごめきは、すでに水かさを増し、荒い流れとなって動き始めた。水流はどんどん太くなりもう流れをせき止めるのはむつかしい。それが男の生理というものだ。  ——この男もママを狙《ねら》っているのかな——  深夜の酒場ではこんな対決がいつもくり返されている。  薫は大西の隣にべったりと腰かけ、体を揺らしながら、しきりにあいづちを打っている。 「じゃ失礼する」  啓一郎が先に椅子《いす》をおりた。 「あら、お帰り」 「うん」  薫はドアの外まで出て来て、坂下のほうを指さし、 「じゃあね」  首をすくめてから店の中へ消えた。  北向きの坂道。風がやけに冷たい。コーヒー店は�PON�とネオンをくねらせて店の名を映し出していた。  ドアを押した。狭い店内。和服の女が二人コーヒーを飲んでいる。花街のお姐《ねえ》さんたちらしい。タバコをふかしながら、しきりに客の悪口を言っている。  ——たしか法令って言うんだよな——  何年か前、新宿で人相見をからかい、そのときに教えてもらった。小鼻の両脇《りようわき》から頬《ほお》のほうへさがっている線、それが法令だ。どうしてそんないかめしい名前がついているのかわからない。  姐さんたちの法令は、くっきりと深い。女は四十を過ぎて、これが深くなると、たいてい強《ごう》つくばりのような表情になる。女たちはその通りの顔つき……。  啓一郎はコーヒーを注文し、それを飲み干し、三本目のタバコを喫《す》い終わっても、まだ薫は現われない。大西という客がなかなか腰をあげないからだろう。姐さんたちが出て行くと替ってサラリーマンらしい四人組が入って来た。 「ああ、あの一ぱつだよなあ。ちょっと入れ替っていればよオ」 「つきも実力のうちだってば」  麻雀《マージヤン》の帰り道なのだろう。戦況の復習がえんえんと続いている。もう一時に近い。 「ごめんなさい」  ようやく薫がドアのすきまに姿を見せた。 「私もコーヒー飲みたい」 「もう閉店なんですけど」  タートル・ネックの若い店主が言う。 「一ぱいだけ。すぐ飲みますから」  両手をあわせてお願いする。 「いいですよ」 「すいません」  飲み干すのを待って外へ出た。薫が啓一郎の腕をとり、小さな声で、 「また行きたい。駄目?」  言葉の意味はすぐにわかった。 「うん」  啓一郎は薫の誘いに短く答えた。  啓一郎の頭の中には会議場がある。百人くらいの議員が集まっている。議長が、 「ただいまより田川薫とホテルへ行くべきかどうか採決に入ります」  と告げると、 「無節操だぞ。千倉《ちくら》法子にわるいじゃないか」 「寺田麻美とはオシャカになるぞ」 「また朝帰り。仕事がちゃんとできるのかよ」 「鉄鋼界は不況なんだぞ。うかうか遊んでいるときか」  さまざまな野次が飛ぶ。しかし与党の意見はすでに決まっている。野次は少数意見にしかすぎない。 「賛成七十五票。反対二十五票。よって田川薫とホテルへ行くことは可決されました」  野党はなおもブツブツと反論を唱えているが、大勢にはなんの影響もない。薫の誘いに、啓一郎が「うん」と無愛想に答えたのは、野党をあまり刺激しないよう、ためらいのジェスチャーを示しただけのことだった。  この前行った旅館は近い。歩いても行ける距離だ。薫もそれを考えて�ポン�を指定したのかもしれない。なにげない路地の奥に旅館の入口がある。客たちはその先のアパートにでも帰るような様子で、すいと角を曲がればよい。けっして設備のいい宿ではないが、入りやすいのは長所である。  チャイムが鳴り仲居が現われ、今夜は�白根�に案内された。全部山の名になっているのだろう。  仲居が料金を受け取って立ち去ると、 「ここ、なにかしら」  薫が襖《ふすま》を開けた。  部屋いっぱいに朱色の布団が敷きつめてある。 「酔っぱらっちゃった」  ドウと布団の上にうつぶした。 「ああ、俺《おれ》も疲れた」  啓一郎も上着を投げて、その隣に寝転がった。  ——今日はこういう予定だったのかなあ——  抱きあうことを考えないでもなかったが、相手がちがっていた。むしろ麻美のほうを考えていた。  薫が顔をあげ、細いまなざしでまぶしそうに啓一郎を見てから、 「好き、中さん」  むしゃぶりつくように唇を求めて来る。 「うん」 「だれとでもこんなふうになるわけじゃないのよ」  聞き覚えのあることを言う。いつかも言ったことを忘れているのだろうか。それとも、これは薫が性の儀式を始めるための呪文《じゆもん》なのかもしれない。 「ねえ、わかる?」 「わかる」 「私のこと、好き?」  これはむつかしい。厳密には答えにくい。また頭の中の議会を召集しなくてはいけない。それも面倒だ。 「好きだよ」  つぶやいて唇を重ねた。  薫は青いニットのワンピースを着ている。襟《えり》もとからすその近くまで、ずっと白いボタンが繋《つな》がっている。 「毎日着る物を替えるの?」  尋ねながら啓一郎は、一つ一つボタンをはずす。ひとめで仕組みのわかる服でよかった。 「ううん。そんなことない、お金かかるもん」 「いつもちがう」 「そおう?」  薫は酔っているような、わざと意識を薄くしているような、そんな調子で答える。ワンピースの下はスリップ、あとは手の感触から、ガードルと下着だけ……。  ——寒くないのだろうか——  昔の女はもう少し……そう、シャツのようなものを着ていただろう。  ——お袋は、たしかそうだったな——  母が死んだのは啓一郎が成人になった年。母自身は四十一歳だった。最後の頃《ころ》は入院生活が多かったし、目がしらに映る母は、今の啓一郎とそう離れた年齢ではあるまい。薫ともそうはちがうまい。母のほうがずっと年上だったような気がするけれど……。 「いくつなの、本当は?」 「厭《いや》っ」  薫は肌《はだ》を観察されたと思ったらしい。年齢を聞かれたのは、そこからの連想と考えたらしい。布団の下に潜りこみ、靴下とガードルは自分で取った。啓一郎も乱雑にワイシャツを脱ぎ、布団の中へ入りこむ。 「中さんと同じくらいよ」 「若く見える」  手さぐりで薫の下着を奪った。  体はどちらも少し汗ばんでいる。しかし薫は風呂《ふろ》に入るつもりはないようだ。啓一郎は腕をまわし、華奢《きやしや》な体を横抱きに抱きしめた。  愛撫《あいぶ》が鋭敏な部分に届くたびにピクンと震える。ばね仕掛けのような印象さえある。汗ではないものが体の奥を溶かしていた。 「あ」  声の調子も変り始めている。薫《かおる》は薄あかりの中で目を閉じ、内奥《ないおう》から押し寄せて来るたゆたいに身をゆだねているのだろう。仏像の表情を帯び始める……。  汗を含んだ体臭が鼻をくすぐる。芳香ではないが、厭《いや》な匂《にお》いではない。淫《みだ》らな匂い。こんなときにはかえって好ましい。 「好き」  と、うわごとのようにくり返す。  言葉の響きは微妙だ。つまり、啓一郎が�好き�だというのではなく、こうして抱かれていること自体が�好き�だ、と、そんなふうにも聞こえる。  女体が熱すまでの時間は短い。表情の中にあせりのようなものが混じり始める。 「お願い……」  これも聞きおぼえのある言葉だった。啓一郎は体を起こして折り重なる。この瞬間……。 「あン」  甘いナイフが女体を切り裂いた。  薫は執拗《しつよう》にからみつく。  啓一郎は簡単に果ててしまった。薫の内奥には微妙なうごめきがある。  ——変だな——  男の生理は悲しい。頭のどこかで、  ——早く帰らなくちゃあ——  と考えていて、それが少し影響したのかもしれない。もう二時に近い。どう急いでみても家に帰り着くのは三時過ぎになるだろう。四時かもしれない。  気がつくと、薫は軽い寝息をたてている。なにを夢みているのか。いたいけな寝顔はあわれでさえある。  ——睡眠不足だって言っていたが——  啓一郎はそっと薫のそばを離れてバスルームへ立った。風呂《ふろ》はどうでもいいけれど、薫が眠っているなら仕方がない。  ——朝まで眠り続けてるんじゃあるまいな——  その可能性も皆無ではない。そうなると一人残して帰るわけにもいくまい。  ——少し困るか——  外泊自体はべつになんの支障もないけれど、家に連絡をしてない。今さら電話をかけるわけにもいかない。父も妹たちももう眠っているだろう。無断の外泊はこれまでに例がない。  簡単に汗を流して部屋へ戻った。 「お風呂に入ったの?」  薫は目をあけていた。 「シャワーだけだ」 「そう」  そのまま天井を見ているので、布団の片すみをあげて、かたわらに寄りそった。薫はシーツで肩を包みながら抱きつく。要所に触れればピクンと震える。  ——しかし……もう帰らなくちゃあ——  過度に刺激してはなるまい。 「あのねえ……」 「なんだ?」 「あたし、中さんにお願いがあるの」 「ほう?」 「どうしようかな。明日会社にお邪魔していい?」 「会社へ?」 「昼休み。なんかご馳走《ちそう》してくれる?」 「そりゃかまわんけど……。でも用件はなんだ?」  薫は両手で頬《ほお》を包んでいる。かわいらしい仕ぐさだが、まっとうな思案顔。これは情事に属するものではない。 「お店、苦しいのよ」 「うん」 「少しお金を貸してください」  顎《あご》を一つカクンと動かし「ねっ」とばかりに下から啓一郎の顔をのぞきあげた。 「俺《おれ》に?」  相手がちがうんじゃあるまいか。金を持っている立場ではない。貯金がゼロというわけではないけれど。 「お願い。助けて」 「どのくらい?」 「八十万円くらい」 「大金だな」 「返しますから。中さん以外に頼れないの」  薫は視線を落としたまま細く告げた。 「よほど苦しいのか」  啓一郎が尋ねたのは�かとれあ�の経営についてである。たしかに客の多い店ではない。これで大丈夫なのかな、と訝《いぶか》ったことも何度かあった。 「ええ。開店して三カ月でしょ。まだお客さんもつかないし……」  ポツン、ポツンと弾《はじ》くように言う。 「家賃は払わなくちゃいけないし、このままじゃお給料も出せないわ」 「ふーん」  なんだかよくわからない話である。苦しいことは、まちがいなく苦しいのだろう。だが商売を始める以上、当初から予測できたことではないのか。おそらく甘い見通しで開店したのだろう。啓一郎自身、酒場には何度も足を踏み入れているけれど、店を経営する立場から酒場を考えたことなど、ただの一度もない。どこにどんなネックがあるのかわからない。  ——それに、なぜ俺なのか——  その疑問がある。だれかほかにもっと親しい男がいてもよさそうなものじゃないか。 「中さんにお願いするの、筋ちがいだと思うわ。でも、好きだから……」 「急に言われてもなあ」  つい先日、近所の銀行から定期預金の満期が近いと、そんな通知が届いていた。金利を入れて百万円と少し……。貸して貸せないことはない。 「すぐに返せるの。借用書も書きますし、金利もチャーンと払うわ」  口調はまだ酔っている。 「借用書なんか……どうでもいいけれど」  薫は啓一郎の立場をどれだけ知っているのだろうか。そうくわしく話した覚えはないけれど……。三十五歳、独身、大学卒、上場会社の係長、父の家に住んでいる……そんな具体的な諸条件よりも、なにか嗅覚《きゆうかく》のようなものが働くのかもしれない。  たしかに八十万円は、啓一郎が都合のできない金額ではない。都合ができなければ、むしろ恥ずかしい金額である。  ——だが……薫と俺とはそんなに親しいのかな——  そのへんが微妙なところだ。笹田三彦《ささだみつひこ》に頼まれたのなら、なんのわだかまりもない。法子《のりこ》でも問題はない。薫とは二度抱きあった。男と女にとって、これ以上親しい結びつきはない、とも言える。それはたしかにそうなのだが、視点を変えてみれば、ただ体を重ねただけ、心の底から湧《わ》いて来るような信頼感はない。  ——何百万と言っているわけじゃないし——  信頼感がどうのこうのと言うほど大層な金額ではないのかもしれない。抱いてしまった以上�まあ、仕方ない�と考えるのが常識のような気がする。短い沈黙のあとで、 「少し考えさせてくれ。もう出よう」  と薫をうながした。 「ええ」  薫は顔をあげ、ぽっかりと笑った。それから啓一郎の体に胸をすり寄せ唇を求めた。 「大変なんだな、いろいろと」 「そう。大変よお」  肩にかけたシーツが落ち、胸があらわになった。啓一郎はそれを隠すように包んだ。 「むこう向いてて」  周囲に散乱している衣裳《いしよう》を集めて薫はバスルームへ立った。シャワーを使う気配はない。薫も帰りを急いでいるらしい。啓一郎は身仕度を整えた。 「お待ちどおさま」  もう一度儀式のように唇を重ねて部屋を出た。車を止め、薫のマンションまで。 「八十万あれば、なんとか切りぬけられるのか」  個人の支出ならともかく商売の金となると、そのくらいの金額では抜本的な手当てにはなるまい。 「ええ……」 「八十の根拠はなんなんだ?」  薫は上目づかいに啓一郎の顔をのぞいている。質問の意味がよくわからなかったらしい。言いかたが少しけわしかったかもしれない。 「当面なんに使うお金が必要なのかな」 「あのね……お家賃とか、お給料とか、それに歯医者さんにも払わなくちゃいけないし」  薫の返事は、口調も中身もこころもとない。むしろ啓一郎が出してくれそうな金額を八十とはじいたのかもしれない。百では桁《けた》が一つ大きい。九十は妙な数だし……。そんな想像をしてみたくなる。  しかし、そう問いつめてみても「はい」とは言うまい。計算に強い人には見えない。なんとなく商売を始め、なんとなく足りなくなり……。胸に埋めた頭を抱くと、これも肩と同じように華奢《きやしや》で、小さな感触だ。  ——脳味噌《のうみそ》も小さいんじゃなかろうか——  などと馬鹿《ばか》らしい想像が浮かぶ。人間の頭にそれほどの大小はあるまい。頭が小さくても賢い人はいくらでもいる。だが、薫のどこか頼りない印象は、体の特徴だけではなさそうだ。請求書に書かれた短いメモにも時折、誤字がある……。  ——神様は公平かな——  微妙な抱きごこち。能力の弱さ……。 「歯がわるいのか?」  啓一郎のほうが話題を変えた。 「そう」 「きれいじゃないか」  歯並びのよさは、薫の長所だ。 「でも、虫歯がたくさんあるの」 「俺もある」 「なおしたほうがいいわ。放《ほう》っておいてよくなること絶対ないんですって。手ぬきをしてると、あとでかならずいじめられるわ。あ、そこで止めて、お願いします」  最後の言葉は啓一郎に告げたのだろう。ポンと降りて窓の外で丁寧にお辞儀をしていた。  ——今夜はずいぶん金を使ったなあ——  啓一郎は車の背に体を預けて、まずそう思った。本日の収支決算はどうなっているのか。 �彩�で食事をした。オータニのラウンジで水割りとカクテルをとった。�かとれあ�で飲んだ。ホテル代、車代……。五万円を超しているだろう。痛いな。  ——麻美《あさみ》にはうまくかわされ、薫とはホテルへ行ったけれど——  情事一つの値段と考えれば、五万円はさほどの支出ではあるまい。収支決算は、まあ、あっている。  ——こんなとき、男がなにを考えるか、女は知っているのかな——  とりわけ麻美あたりが……。事実を知ったら、さぞかし愛想《あいそ》をつかすだろう。  ——そうでもないか——  人間はそれほどきれいなことばかりを考えて生きているわけではない。だれだって人前にさらけだしたら恥ずかしくなるような算盤《そろばん》を心の中ではじいている。麻美だって例外ではあるまい。一つあくびをしてから、  ——困ったな——  そう思ったのは、麻美のことではなく薫のほうだ。  根掘り葉掘り聞くのがかわいそうみたいな気がして……と言うより、聞けば聞くほど心配が増えるような気がして、深くは尋ねなかった。別れ際《ぎわ》の様子を考えると、薫は借金の交渉が充分に通じたものと思っているらしい。ビジネスの世界なら「少し考えさせてくれ」は、やんわりと断わったことに属する。  ——ビジネスじゃないしなあ——  苦い笑いが浮かんでしまう。女が胸もとに体を押しつけ、 「お願いします」  とつぶやけば、それが切り札になってしまう世界もある。  考えてみると、啓一郎はこれまでに人から金を借りたこともなかったし、人に金を貸したこともない。三十五年間生きて来て、これはやはりめずらしいことのほうだろう。  借りない理由は明白だ。親父《おやじ》の家にいて、しかも独り身。格別豊かではないが、大きな支出はありえない。貸すほうは、せいぜい妹たちに頼まれるくらい。これは最初から返って来ることをあてにしていない。貸すというほどの金額でもない。  ——どう考えたら、いいのかなあ——  慣れてないことだから対策がうまく立たない。どのへんがほどのよさか、わからない。うまい断わりかたが浮かばない。  ——貸さないほうがいい——  第一感はそう思う。でもそれでは少し不人情みたいな気もする。啓一郎に頼んだのは、よくよくせっぱつまっているからだろう。現代人はすっかり利己的になってしまった。保身術ばかりを身につけている。男として情けない。若さがない。相手は少なくとも�いとしい�と思って抱いた女ではないか。多少の無理なら聞いてやるべきではないのか。  ——甘いな——  それもわかっている。とはいえ、いざというときに甘くなれない男なんか、女にとってなんの価値もあるまい。  ——あげるにしちゃ少し大きすぎる——  だれにとっても八十万円は大金だが、啓一郎の身分としてはそう考えて当然だろう。月給の二倍あまり……。家族持ちのサラリーマンなら、かれこれ一年分の小遣いだ。あだやおろそかに扱える金額ではない。  ——薫は�貸してほしい�と言っているんだし——  啓一郎は首を振った。かならずしも�あげる�わけではないけれど、曖昧《あいまい》な部分がないでもない。おおいにある。 「あんた、その女と寝たんだろ。じゃ返って来ないよ」  そう言われても仕方がないような金である。考えれば考えるほど八十万円という金額は、ほどよいバランスのあたりに位置している。つまり……啓一郎がまったく出すことのできない金額ではない。親しい友人や恋人なら、なんとか都合してやってよい金額である。しかも、これ以下では、たいして役に立たないし……。 「そこで結構」  家より少し手前で車を降りた。エンジンの音でだれかが目ざめるかもしれない。  玄関を入ってからは足音を忍ばせて自分の部屋へ。仕事のつきあいで遅くなる夜も多いが、こんな時間まで外で飲んでいるのはめずらしい。  ——四時間は眠れるかな——  それでも床につく前に歯だけは磨いた。幼いときから父にやかましく言われたので、この習慣は身についている。泥酔《でいすい》して帰ったとき以外は、一応磨く。そのわりには虫歯が多い。よく磨けば、それで虫歯がなくなるというものではないらしい。新興宗教の御利益《ごりやく》とおんなじで「もっとひどくなるのを救ってあげたのです」なんだ。  このごろ使っているのは電動式の歯ブラシ。妹たちは、こぞって、 「無精ねえ。歯くらい自分の手を動かして磨けば……」  と非難するけれど、無器用者が裏側のほうまでよく磨くにはこれがとてもいい。  階段に足音が響き、保子《やすこ》が洗面所をのぞいた。 「あんまり静かに帰って来るから泥棒《どろぼう》かと思うじゃない」 「泥棒が歯なんか磨くか」 「中には礼儀正しい人もいるんじゃない」 「明日、寝てたら起こしてくれよな」 「明日じゃなくてもう今日でしょ」 「まあ、そうだな。おやすみ」  布団に潜りこんで一刻も早く眠ることを考えた。うまいぐあいにすぐに眠りがやって来た。 [#改ページ]   ポインセチア  来期の需要予測について、現場の意見を交換する会議は、十二時半すぎまで紛糾した。  メンバーのほとんどが三十代から四十代。入社以来何度か不況を体験しているが、これほど見通しのはっきりしない鉄冷えはなかった。強気か、弱気か、雑談に入ってからにわかに議論が熱くなった。こんなときは、一人か二人、きまって感情的にものを言う奴《やつ》が出る。  ——あいつが言うから気に入らない——  そんな雰囲気になってしまう。かくて昼食は、同士を募って、文句とぐちの品評会。「わかる」「わかる」の交換会。中座啓一郎も書類をデスクに置いて、そのまま同僚と食事に出るつもりだったが、 「面会のかたがいらしてますよ。一階の受付け」  そう言われて、予定が変った。 「じゃあ、俺《おれ》は失礼するわ」  一歩遅れてエレベーターで降りてみると、田川|薫《かおる》だった。  木の葉をまとったような褐色のコート。大きなみのむしみたい。だが場ちがいなほど異様なファッションではない。会社の女性たちも、昨今はずいぶん大胆なものを着るようになった。とりわけコートは、オフィスの中で着るものではないから華やかであったり、珍奇であったり、 「ありゃ、なにかね」  熟年層が首を傾《かし》げるような服装がなくもない。 「あなたですか」 「お邪魔でした? ご馳走《ちそう》してくれるって言ったじゃない」  はっきりと約束をしたわけではなかったが……。 「いいよ。よほど待った?」 「ううん」 「会議が延びたもんだから」  薫をうながしてとにかくビルの外へ出た。昼休みのオフィス街はネクタイ族で埋まっている。どこの店へ行っても知った顔がいるだろう。  タクシーを止め、 「中華料理でいい?」 「ええ、なんでも」  基本料金だけ乗って京橋の中華料理店へつけた。大きな店だから昼休みでも席があいている。 「よくわかったな、会社のビルが」 「昔、あのへんに勤めてたから」 「へえー、どこ?」 「言わない。小さな会社だもん」  隠す理由がよくわからない。メニューをながめたすえ、注文は五目焼そば二つ。 「ビール、飲む?」 「いいんですか、仕事の最中に」 「ビールくらい、やかましいことを言わないさ。昔はデスクで飲んでいるつわものもいたらしい」 「でも、今日はいいです」 「じゃあ、やめよう」  この店のウエートレスは、みんな短いチャイナ・ドレスを着ている。膝頭《ひざがしら》のきれいなのが中国人、膝骨の大きいのが日本人、欧米人はそんな判別法を用いるとか。 「ごめんなさい、昨日は」  妹の保子《やすこ》ならさしずめ「今日のうちでしょ」と言うところだ。薫と別れたのは、今朝に近い時間だった。 「うん?」 「私ね、アルコールにそんなに強いほうじゃないのよ。OLやってたときなんかビール一ぱいでも酔っちゃうくらい。でも、水商売に入ってから飲まないわけにはいかないでしょう。どんどん飲めるようになっちゃって……」  薫は少しはしゃいでいる。 「何年くらいやっているんだ、酔っぱらいの相手を?」 「うーんと、結構長いわ。十年以上。途中で中休みもあったけど」  薫は五目焼そばの中から烏賊《いか》の断片を一つ一つ取り出してよけている。窓際《まどぎわ》の席だから日射《ひざ》しが食卓に照り、それが薫の顔に照り返す。薫の化粧は、やはり夜の時間のものだろう。普段はほとんど気づかないマスカラやアイ・シャドウが、明るい光の中でどす黒く映る。紳士は、薫をこんな席にすわらせてはいけないね。 「ホステス業?」 「そう」 「どのへんで?」 「銀座も少し。新宿とか……。身上調査みたい」 「いや、あんまりあなたのことを知らないから」 「知らないうちに仲良くなりすぎちゃった……って後悔してんでしょ」 「そうでもない」 「本当に?」 「うん」  まさか「後悔している」とは言えない。実情は「後悔はしていないが、後悔しそうな気はしている」かな。わからない。 「よかった」  大げさに胸をなでおろしてから水を一口含んで、 「お店じゃ酔いを殺してんのね。頭の中はへんなふうに酔っぱらってるのよ」 「あるな、そういうこと」 「だから酔っちゃうと、ちゃんとしたことができないの」 「うん?」 「いつもそれで大失敗するの」  急に口をつぐんだ。箸《はし》を皿《さら》の中に入れたまま動作を止めている。過去に犯した失敗がいくつか頭の中を駈《か》けぬけたのだろうか。 「どうした?」 「ごめんなさい。緊張すると頭の奥がキーンと痛くなるの」 「なんだろう?」 「平気。で……なんだったかしら。ああ、そう。あのね、今朝がた目をさまして考えちゃった。酔ってお願いすることじゃないって……。お金って大事なものでしょ。だからお酒なんか飲まないで……ビールも飲まないで……」  言葉を切り、コップの水を揺すりながら、 「どうぞお金を貸してください。一カ月だけ」  両手をあわせて頭を垂れた。 「わかった」  中座啓一郎は、自分の逡巡《しゆんじゆん》を振り切るようにポンと告げた。ともすれば顔の表面に浮かんで来そうな戸惑いを腹の底に追いやって、ひとつ笑って見せた。  ——馬鹿《ばか》だな——  古来、ずいぶん大勢の男たちがこんな瞬間を通過しているのだろう。もっと、もっと、はるかに致命的な瞬間を含めて……。 「すみません。恩に着るわ。なんでもしますから」  尻《しり》あがりの声で言う。 「どうして俺《おれ》なんだ?」 「えっ。だって……ほかにいないわ。わかるでしょ」  薫《かおる》は黙って目を伏せる。長いまつげは、つけまつげらしい。 「好キダカラ抱カレタノデス。ソノ人ヲ頼ルノハ当然デショウ」  とでも言いたいらしい。 「八十万だよな?」 「百万。無理ですか」 「うーん、まあ……いいか」  心づもりにしていたのは、ここ二、三日のうちに満期になるはずの定期預金だった。若干の金利はつくが、総額は百万円と少々。  ——まさかその金額が顔のどこかに書いてあるんじゃないだろうなあ——  啓一郎はそんなことを思ってしまう。薫の狙《ねら》いは的確だ。 「急ぐんだろ」 「ええ」 「どうするかな」  社内預金もある。株券もある。四日待てばボーナスも出る。これは全部貸すわけにもいかないけれど……。定期預金の満期は正確にはいつだったろう。 「いつでも、どこにでも取りに行きますから」  薫の表情がやけに明るい。借金のめどがついて真実ほっとしているらしい。もう前言を取り消すわけにはいかない。 「明日でもいいよ」  とりあえず社内預金を引きおろせばいいんだ。ボーナスの前というのは、ちょっと気が引けるが、経理はいちいちそんなことを気にかけたりはすまい。自動支払機ではいくらまでおろせるんだったっけ。 「うれしい。本当にすみません」 「で、どうする?」 「どうしたら、いいの?」 「会社に来てもらおうか」 「はい……。あの、明日の夜、中さんあいてません?」 「えーと、あいてるんじゃないかな。どうして」 「お店、休んでもいいの。チーフに頼んでおくから。どこかへ連れてって。無理かしら」  啓一郎は、ポケットから手帖《てちよう》を取り出した。今のところ明日の夜はなんの予定も入っていない。仕事のほうも今日残業をやっておけば支障はあるまい。 「大丈夫とは思うけど、午後もう一度連絡してくれないかな。三時|頃《ごろ》」 「はい」  会えば、また抱きあうことになりそうだ。  ——大将。いいのかいな——  しかし、迷ってみたところで、薫の微妙なうごめきには抗しきれまい。  中座啓一郎は社内預金から百万円を引きおろした。新券のせいもあって思いのほか薄い。内ポケットに入るほどの量である。それでも現金には小切手とちがった迫力がある。  ——これでいろいろな欲望が買えるわけか——  そんなことを考えながら薫と約束したコーヒー店へ急いだ。  新宿で降りてコマ劇場の裏へ。�風�はずいぶん昔からあるコーヒー店だ。学生の頃によく通った店である。内装も雰囲気《ふんいき》もほとんど変っていない。画家の卵や役者の卵などがよくたむろしている。  ドアの見える位置にすわって薫を待った。窓辺にポインセチアが、まっ赤な列を作っている。窓越しに見る冬の気配と、この鮮明な赤の色とがよくあっている。薫はなかなか現われない。  ——貸すほうが待つのか——  些細《ささい》なことにはちがいないけれど、男同士ならこんなことはあるまい。貸し手に帰られてしまっても文句は言えない。  ——なるほどね——  このあたりのルーズさが�かとれあ�のうまくいかない理由なのかもしれない。少なくとも無関係ではあるまい。  ドアのむこうに銀色の影が揺れ、毛皮のコートが入って来た。それが薫だった。 「すごいじゃないか」 「ううん、安物よ」  コートのまま腰かける。 「ごめんなさい。お待たせしちゃって。出がけに電話かかって来て」 「ああ、そう」 「コーヒーいただこうかしら。もうすっかりクリスマスね。どうしよう? うちみたいな店、子どもっぽく飾ったってつまんないでしょう。なにかワン・ポイントくらいクリスマスっぽいものを、さりげなく置いて、それでクリスマスにしようかと思うの」  薫はうきうきとした調子で話している。この人は、極端に饒舌《じようぜつ》のときと無口のときとがある。 「これ」  ポケットから封筒を取り出した。 「すみません。ありがとう」  薫は封筒を目の高さにおしいただいてから、無造作にハンドバッグに納めた。それからクルリと首をまわして、 「御飯は?」 「まだ食べてないよ。あんたは?」 「ちょっとお昼が遅かったから」 「いらない?」 「ううん、なんか軽いもの。中さんは食べるんでしょ」 「じゃあ、お鮨《すし》くらいかな」 「私、おごります」 「いいよ、無理しなくて」  薫がコーヒーを飲み終えるのを待って席を立った。 「どこでもいいか」  独り言みたいにつぶやくと、薫が、 「ええ、どこでも」  と答える。大衆店らしい鮨屋を見つけてのれんをくぐった。 「いらっしゃいませ」  コートを二つ並べて壁にかけた。毛皮の隣で古いベージュのコートはひどくくたびれてぶらさがっている。 「この頃、外国でお鮨、はやってるんでしょ?」  清酒を二本頼んだ。ガラスの容器をそのまま温めたのが、カウンターの上に並ぶ、おちょこはコップと呼んでいいほど大きい。一回|注《つ》ぐだけで容器の半分がなくなってしまう。 「ダイエットになるらしい」  薫は首をそらして飲み、おちょこについた口紅を指先で拭《ぬぐ》う。 「でも、まぐろのトロなんか、脂がいっぱいつきそう」 「ビフテキに比べりゃましだろ。トロばっかり食うわけじゃあるまいし」 「渋谷《しぶや》かどっかにめずらしいお鮨屋さんがあるんですって。キャビア巻きとかハム巻きとか」 「そうらしいね」  週刊誌で見たことがある。俗受けを狙《ねら》ったスノビズム。しかし、その中から新しい味覚が誕生しないでもあるまい。文化というものは、いつもそんな方法で発達して来たはずだ。  ——麻雀《マージヤン》だってそうだし——  いつものことながら啓一郎の頭にはとりとめもない連想が浮かぶ。リーチもドラも七対子《チートイツ》も本来の中国麻雀にはなかったものらしい。イッパツだの、裏ドラだの、新しいルールがどんどん加わる。だれが考えるのか、だれがはやらせるのか、それぞれによくできたルールである。  ——鮨と麻雀はどこか似ているな——  烏賊《いか》とわさびとまぐろ、白《ハク》と発《ハツ》と中《チユン》の色あい。それから指先でつまむ形……。  ——関係ないか——  薫はあまり食が進まない。もともと少食のほうらしいが「昼食が遅かったから」というのは本当なのだろう。トロと白身を一つずつ食べただけ。 「もう酔っちゃったみたい」  今夜も濃い化粧だが、夜の光の下では違和感もない。むしろ美しく映る。 「もう少し飲むだろ」 「ええ、酔いたいわ」  ハンドバッグは無造作に隣の椅子《いす》に投げてある。  ——大丈夫だろうか——  封筒は最後まで啓一郎が持っていたほうがよかったかもしれない。  二人で四本の清酒を飲み干して外へ出た。時刻は七時。新宿の裏通りは、まだまっ盛りの時間ではない。ここらあたりは客引きのうるさい地域だが、女連れならなんの心配もない。 「店はいいのか」 「ええ。今夜は風邪でお休み。チーフに頼んで来たの」  啓一郎の腕を取って体を預ける。毛皮の手ざわりが心地よい。 「中さん、私のこと、好き?」 「ああ、好きだ」 「うれしい」  ふっと薫の体臭が匂《にお》った。興奮につれ匂いを放つ体質なのかもしれない。ある種の動物のように。  道路を一つ越えると、盛り場とはちがった暗いネオンの路地が伸びていた。  どこがよいホテルかわからない。人通りは少ないが、だれかに見られて、胸の張れる立場ではない。銀色のコートはそれでなくてもよく目立つ。細道はずっと続いているらしいが、そう奥まで行くこともあるまい。  ——この商売も立地条件が死命を制するな——  奥が好き、という客もいるのだろうか。奥へ行くほど料金が安くなっていたりして……。  和風の、一見小ぎれいそうな宿を見つけ、薫の肩を抱くようにして塀《へい》の中へ入った。 「今晩は」 「はーい」  料亭のような玄関。左手に緋毛氈《ひもうせん》を敷いた茶室がある。坪庭に遣水《やりみず》が流れている。鹿《しし》おどしが鳴っているが、本物なのか、録音テープなのか……少し音がよすぎるようだ。 「どうぞ」  紺の着物に赤い帯。四《よ》ツ谷《や》の旅館に比べると、かなり上等である。エレベーターで三階に昇った。料金はあと払いかな。それを除けばシステムに大差はないようだ。  ——やることも変らないし——  などと啓一郎は自分自身に対して自嘲気味《じちようぎみ》の半畳《はんじよう》を入れてみたくなる。  ——男と女は、普通どこで愛しあうのか——  車の中。狭すぎる。公園の木陰。大胆だなあ。  盛り場の付近には、この種のホテルがたくさんある。結局のところ、みんないくぶんうしろめたい気持ちを抱えながら、こうしたホテルを利用しているのだろう。だれが寝たかわからないベッド。だれが入ったかわからない浴室……。  ——深く考えることもないんだよな——  シティ・ホテルだって、だれが寝たかわからないベッド、だれが入ったかわからない浴室、そのことに変りはない。男は割りきって考えることもできるが、  ——問題は女のほうなんだ——  パートナーがこころよく門をくぐってくれるかどうか……。抱きあうことを承知したあとでも、なお女はむつかしい。  ——たとえば麻美《あさみ》——  まあ、無理だろう。  男と女のどちらかが独りでマンションに住んでいて、そこで抱きあえば一番自然なのだろうが……だれもがそんな環境に恵まれているとは限らない。 「今朝ね、九時頃に目をさましたの」 「うん?」 「ベッドの中でしばらく中さんのこと考えてたわ」 「へーえ」  下から見あげるように視線をまわしてから、 「ねえ、いっぱい抱いて」  目を閉じて、首をななめにそらす。また体臭が少し匂《にお》った。  薫は下唇《したくちびる》がふっくらと厚い。男の二枚の唇のあいだにほどよく収まる。 「風呂《ふろ》に入ってくる。あとからおいでよ」  啓一郎は浴衣《ゆかた》を取り、薫に声をかけた。 「ええ」  この宿の風呂場は広い。岩風呂のような装飾になっているが、どことなくちぐはぐな印象だ。岩塊の中から双頭の獅子《しし》がお湯を吐いている。ゆっくりと体を洗ったが薫は入って来ない。啓一郎は、待ちきれずにあがった。 「どうした?」 「流しましょうか」  薫は浴衣に着換え、テレビの前にすわっている。 「もう洗っちゃったよ」 「体、貧弱なんだもん」 「そうかなあ」 「知ってるくせに」  叩《たた》くまねをしてパタパタと浴室のほうへ消えた。  テレビのカンフー映画が香港《ホンコン》を映し出している。ゴタゴタとした家並みは空港付近の街に似ている。もっとよく見知った風景が……たとえばビクトリア・ピークあたりが映らないかと見ていたが、情景は屋内に変ってしまった。  寝室は暑いほど暖房がきいていた。スイッチを切っておいたほうがいいだろう。寝室にも床の間があって、枝に鳥を宿した額が一枚かけてある。  低い位置に小さな襖戸《ふすまど》があって、  ——なにかな——  細く開いてみると、浴室がのぞける仕掛けになっていた。浴室のほうから見れば鏡が張ってある位置だろう。上品に作ってある宿だが、やはりこの程度の仕掛けはあった。  ——悪趣味だなあ——  とはいえ見ないで閉じるのはむつかしい。寝室の襖《ふすま》をしめ、あかりを消した。マジック・ミラーは、こちらが明るいと逆の作用をもたらす。  薫が湯舟からあがった。湯気で鏡が曇る。浴室は暗く、裸形《らぎよう》はさほど鮮明には映らない。  背を向けたまま片膝《かたひざ》をついて洗っている。見るからに華奢《きやしや》な体つき。日本人の、たとえば浮世絵などで見るような細い体形だ。それでも腰から下はハートをさかさにしたような形を作って張り出している。石けんをつけた手が、腰の下に伸びた。丁寧に洗っている。そこまで見て、啓一郎はのぞき窓の襖を閉じた。布団に転がりタバコに火をつけた。  ——うれしそうだな——  最前コーヒー店で会ったときから薫は上機嫌に見えた。昨日デートの約束をしたときから、薫はこうして抱かれることを考えていたのだろう。  浴室の戸があいた。 「まだ私、酔っぱらっているみたい。どこ?」  襖があき、光を背にして女の匂いが立っている。  啓一郎は、立っている薫の足もとににじり寄って浴衣のすそを左右に開いた。 「いやン」  薫は前をあわそうとしたが、すでに啓一郎の頭が中へ入っていた。強くはあらがわない。浴衣の上から、啓一郎の頭を押さえた。  啓一郎は二本の木を抱くようにして、まだ湯のぬくもりを残している腿《もも》を抱いた。それから静かに指先で足を割った。  薫は少しよろけ、そのまま細く足を開いた。指先にうるおいが伝わる。花弁が舌先に触れた。二本の足が小きざみに震える。 「お願い」  声の音色が変っている。啓一郎は立ちあがり、帯の結びめを解き、浴衣を肩からはずした。薫は目を閉じ、あやつり人形のように身をゆだねている。全裸にされても、体を軽く�く�の字に折り両の掌《てのひら》を下腹に当てたままでいる。その掌の一つを握って布団に導いた。  啓一郎も浴衣を脱ぎ、並んで横たわる。そして首筋から胸、胸からさらに深い部分へと愛撫《あいぶ》の手を伸ばす。 「お願い……」  同じ言葉がさらに細くもれた。女体はすでにたぎるように熱している。啓一郎は体を起こし、折り重なった。  いくつかの声を聞いた。ア音が糸を引く。「中さん」と呼ぶ。あるいは「好き」と言う。意味の判然としない言葉もあった。 「落ちちゃう」  それが最後だった。それを耳もとで聞きながら啓一郎もふかぶかと官能の闇《やみ》の中へ落ちて行った。  しばらくはそのままの姿勢を続け、丸木舟から転げるように体を返した。  ——また抱いてしまった——  しかし、とても心地よい。抱きあうたびに体がなじんでいくように思う。 「タバコをくださいな」  薫の声が平静に戻っている。 「うん」  まるで背泳ぎでもするみたいに枕《まくら》もとに手を伸ばし、タバコとライターを取った。二人で申しあわせたみたいに煙を吹きあげる。 「私、変なの」 「どうして?」 「このごろ、中さんに抱かれることばっかり考えてんの。いやらしいでしょ」 「べつにいやらしくもないだろ」 「今日だって朝からずっとよ。なにかしてても中さんが頭に浮かんじゃう」 「ふーん」 「中さん、映画好き?」 「昔はよく見たけど、このごろはほとんど見ないな。最近なにを見たかな」 「セックスって映画と似てるでしょ」 「どこが?」 「映画って見なきゃべつに見ないで平気だけど、見だすと毎日でも見たくなるじゃない」 「セックスもそうなのか」 「うん」  タバコを消しながら薫は唇を求めた。  会話は短かった。すぐにまた新しい営みが始まった。 「ずっとこうしていたいの」  薫は布団の下で縄《なわ》をよるように体をからませている。骨までがやわらかい。しなやかに形を変えて男の胸の中に収まっている。啓一郎は手を伸ばして背後から滑らかな湾曲を滑り、妖《あや》しい深みをさぐった。  ヒクン、ヒクン。  二度おののき、さらにこまかい震動をくり返す。女体の欲望はとどまるところを知らないように見えた。歓喜は営みをくり返すうちに、さらに、さらにどこまでも深まって行くように思えた。  どこか仏像に似た法悦の顔つき。それに苦悩のような表情が加わり、いつしかその苦悩もより深い法悦の中へと溶けて行く。 「落ちちゃう」  口ぐせのようにもらす言葉は、初めのうちこそ誇張を含んでいるように聞いたが、次第に強い実感をともなって啓一郎の耳に響く。  もとより薫《かおる》の喜びを啓一郎が感知することはできない。だが、身近に触れ、全身を抱きしめ、表情をながめて声を聞くとき、なにほどかの想像をめぐらすことはできる。薫の脳裏には今なにが映っているのか。  海のように間断なく押し寄せて来る歓喜の波。洗われ、もみしだかれ、体はどこをどうさまよっているのかわからない。平衡を失い、理性を曇らせ、ただ深く、深く、底知れない官能の谷へ落ちて行く。  ——ただごとではない——  わけもなくそう思う。  法子《のりこ》の喜びも深い。だが、薫はそれを凌駕《りようが》している。  ——あんなものじゃない——  啓一郎の受ける快感もただごとではない。  男の喜びなんかたかがしれている。畢竟《ひつきよう》短いものでしかない。さはさりながら、この女体は、だれよりも激しい歓喜を男に運んでくれる。そんな思いが頭を貫く。  落ちて行く……啓一郎自身も歓喜のきわみでそれを感じた。  いくたびかの抱擁で男はすでに限界に近づいている。刺激され、高ぶり、なおも必死に体液を吐く。その瞬間、たしかに�落ちる�と思う。今までにほとんど覚えたことがない落下の感覚だ。平衡を失えば落ちるよりほかにない。死に近づいているのかもしれない、とさえ思う。これはたしかに小さな死なのかもしれない。�落ちる�という感覚には、モラリティも少々参加しているだろう。  良識を逸脱している。  堕落に近づいている。  こんな喜びを知ったら、人はもう溺《おぼ》れて落ちて行くよりほかにない。そんな懸念《けねん》が、肉体の落下する感覚に加わっている。  薫がまた声をあげた。  いつのまにか夜半を過ぎていた。薫はなお、体をからめている。啓一郎は片腕を預けたまま天井のます目をながめている。  ——七かける十五——  などと、ます目の長方形を数えてみた。倦怠感《けんたいかん》が全身を浸している。 「中さん好きよ」 「ああ」 「私のこと好き?」 「好きだ」  薫は時折薄目をあけ、同じ言葉を言う。同じことを尋ねる。 「泊まるつもりか」 「ううん、帰るわ。中さんは泊まるつもりだったの?」 「いや、俺《おれ》も帰る」  だが、すぐには身を起こす気になれない。 「中さんのこと、ずっと好きでいたいわ」 「うん」 「いい?」 「いいだろ」 「冷たいんだからあ」  少女のように汗ばんだ体をぶつける。 「疲れたよ」 「ごめんなさい」  指先が指のはざまをさぐる。短い沈黙のあとで、薫が低い声で告げた。 「結婚しない主義なの?」 「だれ?」 「中さんよ」 「そうでもない」 「でも三十五でしょ。変だわ」 「あんただって……」  言いかけて口をつぐんだ。かすかな狼狽《ろうばい》を覚えた。  ——この人は結婚しているのかどうか—— �かとれあ�に通い始めた頃《ころ》は、あれこれとママの身辺を想像していた。そして、  ——多分いまは独りだろう。でも過去には同棲《どうせい》くらいやっているな——  漠然とそんな結論を描いていた。だが、それ以来、ほとんどこのテーマを考えていない……。 「あたし……?」  薫は言葉をいったん切ってから繋《つな》いだ。 「あるわよ」 「結婚?」 「そう。驚いた?」  意外な気はしない。当然ありうることだ。  ——よかった——  そんな第一感がこみあげて来る。なぜよいのか。それを思うより先に、 「知らなかった?」  と薫が聞く。 「知らなかったけど……そうかなとは思っていた」 「どうして?」 「なんとなく。ご主人は?」 「離婚したのよ」 「なぜ?」 「いろいろとね。やめて、そんな話……。中さん好き」  薫は手を握りながらまた体を寄せて来る。乳房を軽く撫《な》で、 「さあ、出ようか」  足を宙にあげ、弾みをつけて立ちあがった。 「今日はうれしかったわ」  薫はずっと上機嫌でいる。 「店のほうはよかったのかなあ」  他人事《ひとごと》ながら啓一郎のほうが気がかりだ。 「いいわよ。なんとかなるでしょ。もう閉店しているわ」  車を拾い、薫のマンションまで走らせた。 「一人で住んでいるんだろ?」  そんなことさえ知らない。多分そうだろうと勝手に想像していた。だが、それならば、ホテルで会うこともないのかもしれない。 「お母さんがいるの」 「ああ、なるほど」 「もうすぐ引越しするわ。一人でお部屋を借りて。そしたら中さんも遊びに来やすいもんね」 「お母さんはいいのか?」  答えるより先に、 「運転手さん、そこでいいわ。どうもありがとうございました」  ハンドバッグは無事に薫の腕にかかっている。ガラス戸を境にして手を振って別れた。もう終電車は行ってしまった。家までタクシーで行くよりほかにない。  ——このところ経費がかかるなあ——  女性関係というものは、なにはともあれ、お金のかかるものだ。特別に贅沢《ぜいたく》をしたり貢《みつ》いだりしなくても、基礎経費のようなものが必要だ。  ——そのうえ百万円を投入したりして——  どうも釈然としない。けちとはちがう。頭に靄《もや》がかかったみたいにすっきりとしないところがある。  ——結婚の経験があったのか、やっぱり——  さっき、それを聞いて一瞬�よかった�と思った。 �よかった�と考えたのは啓一郎の利己的な判断だったろう。脳味噌《のうみそ》は、自分にとって�得か、損か�とにかく瞬時に判断する能力を持っている。たいした推論もなく、強い根拠もなく、直感的に�よいか、わるいか�反応する。  一度結婚した女が、初婚の男と結ばれるケースはめずらしい。社会通念として女の側の条件が劣っているから。バランスを欠いていると思われるから……。  まして啓一郎は、結婚に適した条件をたくさん備えている。そろった男とそろわない女……。結ばれる可能性は少ない。  ——深い関係になっても薫のほうが遠慮してくれる——  これが�よかった�の理由らしい。 「当てにはならないけれど……」 「お客さん、なにか……?」  運転手が尋ねた。 「いや、べつに」  独り言をつぶやいたようだ。 「ときどきいるんですよ、急に独り言を言うお客さんが」 「驚く?」 「怒ってるような口ぶりのときがあるんですよね」 「そりゃ驚くな」  また少し薫に深入りしてしまった。いつにも増して薫はなれなれしかった。まるで秘密の約束でも結んだみたいに……。  ——少し困るか——  今度は声に出さないよう気をつけた。車が家に着いた。  玄関をあがったところで父と顔をあわせた。闇《やみ》の中に赤々とポインセチアが映っている。この季節はどこへ行ってもこの鉢植えがある。 「遅いな。仕事か」 「ええ、まあ」 「体に気をつけろ」  父は小用にでも起きて来たのだろう。寝巻きの紐《ひも》をしめなおしながら寝室のほうへ行く。 「保子《やすこ》の話、どうなの?」  うしろ姿に声をかけた。  そう尋ねたのは妹の結婚のこと。見合いのまねごとみたいなのをやって、わりとうまく進んでいるらしい。 「うん。今度はいいみたいだな。相談にのってやれ」  父は振りむいて、笑ったように見えた。父の笑顔はかわいらしい。いたずら小僧みたいにほほえむ。家族にまじめな話をするときのくせである。そのまま障子がしまった。よほどの急用でもなければ、家族が立ち話をする時刻ではない。  啓一郎も部屋へ入った。  机の上にエアメールの封筒が置いてある。法子《のりこ》からの手紙。パリには、東京と一味ちがった、本式のクリスマスがやって来るらしい。準備にわく教会の様子が綴《つづ》ってあった。 �……来春、多分、二月の末か三月のはじめに日本に帰ります。今度は少し日時のゆとりがあるでしょう。この前、お話しましたね。私、ヨーロッパのあちこちを旅してますけれど、意外に日本を知りません。あなたも言ってらしたでしょ。四十七の都道府県のうち、いくつ行ったことがあるかって。アムスのホテルで眠れなかったから数えてみました。おかげでよく眠れたわ。なんと、行ったのが三十二。年のわりには少ないわね。だから、今度の帰国では少し北陸を歩いてみようかと思っています。金沢にちょっと仕事がありますので……。まだ寒いでしょうが、日本海のもの悲しさは魅力的です。先日、松本清張の�ゼロの焦点�を読みました。それで、お願い。きっと旅程の中に土曜と日曜を挟みますから、つきあっていただけませんか。なんだかいつもあわただしいランデブーばかりで、このところ中さんとゆっくり過ごすことができませんでした。人生の中で本当にこころよい時間を過ごす機会って、案外少ないような気がします。中さんとよい時間を過ごしたい、これが本当の理由です。日本の各地に行ったことのない県がたくさんあるのは……付録みたいな理由です�  法子と旅に出たのは、いつが最後だったろう。近郊のドライブくらいならともかく、列車に乗る旅は数年前のことだ。飛行機に乗る旅は、まだやったこともない。  ——わるくないな——  啓一郎としても、どれほど法子との絆《きずな》が強いか、その手応《てごた》えを自分自身にたしかめてみたかった。法子は法子で、少しずつ啓一郎と疎遠となっていく気配を、遠い異国の町で感じ取っているのかもしれない。  法子の言っていることは、啓一郎にもたやすく実感できた。  人の一生にはどのくらいの時間が与えられているのか。人間たちはずいぶんいそがしく暮らしているけれど、本当に充実した時間をすごす機会は、思いのほか短いのかもしれない。そのことは自分自身の時間を少し綿密にチェックしてみればすぐにわかる。とりわけ仕事に忠実なサラリーマンたち……。  人は、お金に関しては、あれとこれと、どちらに費やすのが得か、かなり正確な判断を身につけているけれど、時間のほうはそれほどでもない。同じ一時間を……同じ一日をどう使うのが一番自分に得か、いつも正しい判断をくだしているとはとても思えない。  ——あの男——  会社の同僚に、わざわざ年次休暇をとって終日学生時代の友人と麻雀《マージヤン》を楽しむ男がいる。朝、出勤時間に集まって始める。 「馬鹿《ばか》らしい。麻雀なんかいつでもできるだろう」  そんな声も聞こえて来そうだが、現実問題として、古い仲間がゆっくりとくつろげる機会は少ない。学生時代の仲間と、わいわい騒ぎながら旧交をあたためるのは、けっして小さな喜びではない。そういう価値観があっても不思議ではない。  そんな喜びと、たとえばさほど親密でもない人の葬儀に参列するのと、どちらが自分の人生にとって大切なことなのか……。葬儀のために休暇をとる人はいても、麻雀のために休暇をとる人は少ない。  ——行ってみよう——  法子と久しぶりに旅をするのもわるくない。年次休暇は充分にあまっている。土、日を挟めば、三、四日くらいのひまは作れるはずだ。  頭の中の会議場で、 「寺田|麻美《あさみ》さんはよろしいのでしょうか」  野党からささやきがもれたが、それもたいして大きな声ではない。 「田川薫さんは、どうなの」  これは声さえもよく聞こえない。  パジャマに着換えたところで、押し入れの中から青いノートを取り出した。相変らず麻美のところには加えるものがない。薫のほうは……少しある。 �結婚の経験あり。母親と二人暮らし�  もっと大切な特徴がある。はっきり言えば、体の特徴……。薫を考えるときには、まずまっ先にこれが来る。ノートの余白に、 「落ちちゃう」  と、鍵《かぎ》かっこをつけて記した。  薫の口ぐせだが、それ以上に二人の情事の特質を伝えている。身も心も、どこかへ落ちて行くような快楽。花弁の構造についても、思い浮かぶことがあるのだが、これは言葉にするのがむつかしい。淫《みだ》らすぎて、抑制力が働いてしまう。頭で思っても書くのは大変だ。なかば以上感覚の世界に属することだし……。  啓一郎はノートを閉じ�園芸大図鑑�を取って�ポインセチア�の項を読んだ。  十二月の営業マンはいそがしい。仕事もあわただしいが、毎日のように忘年会や忘年会もどきがある。時間を大切に使うという点から言えば、そう足繁《あししげ》く出席する必要があるのかどうか……。  麻美にも何度か電話をかけたが、編集者も年の瀬が近づくといそがしい。都合のいい夜が、うまく重ならない。 「今年は駄目《だめ》なのかしら」 「押しせまってから、どうかな」 「ええ……。神様が反対しているみたいね」  電話口の麻美は、とても愛想がいい。気を引くような台詞《せりふ》を、気を引くような口調で言う。身についたコケットリイなのだろう。 「このままじゃ年が越せないよ」 「本当ね。いつがいいのかしら。三十日からはスキーに行きますの」 「会社の人たちと?」 「ううん。学生の頃のお友だちと……苗場《なえば》に」  はっきりした約束が結べない。こんな状態だから啓一郎はつい、つい�かとれあ�へ足を運んでしまう。酔ってしまうと抑制心が鈍る。女を抱きたくなる。おいしいご馳走《ちそう》を前に置かれて手を出さないのはむつかしい。 「クリスマスの贈り物をしようか」  情事のあとで、なにげなく啓一郎は薫につぶやいた。麻美にはバックスキンの手袋を贈った。薫にもなにか……そんな気持ちがあった。 「うれしい」  薫は身を跳ね起こし、拝むようにして言う。反応の大きさに啓一郎のほうが驚いた。 「なにがほしい」  もう引っこみがつかない。 「あのね……」 「うん?」 「正直に言っていい?」 「高いものはあげられないぞ」 「そう? でも……」 「なんだ」 「お家賃がほしいの。言わなかったけど、新しいマンションに移ったのよ。遊びにいらして」  そんなクリスマス・プレゼントがあるものか。 「それは、ちょっと……」 「駄目?」 「いくらなんだ?」 「七万円なの」  薫はさほどわるびれる様子もなく言う。口調から察して「毎月出してほしい」と言っているようにも聞こえる。きっとそうだ。 「サラリーマンが出せる金額じゃない」 「半分だけでも……」  今度はしょんぼりと言う。 「お母さんは? 一緒に住んでいたんだろ」 「今度はべつべつ」 「なんで? 一緒のほうが便利なんじゃないのか」 「いろいろうるさいのよ。お母さんもそのほうがいいって言うし。前のマンションはどの道出なくちゃいけなかったの」 「ふーん」  誘われるままに新しいマンションにも立ち寄った。1LDK。ここにもポインセチア。クリスマス・イブにはその下で抱きあってしまった。  一方、麻美とは、ほんの一度だけ丸の内のホテルで昼食をとって別れた。進展のあろうはずもない。 「来年はもう少し仲よくしたい」 「ええ。本当に」  目の中をのぞくと、真剣そうな色あいがパチンと飛んで来る。  ——ただのリップ・サービスじゃないな——  それだけが収穫だった。  薫のほうは年末年始を母親と一緒にすごすらしい。啓一郎にはなんの予定もない。笹田三彦《ささだみつひこ》に電話をすると、 「じゃあ一日だけつきあってやろう。俺の新しい車、まだ見てないだろ」 「いつ買った?」 「一カ月前」 「じゃあ乗せてくれ」 「いいよ」  三十日の朝、品川の駅前で待ち合わせ、房総半島の先端まで気ままなドライブに出かけた。新車はモス・グリーンの国産車。どこの金持ちが乗るのかと思うほど瀟洒《しようしや》なスタイルだ。 「やるじゃない」 「まあな。運転する?」 「いや。しばらくは見学するよ」  川崎に出てフェリーで木更津まで。頭の上をしきりに飛行機が飛んで行く。身をどんどん縮めながら旋回して雲の中に隠れる。目を海に落とした。東京湾はずいぶんきれいになったと言われているけれど、まだ海らしい海とは言えない。なによりも潮の匂《にお》いがない。 「地図で見ると、たいしたことないんだがなあ」  笹田が甲板に立って感慨深そうに叫ぶ。陽《ひ》ざしは強いが、風はやはり冷たい。 「なにが?」 「東京湾の一番細いあたりに土手を作って、中の水を外に掻《か》きだして……相当にでかい土地ができるんだがね」 「堤防を造るのも大変だけど、中の水を掻きだすのに何十年かかるか」 「ポンプをずうっと並べて……。そのくらいのことをやらんと、もう土地はないぜ」 「海の中のほうが研究が進んでいないんだよな、空より」 「そうらしい。空のほうは人工衛星が飛んでるもん。海の底は圧力がかかるから大変なんだ」  木更津港で降り一二七号線を南へ下った。君津から富津《ふつつ》へと少しずつ鄙《ひな》びた風景に変る。内房《うちぼう》線の線路を越えると、海がところどころ右手に見える。 「タイへ行った帰り道、香港《ホンコン》で女性と知りあった」  途中で運転を換わった。啓一郎はハンドルを握りながら、まっ正面を向いて告げた。 「ほう」 「無理にホテルに泊められただろ。二人でなんにも知らない町を歩いて、それから車でビクトリア・ピークへ行ったんだ」 「いいじゃないか」 「ただそれだけよ。わりと感じのいい人だから東京へ帰ってからもつきあっているんだ」 「なるほど。それが今の本命か」  うちあけ話と知って笹田がステレオの音量をさげた。 「そうでもないんだなあ、これが。香港じゃムードもよかったから結構親しくなれたんだけど、東京に戻ってからは、なんとなくむこうが避けてるような感じなんだな」 「まずいじゃないか」 「まずい、まずい。避けてるのとも少しちがうな。ただトントン拍子にいかないんだ。十月末に帰って来てまだ二度しか飯を食ってない」 「なにをする人?」 「雑誌記者。婦人雑誌だ」 「いくつ?」 「三十一歳」  しばらくは同じような風景の続く道を走りながら、麻美《あさみ》について啓一郎が知っている知識を、かいつまんで伝えた。 「美人だな、きっと」 「うん、まあ。わるいほうじゃない」 「千倉《ちくら》さんとどっちだ?」 「顔だけなら、こっちが上かな、好みはあろうけど」  少々ぼかして答えた。趣味のちがいはあるにしても、造形的には麻美のほうが法子《のりこ》より美しい。それが普通の審美眼というものだろう。 「顔だけってのは……体がちがうのか」 「そうじゃない。性格とか雰囲気とか、それを加算すると、べつな考えもあるだろうってことよ」 「なるほどね。感じ、わかるような気がする」 「そう?」 「ああ。彼女のほうも困っているのかもしれんね。相当の美人らしいから相手がまるでいないってことはないと思うよ。社交的な職業だしな。中座啓一郎さんも一応候補の中に入っているだろうけど、この人、ちょっと煮えきらないところがあるからな」 「俺《おれ》、煮えきらないかなあ」 「驚いた。自覚症状がないのか。第一、あんた、恋愛と結婚と、べつなもんだと考えてるだろ」 「そうでもない。連続していると思ってる」 「中座が考えてること、俺はわかるよ。俺はな。あんたは初めっから恋愛と結婚がきっかり続いてるもんだと考えるのが厭《いや》なんだろ。いくつかの恋愛がある。その中から結婚に育っていくのがある。そういう図柄なんだ、中座の頭の中は」 「まあ、そうだ。現実がそうじゃないか」 「とも言える。結果のほうから見れば、そんなところだな。しかし当事者は、もっと恋愛から結婚まで一直線に考えるものなんだよ。それが普通だ。とくに女性の三十一歳。いくら美人でもそうゆとりはない」 「それはわかるけど……」 「もっと結婚が匂《にお》って来るような、そういう台詞《せりふ》がなきゃ駄目なんだ。そばで聞いていたわけじゃないからわからんけど、中座は恋愛だけをしようとしている。あんたの心の中じゃその先に結婚があるんだろうけど、聞いてるほうは恋愛しか聞こえて来ない」  思い当たるふしがないでもない。  富津《ふつつ》を過ぎ、国道を曲がって岬《みさき》に出た。対岸は三浦半島だろうか。曇り空の下にうっすらと低い陸地が続いている。海もここまで来ると透明度を増し、潮の匂いも薫《かお》って来る。近くから久里浜《くりはま》へ行くフェリーが出ているらしい。背後には山が迫っている。けっして高くはないが、けわしい勾配《こうばい》が荒い山肌をさらしている。 「もう帰るか。こんな景色がずっと続くだけだろ」  なにか目的があってここへ来たわけではない。笹田と話すのが目的だった。 「よかろう」  笹田がハンドルを握った。国道へ戻ったところで、 「あの人、どうした?」 「だれ?」 「会社の女性がいただろ」  過去に知りあった女性のことは、たいてい笹田に話してある。全貌《ぜんぼう》はともかく、ほんの一端くらいは語ってある。 「ああ、あれは終わった。ふられちゃったよ。ずいぶん前の話じゃないか」 「ほかにもあるんだろ、進行中のやつが」 「うーん、ほんの気配くらいな」  薫《かおる》のことは話しにくい。金を貸したことなど、ますます話しにくい。だが、それを話さなければ相談する意味がない。  ——どう話そうか——  迷っているうちに笹田がまた珍説を述べる。 「男性から見て、女性は絵画鑑賞なんだ。女性から見て、男性は音楽鑑賞なんだ」  ハンドルを�ハ�の字に支えたまま笹田はひとりで頷《うなず》いている。 「新しい学説か」 「そう。絵ってものは、部屋の中にいくつ飾ってあってもかまわない。美術館へいってみろ。ピカソもあればユトリロもある。青木|繁《しげる》もあれば光琳《こうりん》もある」 「変な美術館だな」 「たとえばの話よ。いろんな絵がいくつあってもかまわん。同時に鑑賞ができるんだ」 「うん?」 「しかし音楽会のほうは、そうはいかん。第九を聞きながら同時にレゲエってわけにはいかん。シャンソンと演歌を一つの部屋で聞くわけにはいかん。一度に一つしか鑑賞できないものなんだ、音楽は」  男は一度に複数の女性と親しくなることができるけれど、女は一人の男しか相手にできない、と、中身は古くさいが比喩《ひゆ》としてはおもしろい。 「学校の先生がそんなこと言っていいのかよお」 「しかしこれは真理だ。ガリレオこのかた数学者は真理を重んじなくちゃいかんからな」 「なるほど。しかし、本当の真理かなあ。このごろは大分変って来てんじゃないの? 女性の中にも絵画的男性鑑賞をしたい人、きっといるよ」 「そりゃ、そうだ。モラルってやつは、どんなふうにでも変るからな」  笹田とは、いくら話していても話がつきることがない。往路よりも復路のほうがずっと短く感じられた。海はすでに暮れ、東京湾は巨大な首飾りのように無数の光を環状に連ねていた。 「毎年、年の瀬が来るんだよなあ」  笹田がフェリーの甲板から水の面を見ながらつぶやく。舳先《へさき》に立つ白い波は艫《とも》のあたりでつぎつぎに黒い海に消え、いく筋もの軌跡がうすあかりの中に流れていく。 「まったくだ。七十回くらいくり返して死ぬ」 「半分は来たな」 「まあ、そんなとこだ」 「今年はいいこと、あったか」 「ないな。妹たちが毎年わが家の五大ニュースを考える。今年はなにもなくて苦労していた」 「なるほど。五大ニュースか。俺んちはあったぞ。娘が入学した。女房《にようぼう》が大騒ぎをして車の免許を取った。ばあさんが死んだ。新車を買った。そのくらいか……。宝くじで一万円あたったし」 「盛りだくさんじゃないか。うちは雨もりを修理した以外なにもない。まったく四人も家族がいて、なにをしてんのかわからん」 「水面下に隠れているんだろ。来年あたりドカン、ドカンと表われる。中座はともかく、保子《やすこ》さんあたり……」 「結婚?」 「そう。あるかもしれんだろ」  空のどこかから音が聞こえ、それがたちまち轟音《ごうおん》に変る。赤い火矢が中空をよぎり、低い闇《やみ》に滑って消える。工場地帯の光の中に暗く広がっているのが羽田空港の滑走路だろう。  船が着き、笹田が運転席にすわった。 「腹が減ったな」 「知ってる店あるか」 「ない。しかし、なんか食おう」  車を止めやすそうな鮨屋《すしや》を見つけて立ち寄った。 「飲むか」 「やめておこう。少し飲むのはかえってわるい」  車は便利な乗物だが、酒飲みには不自由なところもある。笹田と会って飲まないのはめずらしい。店のすみに新しい熊手《くまで》が飾ってある。年の瀬の客は、みんなあわただしい。中座たちも胃の腑《ふ》を軽く満たす程度で店を出た。今度は中座がハンドルを握った。 「いいだろ、新車は」 「うん。俺んちも新しくするかなあ」  そうつぶやいたとたんに啓一郎は、薫に貸した金のことを思い出した。車の頭金くらいには充分になる金額だ。  ——笹田に話そうか——  今日、笹田を誘ったのは、薫のことを話してみよう、と、そんな気持ちがあったからだろう。  だが、なにを話すのか。いくら親しい友人でも話しにくいことがある。薫とはこれからどうなる関係なのか、わからない。まだ宙ぶらりんの状態。金を貸したことを話せば、笹田に笑われそうだ。薫の体の特徴は……車の中で急に話す話題でもない。 「情事の値段ってのは、平均いくらだろう?」  赤信号で車を止め、啓一郎はふっと頭に浮かんだ疑問を投げかけた。 「なんだ、そりゃ」  笹田は下唇をつき出したが、すぐに質問の意味をさとったらしい。 「中座のほうがくわしいのとちがうか」 「そうでもない」 「靴一足と同じって説もあるけど。週刊誌に出てるんじゃないのか、川崎あたりの相場が」 「いや、そうじゃない。親しい女に�金をくれ�って言われたら、どのくらいが相場かなって……」 「むつかしいよ。俺に聞かれたって困るけど……千差万別だろう。そう、思い出した。アメリカのコラムニストが書いていた。近年、一番高いのは、オナシスがジャクリーヌに払った分じゃないかって……。そう何度もベッドをともにしたわけじゃないし」 「あれ、遺産はちゃんともらったんだっけ?」 「忘れた。ゼロってことはないだろう」 「まあな」 「この道に相場なんか、ないさ。高いのは高い。安いのは安い」 「社長から一千万円をふんだくっている銀座のママが、バーテンとただで寝ていたりして」 「そう。神様も考えているよ。男と女って、そこがいいんじゃないの。ほかのこととちがって定価がわからん」 「うん」  こんな話を女たちが聞いたらどう思うのか。たちまち眉《まゆ》をひそめられそうなテーマだが、男はきっと考える。情事の経済学はまだだれも書いていない。 「どこかで出版してくれればいいんだけどな」 「なにを」 「情事の経済学」 「中座が自分でやればいいじゃないのか。経済学は専門だし、サラリーマンをやりながら論文を書いてる人、このごろ結構多いらしいぞ」 「学説は笹田にまかせるよ」 「いや、それはわるいテーマじゃない。大学に残った友だちもいるんだろ。教えてやればいいんじゃないか」 「ああ。同級会でもあったらな」  馬鹿《ばか》らしい話を交わしているうちに道は中原街道と交わり、五反田駅に近づく。 「俺、電車で渋谷《しぶや》に出て帰るわ」 「あ、そう。じゃあ、駅のそばで換わろう」 「うん」  ガードを抜け、信号の手前でブレーキを引いた。笹田も車を降りた。 「なにか話があったんじゃないのか」 「なくもないけど、まあ、いいよ。この次にする」 「女難の相が出てるぞ。来年はニュースがいろいろあったりしてな」 「うん、うん」  啓一郎は大仰に首を振って頷いた。 「じゃ、よいお年を。今年はもう会えんだろ」 「そりゃ会えんな。よいお年を」  信号が変るのを見て啓一郎は横断歩道を走った。  年末年始、中座家の行事はここ数年ほとんど変っていない。大晦日《おおみそか》にはぶりを食べる。テレビで歌合戦を見る。夜更《よふ》けて年越しそばが届く。 「なんだかこの頃《ごろ》、鐘が聞こえなくなったんじゃない?」  十二時になると、保子が窓を開けた。たしかに以前は冷たい夜をぬって空耳のような遠い鐘の音が聞こえて来た。それが大晦日の風情《ふぜい》だった。あちこちにビルが建ち、音の伝播《でんぱ》がままならなくなったのだろう。  元日には十時頃をめどに食卓に集まって屠蘇《とそ》をくむ。このときだけ使う漆器の盃《さかずき》。父がおもむろに酒を注《つ》ぎ、 「いや、おめでとう。今年も元気でな」  少しはにかむように告げ、 「おめでとうございます」  と一同で挨拶《あいさつ》をする。  料理は、暮のうちに知りあいの割烹店《かつぽうてん》に作らせたもの。実質本位で、味もよい。  父は普段と変らない作務衣《さむえ》を着ている。保子も、ひろみも、せいぜいちょっと新しめのセーターやカーデガンを着る程度。啓一郎自身も日頃の服装と変らない。 「いいことがあるかな、今年は」  父は朝の酒で頬《ほお》が赤くほてっている。ひろみの視線が大げさに保子のほうへ走る。 「どうかしら」  保子は笑っている。 「早く連れてらっしゃいよ、うちに。見てあげるから」 「そうね。お正月が終わったら……」  相手はまじめなエンジニアらしい。年は三十歳。ちょうどいい年齢だろう。 「書類の上じゃ申し分のない人だが、結婚は相性だからな」  父の目がジロンと保子を見る。 「お父さんはいいんでしょ、保子がうちを出ても」  保子のために、ひとことそれを尋ねておいてやりたい。娘たちがいなくなるのは、父にとってきっとさびしいことにちがいない。 「ああ、いいとも。どんどんやってくれ」  目のはしでうかがったが、父の表情は少しも変らない。父はすでに娘たちが嫁いでいったあとの風景を心の中にきっかりと描いているのかもしれない。 「お兄ちゃんも早くやってよ。どっか体か頭か、わるいんじゃないかと思われるわよ」 「ああ、そのうちにな」 「結婚式って、一度火事にあったくらい大変て言うじゃない。一年に二度火事にあううちって、めずらしいわねえ」  その可能性もある。  保子が年賀状を取って来てテーブルの上に四つの山を作った。父の山が一番高い。しかし、年ごとに啓一郎が差をちぢめる。  啓一郎の山の中には麻美からの一枚があった。金と銀とを散らし墨書が美しい。�今年もどうぞよろしく�とそえてある。  午後には、ほろ酔い加減でナポレオン・ゲームに興じた。これも昔から続いている中座家の行事である。  ——来年の正月はどうなっているか——  啓一郎はトランプを掌《てのひら》に広げながら保子の位置に麻美を置いてみた。  新年はいつも風のように走り去って行く。子どもの頃は、もう少し楽しいものだったが、いったいあれはなにがあんなに楽しかったのか。  啓一郎は、三日に学生時代の恩師の家を訪ね、五日にはそこで顔をあわせた仲間に誘われて遅くまで麻雀《マージヤン》をやった。  休暇は終わり、出勤して、 「おめでとうございます」 「今年もよろしく」  軽く茶碗酒《ちやわんざけ》で口を潤すと、いつもと同じ一年が始まる。  商社マンが挨拶にやって来る。こっちも時間を作って得意先に顔を出す。本当の落ち着きを取り戻すのは十日を過ぎてからである。  出勤して二日目に麻美に連絡をとった。 「今年はもっとたくさん会いたいなあ」 「ええ……そうね」 「近日中に、ぜひ」  と迫る。 「すごいのね」  電話口から笑いがこぼれて来る。 「今日か、明日か」  ひるんではいけない。ゆるめてはいけない。 「困ったわ。年の始めって初釜《はつがま》なんかがあって、結構いそがしいの。野暮ね。いつもいそがしがってばっかりいて……。どうしようかしら」 「短い時間でもかまわない」 「あの、仕事がらみでもいいですか」 「お茶ですか」  初釜というのは、よくわからないけれど、語感から察して新年はじめておこなう茶会かなにかだろう。啓一郎はこの道にとんと心得がない。茶会に誘われても困ってしまう。 「そうじゃないの。ちょっと見て勉強しておきたいことがあるの」 「なんですか」 「とても子どもっぽいんだけど……。中座さんは、お星様に強い?」 「お星様?」 「そう。星座とか、ハレー彗星《すいせい》とか」 「あんまり強くない。子どもの頃少し読んだかなあ」 「今度うちの雑誌で、星とギリシア神話の連載が始まって……あの、よろしいんですか、こんなお話して」 「いいですよ」 「私、そのページの担当にはなったんだけど、なんにも知らなくて。そうしたら渋谷のプラネタリウムで、今�星座とギリシア神話�をやっているの。明日の夜は、どうしてもそれを見ておかないと困るの。そのあとはあきますから……。ご一緒にいかがですか、童心にかえって。ご無理なら、私一人で見て、そのあとお目にかかるのでもよろしいんですけど」  プラネタリウムなんか、もう何年見てないだろう。ずいぶん遠い記憶だが、わるい印象はない。とても美しかった。 「いいですよ。何時から?」 「六時から。無理かしら。早過ぎるわね」 「いや、行けますよ」  切符売り場の前で待ちあわせる約束をした。  五時半前に仕事を終え、渋谷まで急いだ。エレベーターを降りると、麻美が入口のところで手招きをしている。 「ごめん。ぎりぎりだね」 「遅れると中に入れてもらえないの」  係員にせかされ、客席が円型に並ぶホールへ入った。すぐに場内が暗くなる。椅子《いす》は背が長く、寄りかかると首が天井を向く。半球型の天蓋《てんがい》がうっすらと明るい。 「これは、このビルの屋上から見た東京の空です。まっ暗になる前に方角をよくたしかめ、おぼえておいてください」  場内に解説者の声が流れた。  地平線にそって、富士山や東京タワーや新宿の高層ビル街が黒いシルエットを並べている。それがこのビルの屋上から見える風景なのだろう。もし障害物がなにもなく、空気が澄みきっていれば、の話だが……。 「太陽が沈み、だんだん夜になります」  頭上の半球は、急速にあかりを失い、かわって不思議な花が咲くようにサッと満天の星が映った。 「きれい」  麻美が声をあげる。 「すごい」  文字通り降る星のように輝いている。現実には、これほど鮮明な星空を見たことはあるまい。  啓一郎は冬の富良野《ふらの》で、一度目を射ぬかれるほどみごとな星空を見た記憶があるが、それでも星の数はこれほどではなかった。 「肉眼で見える星は、三千五百個くらい。東京ではもちろんのこと、どこへ行ってもこれだけの星空はなかなか見ることができません。もう少し光を弱めてみましょう」  夜空はいっせいに輝きを失い現実に近づいた。 「�杜子春《とししゆん》�て読みました?」  麻美《あさみ》が耳もとでつぶやく。 「芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》だっけ?」 「そう」 「読んだけど忘れた」  啓一郎が懇意にしているコンピュータ・メーカーでは、四十歳になるといっせいに三カ月間の社員研修を課せられるそうだ。業務の勉強だけではなく、文学、美術、音楽、演劇、宗教まである。 「わが社の社員はすこぶる優秀だが、海外に出ると一般教養に欠けるうらみがある」と、会長の命令一下、数年前から始められたものらしい。ありがたいような、少し迷惑のような……。  鉄鋼マンも文化的な教養となると、そう強い自信があるわけではない。とりわけ文学にはうとい。 「仙人が杜子春《とししゆん》を高い山に連れて行くの。よくよく高いところだと見えて、北斗星が茶碗《ちやわん》くらいの大きさで光ってるって……とても感じが出ていたわ」  いくらなんでもこの地球上でそんなに大きくなるはずがない。その膨脹《ぼうちよう》がおもしろい。 「北斗七星はどこだ?」  空を捜しながら麻美の手を握った。手袋のない手。麻美は静かにゆだねる。 「あれかしら」  麻美はもう一つの手をあげて北斗七星のひしゃく型を指さす。 「うん」  アナウンスメントは、カシオペア座を使って北極星を捜す方法を説いている。プラネタリウムは、天空に自由に線を引いたり図案を描いたり……それが重宝だ。  解説を聞いていると、北極星は昔からずっと北の位置を示していたわけではないらしい。夜空も歴史の中で変化している。係員が天を動かしてキリスト生誕の頃《ころ》の夜空を作って見せてくれた。 「大熊座《おおぐまざ》ですよね、北斗七星は?」 「たしかそうだ」 「どこがどう熊なの? わかんないわ」 「まったくだ」  これはだれしもが感ずることだろう。どの星座も、素人《しろうと》がながめて、その名前にふさわしい形状を描くのがむつかしい。太古よほどひまな人たちが、夜通し空をながめて勝手な空想をめぐらしたのだろうか。 「あらっ」  まるで二人の疑問に答えるように夜空いっぱいにさまざまなイメージが広がった。空に新しいあかりがともった。数多《あまた》の星たちの背後に神々や動物の姿がうっすらと写って光っている。これならばわかりやすい。どの星がどんな神や動物を描いているか……。  それにしてもなんと美しい風景だろう。もし本当の夜空がこんなふうに輝くとしたら……。プラネタリウムでなければできない芸当である。 「昔の人は、こんなふうに想像していたのかしら」 「それは無理だろ。ここまできれいに描きだすのは芸術家の仕事だよ。だれでもできるってわけじゃない」  肩を寄せ、小声で答えた。  画像が消え、もとの星座に戻った。かわってアナウンスメントはハレー彗星《すいせい》の話に移る。 「母の話では、うちのおばあさんが夜中に起こされて見たそうよ。とても大きくて気味がわるかったって」 「七十六年周期というのが、いいんだな」 「ええ?」 「人間の一生とほぼ同じだろ。一生に一度しかめぐりあえない」 「この次に来るときは中座さんも私も……」 「確実に死んでいる。俺《おれ》たちの知らない世の中が同じように騒いでいるわけだ」 「おもしろいわね」  話しているうちに終了の時間が来た。明るくなった場内を見まわすと大人の顔もたくさんある。だが、男と女の二人連れはめずらしい。なかなかロマンチックなだし物なのに。  階段を降りた。 「勉強になった?」 「結構すてきですね。毎月見に来るつもり。人工の空を見るために」 「悲しいけど、もう東京には星空がないもんな」 「そうですねえ」  外は一月とは思えないほど暖かい夜である。ネオンに照らされ、スモッグがかかり、ほんの一つか二つ、頼りない星の光が落ちている。  スペイン坂を歩きながら麻美の腕を誘いこみ、ポケットの中で握った。無理に腕を組むと刑事の連行みたいになる。このスタイルには女性の協力がぜひとも必要だ。 「どうする?」 「少し歩きましょうか」 「いいよ。足は強いほう?」 「ええ、華奢《きやしや》に見えるけど、根は丈夫なの。元気じゃないと、この仕事やれないわ」 「どうしてこの仕事を選んだの?」 「初めはOLやってたのね、月並みな……。でも、つまんないでしょ。それで、ちょっとコネクションがあったものだから入れていただいて……。しばらくは雑用ばっかり。カメラマンにこき使われたりして。お茶は昔から少しやっていたし、たまたまお茶の企画があったものだから�私、やります、専門家です�ってなもんね。それから勉強したの。だから本当はたいしたことないわ。でも、なにか特徴がなきゃ、この世界でやっていけないわ」  麻美は首をすくめて笑う。 「わかるよ」  渋谷《しぶや》は不思議な街である。ハチ公前の交差点を渡るあたりは人でいっぱいだ。しばらくは歩道もあふれるほどなのに、いつのまにか人数が少なくなる。さほど大きな脇道《わきみち》があるわけでもない。NHKのビルが見えるあたりまで来ると、むしろさびしいほどだ。  横断歩道を二つ渡って代々木《よよぎ》の室内競技場のほうへ。麻美は軽く肩を預けている。 「香港《ホンコン》の夜を思い出すね」 「本当になんにも知らなかったんですか、香港を」 「本当だ。まかりまちがえば二人とも暴漢に襲われて……」 「こわいところがあるみたいよ」 「そうらしい。よかった、無事で」  合図を送るようにポケットの中の手を握りしめる。麻美もかすかに握りかえす。こそばゆいような喜びを感じながら啓一郎は考える。  ——前にもこんな人がいたなあ——  気分にむらのある人と言ったらよいのだろうか。やけに親しいときがある。かと思うと、急に心に防備の壁を張って相手を入れさせない。 「こんなところに階段があるの、知らなかったわ」  室内プール脇の、細い階段をあがって、小高い広場に出た。コンクリート敷き。道のような公園のような……。山手線が真下を走っている。さほど高い位置ではないが、展望がきく。常夜灯が映す三角の光芒《こうぼう》。ところどころにベンチがあって、二人連れがうずくまっていた。ここは恋人たちの空間。 「ずっとあなたのことを考えていましたよ」  啓一郎は、あまり深刻に響かないように軽くつぶやいて、麻美の顔をのぞいた。 「そう」  目がうなずく。淡い光の中でモノクロ映画みたいに美しい。この一瞬のためにいっさいを賭《か》けてもいい、と、そんな気持ちがふつふつと湧《わ》いて来る。啓一郎は尋ねた。 「好きになってもいいですか」  二人が立っているところは室内競技場の屋根に接する高い空地になっていて、端には手すりのようなものが伸びている。  麻美は二、三歩進んで、石の手すりのそばに立った。  ふり返って、 「ずいぶん急ですのね」  と言う。 「いけませんか」  啓一郎は背後に立った。そしてコートの肩に軽く手をかけた。  山手線の車両が、いくつもの窓を光らせて交差する。そのむこうに見える白い瀟洒《しようしや》なビルはなんだろう。麻美は手すりにそって歩き、視線を送るようにして笑い、 「好きな人、いらっしゃるんじゃないかしら」  尋ねた。 「僕ですか」 「そう」 「いない」  啓一郎は闇《やみ》の中で告げた。  幼い頃から嘘《うそ》をつくのがきらいだった。父のしつけのせいもあるが、今では身についた趣味の一つ、そんな気がしないでもない。  ——麻美はなにか知っているのだろうか——  法子《のりこ》のこと、薫《かおる》のこと……。調べれば簡単にわかることだろう。  麻美の仕事は雑誌記者。いくらお茶が専門で、目下のところ星座の欄を担当していても、人間についての調査はジャーナリストの主要な仕事だろう。  ——ちがうな——  質問の背後に根拠があるとは考えにくい。ただなにげなくつぶやいただけ。恋の初めの挨拶《あいさつ》。さぐりを入れてみただけだろう。 「あなたにはいないのですか」  これも啓一郎がめったに言わない台詞《せりふ》だった。 「どう見えます?」  この種の問答は、女のほうが巧《うま》い。というより、男は攻める側、女は守る側。攻めるほうが、ずっとむつかしい。ボロが出やすい。エネルギーをより多く消耗する。  相変らず啓一郎の頭には、場ちがいな連想が走りぬける。  中学校の夏休み。登校日にはいつも�お話の会�があった。校長のアイデアで、先生がそれぞれの教室で、自分の得意な話をする。廊下に演題が貼《は》り出され、生徒は好きな教室を選んで、好きな話を一つだけ聞く。授業とはちがった雑談が聞けて楽しかった。  啓一郎は剣豪の話を聞いた。講師は剣道五段の国語教師だった。 「実際の真剣勝負は、小説みたいにはいかない。一人|斬《き》るだけでも大変だ。よほど腕に差がなきゃ、斬り倒せない。そのかわり自分の身を守るだけなら、普通に修行すればだれでもできる。斬るのと、斬られないように守るだけなのと、これはまるでちがう」  子どもの心にもよほど強く響くものがあったのだろう。今でも啓一郎はよくおぼえている。  同じ力学が男女のあいだにも作用しているらしい。女は男に攻めこませ、ほどよくあしらう。守りの術はよく心得ている。攻めるのは、守るのよりずっとむつかしい。 「どう見えるかって聞かれても……わからない。そういうことに関係なく、僕はあなたがすばらしい人だと思っているわけ。それはいいでしょ」 「強引なのね」 「そう」 「どこがそんなにすばらしいんですか」  さあ、言ってくださいとばかりに、麻美は二、三歩進んでふり返り、両手を腰のあたりで広げた。 「とてもノーブルで……キラキラしていて。香港で初めて会ったときからずっと�すてきな人だな�と思っていた。女らしい心づかいがあるし」  もっと迫力のある言葉はないものか。 「私、わがままよ。強情っぱりだし」 「だれでも少しはそういう面があるでしょう。特に仕事をやっていれば。そうでなきゃ潰《つぶ》されちゃう」 「ええ……」  麻美は背を向けてゆっくりと足を運ぶ。啓一郎が追いつき、肩を並べる。腕を取った。掌《て》を握った。 「それに、臆病《おくびよう》だし」 「そうなんですか」 「そうよ」  麻美は腕をゆだねたまま首だけそらし、なにか考えている。ベンチの二人連れは顔を重ねたまま動かない。啓一郎も、麻美も視線をそらして歩く。 「好きになれるみたい」  と麻美がつぶやいた。たしかにそう聞こえた。 「そう?」 「でも、わかんない。あんまり速く歩かないでくださいな」  二人はけっして速く歩いてはいなかった。これ以上あゆみをゆるめたら止まるしかない。 「ウイスキーのCMにあったでしょう。�ぼくらには、きっと時間がかかります�とか……」 「ああ、そう」  そのCMは思い出せなかったが、麻美の言うことはわかった。「速く歩かないでくださいな」は、歩行速度のことではないらしい。  ——それはかまわない——  啓一郎としてもそう急にはっきりした答えがほしいわけではない。ただ香港ではたまたまああなってしまったが、これから先も親しくしていこうと麻美が考えているのかどうか、それだけは確かめておきたかった。香港から帰って、なかなか会えなかった事情を考えて、  ——麻美はあんまり乗り気じゃないらしい——  と訝《いぶか》っていた。そう思いながらも、もう一方で、  ——女は無駄なことはしないものだ——  という信念めいたものを啓一郎は持っている。男はさして好きでもない女相手でも電話をかけたり、一緒に食事をしたりするけれど、女は、まあ、あまりこういうことはしない。麻美がいそがしい最中でも、とにかくつきあってくれたのは、好意のしるしだろう。それにわざわざ�園芸大図鑑�まで送ってくれたではないか。  啓一郎は、ぎこちない動作で近づいて麻美の肩を抱いた。  しかし麻美は目を伏せている。肩をさらに抱き寄せたが、麻美は首を垂れている。  ——どうしよう——  ちょっとおでこの額……。  麻美が目をあげた。その瞬間をとらえて啓一郎は顔を近づけた。唇を重ねた。花弁にそっと触れるように。麻美の唇は閉じている。閉じたままためらうように触れさせている。それから、  ——このままではわるいわ——  とばかりに唇が細く開いた。すかさず啓一郎の腕に力が加わり、堅い抱擁に変った。 「苦しいわ」  顔を離し、笑いながら言う。 「ごめん」 「寒いわね」  一月にしてはずいぶん暖かい夜だが、やはり長く戸外にいては冷えてしまう。麻美は頬《ほお》に両手をそえ、歩くともなく足を運ぶ。その方向には原宿《はらじゆく》がある。啓一郎も冷えていた。レストランかコーヒー・ショップに立ち寄って体を温めよう。少し休もう。二人はすでにかなり長い距離を歩いていた。  麻美は石畳を踏みながら、 「中座さんは何型ですか、血液型?」 「O型」 「ああ、やっぱり」 「O型の特徴はなに?」  このごろは血液型の話をよく聞く。女性と話すときには、これを知らないと主要な話題が一つ減る。上手投げのない相撲取り。フォークボールのない投手……。男性の中にも本気で血液型の解説をする人がいる。啓一郎はほとんど信じていない。 「堅実で、理性的で、だれともよくつきあうけれど、深いところではエゴイストなの」  当たっている。 「なるほど。あなたは?」  もう一度麻美の手をポケットの中へ誘った。 「私もO型。でも男と女は少しちがうでしょ」 「どうちがう?」 「男の人は理知的な面がお仕事なんかにプラスに作用するのね。でも女は冷たい性格になりやすいわ」 「冷たい、あなたは?」 「どうかしら。わかんない」  競技場の広場を通り抜け、右に曲がって原宿の繁華街へと足を進めた。 「昔は、なんにもなかったところなのになあ」  ここから青山通りまでは、この十年ばかりのうちに急速に垢《あか》ぬけた街だ。 「東京生まれですか」  と麻美が聞く。 「そう。東京生まれの東京育ち」 「すぐわかります」 「そうかな。どうして?」 「なんとなく」  当たり前のことだが、人それぞれの話しかたにはくせがある。麻美の言葉には「わからない」「どうかしら」「なんとなく」「あなたは?」が多いのではあるまいか。ときどき投げたボールが、少しそれて返って来る。 「食事は?」 「そんなに食べたくないの。中座さんは?」  夕食の時間はいつも不規則だ。べつに今食べなくてもかまわない。 「いいよ。コーヒーでも飲もうか」 「ええ。寒いから」  手を握りしめると、弱い握力が返って来た。  この界隈《かいわい》ではしゃれたコーヒー店にはこと欠かない。煉瓦造《れんがづく》りの地下室へ入った。階段にそってポインセチアの花が並んでいる。猩々木《しようじようぼく》、たしかに図鑑にはそう書いてあった。 「このごろはいろいろ勉強しているんだ」 「なんでしょう?」 「花の勉強」 「ああ、あれ。役に立っていますか」 「おかげで花に少し関心が深くなった。以前は�あ、あるな�って思うくらいだったから。今はたいてい名前を聞く。すぐに忘れっちゃうけど」  コーヒー店の内部は複雑に入り組んでいて、見通しがわるい。恋人たちが集まる店としては、このほうがいいだろう。麻美はメニューを眺めて、 「アイリッシュ・コーヒーなんかいただこうかしら」  と言う。 「どんなやつだっけ」 「ウイスキーの入っているの。ほんの少しだけど」 「僕もそれをもらおう。それから……トーストも」 「アムステルダムで飲んだわ。それが忘れられなくて」 「ほう」 「町を歩いて、ずいぶん疲れて、路地の奥の店に入ったのね。日本でいえばスナック・バーかしら。連れの人がアイリッシュ・コーヒーを注文したから私もまねしたのね。コーヒーとウイスキーとクリームでしょ。みんな強くて、疲れがとれたような気がしたわ」 「へえー」  特別な注文には少し時間がかかった。トーストのほうが先に届いた。 「どう?」 「じゃあ一枚だけ」  アイリッシュ・コーヒーは細いグラスに入っている。グラスの長い足をつまんで口に運んだ。  まず冷たいクリームが口の中で溶け、それからウイスキーを含んだ熱い感触が甘味をともなって広がる。このあたりのコントラストが、きっとこの飲料の味わいなのだろう。 「おいしい。本当に疲れがとれそうだ」 「でしょう。これだけで酔っちゃいそう」  あらためてながめると麻美はワイン・カラーに青を少し混ぜた色調のブラウス。和服のコートみたいなデザインで、襟もとに藍色《あいいろ》のスカーフを巻いている。  若い頃はどんな器量だったのか。笑うと目尻《めじり》にしわが集まるのはこの人の特徴だが、さほどわるい感じにはならない。三十代で美しくなるという顔立ちもあるだろう。唇が少しふくらんで見えるのは、最前の口づけのせいかもしれない。  結局、この夜も麻美とそう遅くまで過ごすことはできなかった。 「ごめんなさい。急に弟が上京して来ちゃって。泊まるだけなんですけど、あんまり遅く帰るわけにもいかないし」 「そう。仕方ない。またちかぢかに……?」 「はい」  その約束があれば、今夜は引きあげたほうがいい。広尾のマンションまで送って別れた。  四《よ》ツ谷《や》へ……と考えたが、  ——やめておこう——  これが節度というものだろう。年が変ってまだ一度も�かとれあ�へは行っていない。薫は三度も会社へ電話をかけてよこした。 「どうしたの? 来て。会いたいわあ」 「うん、近いうちに」 「冷たいのね」 「とにかくいそがしいんだ」 「怒ってるの?」 「べつに。行くよ」 「本当よ。お客さん少ないの」  事実いそがしくて行けなかった。  ——抱きたい——  そう思いながらも気の進まない部分があった。  ——おかしなものだな——  広尾で地下鉄に乗り、恵比寿《えびす》、渋谷、下北沢とまわって家に帰った。  薫《かおる》について言えば、百万円の金が啓一郎の気持ちに微妙な影響を与えている。  ——返って来るかな——  二人の関係が薄くなれば、まず返ってくることはあるまい。月に一、二度くらいは�かとれあ�に顔を出すほうがいい。  とはいえ、逆に気が楽なところもある。良心を痛める必要がない。  ——いざとなれば、あの金をあきらめればいいんだ——  薫のほうがどう考えているかわからないけれど、この先、麻美《あさみ》と親しくなったとしても、少なくとも薫に関しては、一通りの申し訳が立つ。そんな気がする。 「ただいま」 「あら、早いじゃない」  ひろみが廊下に首を出し、うれしそうな顔で立っている。 「どうした?」 「惜しかったわあ」 「なんで?」 「彼が来たのよ。さっき帰ったわ」 「だれ?」 「志野田さん」 「ああ」  このところひんぱんに話題にのぼる名前だ。保子《やすこ》のボーイフレンド。目下結婚の方向にむかって進行中……かな。 「どうだった?」 「まあまあじゃない」 「ひろみがそう言うんなら、わりといいんだろ。親父《おやじ》は?」 「愛想《あいそ》よかったわよ。気に入ったんじゃない?」 「そりゃあいい。親父が見て合格なら俺《おれ》はいいよ。保子は?」 「いい顔しているわよ」 「なるほど」  女はよい恋をしていると、とてもいい顔になってくるものだ。  麻美とは週に一度は会うように努めた。二月に入って、もう一度プラネタリウムにつきあった。ここではハレー彗星《すいせい》の話題がもっぱらだった。 「人工の夜空がよほど気に入ったらしい」 「半分は仕事ですもん。子どもっぽいかしら」 「いいんじゃないかな。ロマンチックだもん」  寒いさなかだから屋外の散策には適していない。食事をしてコーヒーを飲み、時折アルコールを入れる。  ——男と女は、なにをしたらいいのだろうか——  単調なデートが多かった。  会話のはしばしに麻美の過去を聞いた。二十七歳のとき、彼女自身もそのつもりになった縁談があったらしいが、むこうの父親に事情があって破談となり、 「それからは、なんとなく本気になれなかったわ」  それが独りでいる理由だった。 「私、子どもがあんまり好きじゃないの。女の人で赤ちゃんを見ると、異常なほど�かわいい�って連発する人がいるでしょ。私、あれがわかんないのね。変な女なの。だから……子どもはうまく育てられそうもないし、いつ結婚してもいいと思っているのね」  そんな述懐も聞いた。 「あんまり速く歩かないでくださいな」と言ったのは、麻美の本心だったろう。その言葉通りに二人の関係はゆっくりと進んだ。  啓一郎としては�かとれあ�にまったく挨拶《あいさつ》なしというわけにもいかない。薫からは三日に一度くらいのわりで電話がかかって来る。行かなければ会社に訪ねて来たりする。これは少し困る。一度や二度ならともかく、薫がそういう手段に慣れてしまうのが厄介《やつかい》だ。 「困るよ」 「だって来てくれないんだもの」 「いそがしいんだ」 「嘘《うそ》。夜くらいなんとかなるでしょ」  仕方なしに店をのぞくと、ついつい誘われて抱きあってしまう。�落ちてしまう�ほどの快感。これにうちかつのは、生半可な克己心ではむつかしい。酔ったときには余計に我慢がつらいし、薫に会うときはたいてい酔っている。  貸した金の件は、どうなったのか。すぐに返すような話だったが、薫はおくびにも出さない。  ——多分返って来ないだろう——  それならば、もう少し抱きあってもよいのではないか、そんなさもしい気持ちが湧《わ》いて来る。 「あなた、ママと一緒になるんですって?」  薫がいないとき大西とかいう客に尋ねられた。いつかカウンターで言葉を交わした、玩具商《がんぐしよう》の男だ。一緒というのは、結婚のことだろうか。 「いいえ。なぜですか」 「ただちょっと……」  大西はそれ以上なにも言わなかったが、薫自身が言いふらしているふしがある。釈然としない。  二月の末に法子《のりこ》から国際電話がかかり、三月のなかばに能登《のと》の旅へ行く約束をした。 「男は絵画鑑賞か」  笹田《ささだ》が言っていた比喩《ひゆ》を思い出して啓一郎は何度か自嘲気味《じちようぎみ》につぶやいたりした。 [#改ページ]   迎春花  三月なかばの土曜日、啓一郎は羽田空港からトライスター機で小松へたった。  二日前にフランスから帰った法子《のりこ》は一足先に金沢へ飛んで商用をすませ、小松空港のロビーで啓一郎を迎える手はずだった。 「ゆっくりと日本の田舎を旅したいわ。早春の日本海なんか」 「いいね」 「中さんと会っても、いつもあわただしくしているし」 「本当だ」 「一つ、一つ、あんまりこだわらずに楽しそうなこと、やっておきたいと思うの」 「まるで死ぬみたいなこと、言うじゃないか」 「そうねえー。とにかくつきあって」  法子の誘いに啓一郎が応じた。土曜日に出発して火曜日まで。三泊四日の旅である。 「命の洗濯です。人間のいないところへ行って来ます」 「ゴルフか」 「いえ、ちがいます」  課長は口を尖《とが》らせたが、大義名分がなければ休暇がとれないわけではない。遊びのために休む習慣も職場には定着し始めている。  行先は、これも法子の希望で能登《のと》と決まった。法子には、金沢のお客に絵画を何枚か届ける仕事があるようだった。旅のスケジュールもおおむね法子が作った。啓一郎はとりあえず小松にたどりつけば、それでいい。  季節はずれの旅だが、土曜日のせいもあって機内は混《こ》んでいる。啓一郎は通路側の席。隣は東京で研修を終えて帰るサラリーマンの二人連れらしい。 「落ちないかなあ」  窓際の男がふりむいて言ったのは飛行機事故のことだろう。 「大丈夫、落ちない」 「なんで?」 「大臣が乗っている」  空港ロビーで政治家の顔を見たが、この便に乗っているらしい。 「大臣が乗ると落ちないのか」 「うん。今まで日本に何度も飛行機事故があったけど、政治家は一人も死んでいない。大臣はおろか国会議員だっていないぞ。連中は年中飛行機に乗っているのにな。しぶといんだよ。運が強いんだよ」 「ふーん」  相棒は釈然としない様子だが、啓一郎のほうが、  ——なるほどね——  とうなずいた。たしかに政治家の飛行機事故は聞かない。少なくとも大物は一人もいない。年中飛び歩いているはずなのに……。  ただの偶然なのだろうけれど、そのくらいの強運がなければ、やっていけない稼業《かぎよう》なのかもしれない。そう言われれば、そんな気がする。説得力がある。  ゆるゆると地上を走っていた機体が滑走路に入っていったん止まり、急にスピードをあげた。窓の外の風景が飛び、飛翔《ひしよう》の瞬間に地平線がななめに映る。淀《よど》んだ海がさらに角度をゆがめて映り、機体ははっきりと空の中にいた。  ——いい旅になりそうだ——  法子に誘われたときは�それもわるくないな�くらいの気持ちだったが、計画が進むにつれ、期待がふくらんだ。  ——くつろげるのがいい——  麻美《あさみ》との旅なら、もっと喜びが大きいだろうが、気づまりな面もある。薫《かおる》なら……厄介《やつかい》な代償を求められそうだ。屈託が残りそうだ。 「おい、見ろよ」 「うん、本当だ」  左手の窓の下に、まっ白い富士の山頂が見えた。白い傾斜の中に鈍く光っているのは、富士五湖のどれかだろう。  アルプスの上空を飛んで小松まで一時間足らずの飛行距離である。機内サービスの紅茶を飲むころには、もう降下が始まっていた。飛行機はいったん海へ出て、それから滑走路へ。 「またのご搭乗《とうじよう》をお待ちしております」  スチュワーデスの会釈に送られて部厚いドアをくぐり抜けた。通路を速足で歩いて空港のロビーへ出ると法子が手を振っている。 「やあ」 「早かったわね。今、来たところなの。あせっちゃったわ」  法子のあとを追って空港ビルを出た。冷気が体を包む。 「やっぱり寒いね」 「二、三度はちがうのかしら、東京と……。車を借りたの。あれ」  指の先に赤いツードアが止まっている。 「運転してくださいな」 「いいよ。しかし、どこへ行くんだ?」 「道はわりと簡単みたい。車の中で話すわ」  旅の計画はいっさい法子にまかせてある。 「四段ギアか。めずらしい」 「慣れれば、どうってことないわよ。昔はみんなそうだったんだから」 「まあ、そうだな」 「まず鶴来《つるぎ》まで行って、そこでお昼を食べるの。俵屋さんというお店。ぜひって紹介されたの」 「鶴来? どこ。道路地図を見せてくれ」  法子が地図を広げながら、 「ここ」  と指さす。地図にはところどころ赤い丸が印してある。 「金沢へ行くんだろ。ちょっと寄り道になるのかな」 「今日は強行軍よ。金沢は通り抜けるだけ。お昼を食べたあとは、いっきに九十九《つくも》湾まで行っちゃうの。ここよ」  地図を広げ、能登半島の先端から少しさがったあたりをさす。 「行けるかなあ」 「金沢から百五十キロたらずね。シーズン・オフだから道はすいているし……。一応くわしい人に計画をチェックしてもらったわ」 「百五十キロなら、たいしたことないな。とりあえずは八号線を……エート、寺井まで走って鶴来だね」 「そうね」 「八号線に出るには?」 「それは案内するわ。昨日走ったばかりだから」 「じゃあ、出発するよ」  啓一郎がアクセルを踏んだ。  平地にはもうほとんど雪が残っていない。遠い山の斜面だけが淡く刷《は》いたような灰色に染まっている。 「少し欲張りかしら」 「なにが?」 「今度の日程」 「わからん。金沢には何度か来たことがあるけど、能登は俺《おれ》も知らないんだ」 「明日一日で、ずーっと海岸線を走って、輪島に出て、それから和倉温泉まで戻って来るの。ここの能登屋さんが、とてもすごい旅館で、紹介していただいたわ」 「うん」 「最後の日は市内観光。金沢の郊外で一泊。いい?」 「いいよ」 「それからもう一つ。わるかったかしら」  法子の横顔が楽しそうに笑っている。 「なんだ?」 「旅館に泊まるときは、千倉《ちくら》啓一郎さんなの」 「ああ、そうか」  千倉は法子の姓である。そうとでもしなければ二人部屋の予約は取りにくい。 「仕事はすんだ?」 「ええ、無事に」 「なんだったんだ?」 「金沢市内にローランサンを買いたい人がいて……手ごろな品が見つかったものだから」 「豪勢だね。高いんだろ」 「タブローなら高いけど、版画ですから」 「それで何百万?」 「ええ、二百万前後ね。ローランサンはここ十年くらいで倍になったかしら。まだもう少し値上がりしそう」 「なるほど」 「それからルオーの版画もお買いあげいただいて」 「ルオーにも版画があるのか?」 「めずらしいけどね。聖娼婦《せいしようふ》の肖像。ルオーらしい色調で、掘出し物だと思いますよ」 「うまいじゃないか」 「そう。商売だから。でも本当。原則として自信のない品物は売れないわ。店を持っている人とちがって風呂敷《ふろしき》画商は信用が第一ですから。いい仕事をやっていれば、少しずつお客さんが広がっていくし……」 「この道は右でいいのかな」 「そうみたい」  鶴来町に入ってから、タバコ屋の前に車を止めて俵屋の位置を尋ねた。このあたりまで来ると、川土手や木立ちの茂みに雪が点々と薄汚れて残っている。川魚山菜料理と記した門をくぐり抜けた。 「ごめんください」 「はい」  あらかじめ法子が予約をしておいたのだろう。古い造りの玄関。長い廊下を伝って行くと、庭に面した部屋が温めてあった。いろりには炭が燃えている。 「いらっしゃいませ」  ひとくちほどの和菓子が出て、続いて薄茶が運ばれて来た。  法子が褐色《かつしよく》の茶碗《ちやわん》を掌《てのひら》に包んで型通りに薄茶を飲み干した。 「いいわね」 「うん」  床の間には、まっ黄色い、可憐《かれん》な花が一輪。庭は八割がた雪に埋まって全貌《ぜんぼう》をうかがうことができない。いろりの炭がパチンと弾《は》ねた。 「お飲み物は?」 「いらない。車だから」 「じゃあ、早速お料理をお運びしてよろしいですか」 「お願いします」  ここの料理はコースになっているらしい。テーブルの脇《わき》に、あざやかな墨書で記した献立がそえてある。  珍味、猪口《ちよこ》、五種もり皿とそろったところで、法子が、 「毎日、書くんですね」  と献立をさして尋ねた。 「はい。一枚だけ書いて、あとはコピーですけれど」 「いただいていいのかしら」 「どうぞ」  うるか、あさつきのぬた、しかの味噌煮《みそに》……法子は箸先《はしさき》に載せゆっくりと舌先に運んで味わう。ざるに載せた岩魚《いわな》が届いて、これは仲居が串《くし》を打ち、化粧塩を振っていろりに立てる。 「静かですね。いつもこんななんですか」 「いえ、シーズンになるといっぱいですのよ。時間も少しはずれていますし」  岩魚の骨酒は、口を潤す程度にとどめた。 「久しぶりだわ、こんなの」 「日本にいたって、そう食べやしないよ」 「本当ね」  法子は献立の文字と料理を一つ一つ照らしあわせている。 「これがじぶ煮ね。外国へ行くと、自分が日本のこと、まるで知らないってわかるわ。結構聞かれるのよね。料理もそうだけど、お茶とか、歌舞伎《かぶき》とか。中さんは柔道は駄目でしょ」 「やったこともないよ」 「フランスじゃ柔道ができると尊敬されるわよ」 「そうらしいね」 「さっきのお薄なんかもいいわね。ああいう形で古い文化を支えているわけですから」 「金沢じゃどこへ行っても出るもんな」  話しながら法子が箸置きをつまむ。滑らかな小石に花の模様がかいてある。熊《くま》のしぐれ煮。狸汁《たぬきじる》。 「みんなこのあたりでとれるのかしら」 「ええ、とれます。それは保存しておいたものですけれど」  と仲居が答える。山菜をまぜた御飯を平らげ、献立の最後は青い皿に盛った深紅のいちごだった。 「お勘定をお願いします」 「はい」  仲居が立ったところで、 「ここは俺が持つよ」  と啓一郎が言う。 「今度の旅、無理を言っちゃって……宿代は私が持ちます。そのほうがいいの。ちょっと事情があって」 「うん。俺も楽しみにして来たんだ。じゃあ、それ以外は俺が持つ」  胸をぽんと叩《たた》いてみせた。  金沢市内を通り抜け、一五九号線を北へ向かって走った。途中から能登道路に変って穴水町《あなみずまち》まで。 「思ったより雪が少ないな」 「本当。もう少し多いかと思ったわ」 「うまいタイミングだったかもしれない。人が少ないってのは、旅行を楽しむための、かなり大切な条件だもん。どこへ行っても観光バスだらけじゃ、まいっちゃう。まだ雪が深いだろうと思って、みんな敬遠してんじゃないのか」 「少し季節はずれくらいが一番いいみたい」  途中で運転を換わった。半島を横断する道筋に入ると、とたんに雪の量が増える。車の数も少ない。 「外国の観光地は治安がよくないんだろ。物乞《ものご》いとか、ひったくりとかがいて」 「大きな町はそうね。ローマじゃアメリカ人が出て来るの。本当のアメリカ人かどうかわからないわよ。でも、アメリカの、田舎の好々爺《こうこうや》って感じなのね。日本人だと見ると近づいて来て、話しかけるのね。そう、やっぱり東京ディズニーランドが出てくるみたい。そのうちに意気投合して飲みに行くのよ。一軒目はたしかにおごってくれるんだけど、二軒目がべらぼうな値段なのね。アメリカ人が財布の金を全部出しても、まだ足りない。日本人が出しても足りない。結局、そのアメリカ人が人質にとられちゃうのね。日本人はサ、彼を見捨てるわけにいかないって、ホテルに帰ってお金を作り、わざわざ助けに行くの。みんなグルなのに」 「演技派だね」 「引ったくりもいるし。こんなことでいいのかしらって思っちゃうわね。日本はそれほどでもないでしょ」 「そうひどくはないんじゃないかなあ」  穴水町を抜けるあたりから日が暮れ始めた。わらぶきの屋根が海風にさらされ傾いている。今でこそコンクリートの道路が走っているけれど、昔はどれほど鄙《ひな》びた地域だったろうか。 「�能登のととらく、加賀のかからく�なんですって。昨日、教えてもらったわ」 「なんだ?」 「能登は、女が働き者で、ととが楽をするのね。加賀は男が働き者で、かかが楽をするの」 「へえ、おもしろい。貧しい地方はたいてい女が働き者だよな。加賀は百万石のお膝《ひざ》もとだから、女は優雅にふるまっていたのかもしれない」  海沿いの町に入って、一、二度迷ったが、七時過ぎに九十九湾の寿楽ホテルに着いた。そこが今夜の宿である。  到着が遅かったので簡単に大浴場につかって夕食をとる段取りとなった。 「じゃあ、さよなら」 「あとでまた」  浴場の前で左右に分かれた。  広い男風呂《おとこぶろ》は、だれもいない。宿泊客は夕食をとっている時刻なのだろう。一面のガラス窓は湯気で曇っている。お湯をかけてのぞいてみると、闇《やみ》のむこうに漁船が七、八|隻《せき》もやっていた。浴場の下は崖《がけ》になって海に続き、その海は入江にでもなっているのだろうか。あかりがないので、はっきりとはわからない。  一日の疲れがここちよい。啓一郎は湯船の中で泳ぐ体勢をとってみたが、これは浅すぎてうまくいかない。あおむけになったり、うつぶしてみたり、子どもみたいに遊んでから浴室を出た。浴衣《ゆかた》を着て、羽織をはおった。  廊下に出るとちょうど女風呂のドアが開いた。法子《のりこ》も同じスタイル。髪をかきあげるよう束ねてグリーンのクリップでとめている。小麦色の肌が滑らかだ。 「どうだった?」 「いい湯加減よ」  洗面用具を部屋へ置き、連れだってエレベーターで階下の食堂へ降りた。  地下二階。エレベーターは洞窟《どうくつ》の中に戸を開いた。堅い岩盤をえぐったトンネルをぬけると、調理場と和風の座敷がいくつかあって、一番手前の部屋に二人分の席が用意してあった。部屋の半分は海へせり出している。障子の外に深い海が広がっていた。旅館は岩壁の上に建ち、縦穴を通して海浜と繋《つな》がっているのだろう。 「おもしろい構造だな」 「絵を買ったかたが、いくつか宿を紹介してくださって……ここもその一つなのよ」 「このために掘ったんだろうか」 「どういうこと?」 「先に穴があって、それを利用して旅館を建てたのか、それともわざわざこういう構造にしたのか」  料理を運んで来た女が、 「わざわざ掘ったらしいですよ。海に早く出られるように。三十メートルほど縦に掘って、Tの字をさかさにしたみたいに穴があいてるんです」 「すごいねえ」 「お飲み物は?」 「お酒を飲もうか」 「そうね。熱い日本酒」  啓一郎は指を三本立ててお銚子《ちようし》を頼んだ。魚はふんだんにある。 「なまこが名物らしいのね」 「あ、そう。むこうで暮らしていると、やっぱり日本の食べ物がなつかしくなる?」 「私はそれほどでもないの。日本に帰って来ると、急に食べたくなるけど、むこうにいるときは、べつに、って感じ」 「俺《おれ》は案外駄目かもしれんな。即席めんに随喜の涙を流したりして」 「あれ、結構よくできてるから。パリの安アパートで一人作って食べてると、なかなか味わいのあるものよ」  とりとめのない話を交わしているうちに銚子はからになり、夕食も終わった。  部屋へ戻ると、すでに布団が二つ並べてあった。障子の外に廊下があり、テーブルを挟んで椅子《いす》が二脚置いてある。 「もう少し飲もうか」 「ビール?」  啓一郎が冷蔵庫をのぞいて、 「水割りもできる」 「じゃあ、そのほうがいいみたい」  タンブラーに氷を落とし、ミニボトルのウイスキーを注《つ》いだ。法子は手帳とガイド・ブックと長いパイプを持って廊下の椅子に腰をおろす。 「ありがとう」 「じゃあ、あらためて乾盃《かんぱい》」  グラスを目の高さにあげてから口に運ぶ。 「えーと、明日は八時半出発。いいかしら」 「いいよ」 「海岸線をいっきに走るわ」 「それが目的なんだろ」 「悲しい海が好き。いつまで見ててもあきないわ」 「天気はどうかな」 「さっき宿の人は大丈夫だろうって言ってたけど」 「日本海は夕日がきれいだから」 「日頃《ひごろ》の心がけ次第じゃないのかしら」  上目遣いの視線が飛んで来る。  ——あなた、心がけはよろしいですか——  そう尋ねているみたいに。啓一郎は頬《ほお》で笑ってタバコをくわえた。  心がけ? 昨今はあまりいいとは言えない。なにもかも宙ぶらりんの状態だ。法子はなにを望んでいるのか。テーブルの上のマッチを取った。 「フランスのマッチ?」 「ああ、そうね」  法子も長いパイプをくわえている。 「フランス語で、なんて言うんだっけ? マッチは」 「アリュメット」  ほんの片言でも法子の発音はそれらしく響く。 「そうだった」 「あのね、火をつけることをアリュメって言うの」  視線をななめに落としながらつぶやく。耳よりの話題を言い出すときの法子の癖だった。目も大きいが、まつげも長い。 「うん?」 「そこから派生した女性名詞が、アリュミューズ。火をつける女かしら」 「うん」 「むこうへ行ったばかりの頃、よく�君はアリュミューズだ�って言われたわ」 「どういうこと?」 「しばらくはわかんなくて……お世辞を言われてんだとばかり思ってたわ。なんて言うのかしら。男の人の気を引くような身ぶりをしていながら、いざとなると�ノン�なの」 「なるほど。火をつけておきながら、逃げちゃうわけだ」 「そう、火つけ女」  啓一郎は、この瞬間、ふいに麻美《あさみ》のことを思い出した。麻美こそアリュミューズなのかもしれない。 「今の仕事、おもしろい?」  カーテンを閉じながら啓一郎が尋ねた。どの道、夜の景色は見えない。むしろ光をともした室内はどこかの窓からのぞかれるおそれがある。 「ええ、おもしろい。性にもあってるみたい」 「そう?」 「私って少しやくざなところがあるでしょ。画商とか、呼び屋とか、今、私がやっているような仕事って、ほんの少しまともじゃないところがあるのよね。おもしろい人がいっぱいいるの。初め通訳をやってて、いろんな業界を見たけれど、アートが一番向いているような気がしたわ。中さんは、今の仕事に向いてるの? 鉄なんて堅いんでしょ」 「うーん、寸法が少しきついようなところもあるな。保守的な業界だし、浪花節《なにわぶし》も結構あるしね。ただ俺んちは、親父《おやじ》の影響もあってサ、男は天下国家にかかわる仕事をやるべきだって、そんな感じが少しあったんだよな」 「正論よ。男のやくざ稼業って、私、あんまり好きじゃない。中さんも昼間はせいぜい天下国家に役立つことに励んで……夜は楽しく」 「夜も天下国家のために働かなくちゃいかんときが多いんだ」 「若い人たちは、やっぱりレジャー志向が強いんでしょ」 「三年きざみくらいで意識が変っているよ、俺より年下は。でも、うちなんか、みんな若い連中も頑張ってるほうだね。仕事熱心だよ」 「仕事が楽しいって、やっぱりとても大切なことだと思う」  法子は、煙を吐き、唇をとがらせたままで言う。 「うん」 「フランスなんて、レジャー志向の権化《ごんげ》みたいな国でしょ。中で暮らしていると、人生観が変るくらい遊ぶのが好きよね。みんな遊び上手だし。でも、どうせなら、仕事も楽しい、遊ぶのも上手、そのほうがいいでしょ」 「そりゃそうだ」 「どの道、仕事はやらなくちゃいけないんだし」 「現実問題として、一日二十四時間のうち仕事のために使っている時間て、ものすごく多いよ。眠る時間も六、七時間はいるしなあ」 「そうよ。だから、レジャー志向ってのは少し能率がわるいのね。二十四時間のうち十時間は仕事に使わなくちゃいけないでしょ。その部分が楽しくなくちゃ、損しちゃう」 「儲《もう》かるのか、今の仕事?」 「ええ、まあ。やりようでしょうけど。私はそうわるくないと思うわ」 「いつまでもできるし」 「平和な状態が続いていればね」 「儲かるのはいいよ。儲からなきゃ楽しくない」 「それは言えるわね」 「儲けて、どうする?」 「大きなことができるほど儲かりゃしないわ」 「でも夢くらいあるだろう」 「それはあります。なにかおもしろい美術館を作りたいわね。美術館は無理だけれど、さしあたっては展覧会かしら。オランダにエッシャーの捨てた絵を持っている人がいて……」 「エッシャーって、鳥の模様がだんだん魚になったりする絵だよな」 「そう。画家が気に入らなくて、捨てたものを丹念に整理しておいたらしいのね。エッシャーとか……ルネ・マグリットなんかも、不思議な絵があるでしょ、遊びがあるような」 「知らない」 「あ、そう。ダリなんかも遊びっぽいのがあるわ」 「時計がグニャグニャになっているのとか」 「ええ、それもあるけど�ヴォルテールの見えない胸像の奴隷市《どれいいち》�なんか、見たことありません? 画集かなにかで」 「どんなの?」 「ヴォルテールの胸像と奴隷市が二重になってかかれているの。見ようによってはヴォルテールの胸像だし、見ようによっては奴隷市場の風景だし」 「見たことないな」 「日本でも遊びの博物館とか言って、わりと話題になったんじゃないかしら、二、三年前に」 「そう?」 「いいのよ、知らなくても。天下国家を考えるかたは」  法子は掬《すく》いあげるような表情で笑った。 「そういつも真剣に日本国を考えてるわけじゃない」 「絵の世界には視覚的ないたずらがいっぱいあるじゃない。三次元では絶対にありえない建物を二次元的にかいたものとか」 「だいたいわかるよ。だまし絵とか隠し絵とか、そういうやつだろ」 「そう。それのセンスのいいの。そういうのをいろいろ集めて第一級の遊びの美術展をやってみたいわね」 「むつかしいのかな」 「特にむつかしくはないと思う。でもどんな展示会でも、スポンサーを見つけて作品を捜して、借り出すまで、結構大変なのね。日本の企業も外貨が本当に余っているんなら、こういうことにも使ってほしいわ。企業のイメージ・アップにも役立つと思うわ」 「そのうちにな、俺が万一役員にでもなったら……」 「お願いします」  法子は深々と頭を下げる。  ——こんな話より、もっと大切な話があるはずだが——  啓一郎の胸にそんな懸念がわだかまっているのだが、なにを、どう切り出したらいいのか、わからない。それに、ややこしい話は、旅の最初の夜に話すテーマではないような気もする。明日もある。明後日もある。  ——今夜は、精いっぱいくつろごう——  啓一郎はタバコをもみ消し、夜の闇をうかがうように立ちあがって、カーテンのすきまから外を見た。  夜はさらに闇を増したようだ。 「なにか見えますか」  法子も椅子から立って肩を並べた。 「なにも見えない。まっ黒いカンバスだ」 「本当ね」  声を聞きながら肩を抱いた。  そのまま体をまわして正面から法子の顔を見た。黒い目が光ったが、すぐにまつげの下に隠れた。目の中に欲望のようなものが動いた。そう見えた。  自然に唇が重なった。この唇は、かすかにタバコの匂《にお》いを帯びている。 「疲れただろう?」 「でも、いい気持ち。お風呂に入って、少し酔っちゃって」 「明日は七時起床かな」 「そんなとこね」  だったら早く寝たほうがいい。法子の腕を取り、二つ並んだ布団のほうへ誘った。 「ごめんなさい。ちょっと待って」  スルリと抜けるように身をひるがえして法子は部屋の外へ出て行く。水音が響き、歯を磨《みが》いているらしい。啓一郎は、ポットのお湯を茶碗《ちやわん》に注ぎ、口に含み、ぬるくなるのを待って口の中をすすいだ。  襖《ふすま》が開き、法子が丹前の羽織をたたみながら戻って来た。浴衣の腰がグイと細くしめられていて、女体の細さを伝えている。  啓一郎も羽織を脱いで近づいた。あかりを暗くした。 「会いたかったよ。ときどき思い出した」 「ときどき? そうね。私もそう」  ふたたび唇を重ね、腕を伸ばして法子の帯の結び目をほどいた。帯は輪を作ったまま足もとに落ちる。啓一郎も帯を解く。  浴衣の前を開いて立ったまま胸と胸とをあわせた。香水の匂《にお》いが昇ってくる。堅いししむら……。そう思うのは、やはり薫《かおる》と比較しているからだろう。法子は、しこしこと弾力がある。薫はやわらかく崩れる。  浴衣を脱がせながら手近な布団の中に倒れこんだ。そして啓一郎も自分の浴衣を脱ぐ。かけ布団を引き、体の位置を整え、横むきのまま抱きあった。足を縄のようによじって……。  法子は首を左右に振る。その仕ぐさがあどけない。爪《つめ》を立て、指を噛《か》み、みけんのあたりに苦痛のような表情が見え隠れする。  指先に流れるほどの潤いが触れた。今日一日、法子は頭のどこかでこの瞬間を考えていたのだろうか。車の中でかわした、さりげない会話のさなかにも、女体は少しずつ熟していたのだろうか。  体を上下に重ねた。  女体はみんな少しずつ異なっている。内奥《ないおう》の仕くみさえも……。薫のように、どこがどうなっているのか、わからないような不思議なうごめきはない。法子は体まで明快だ。二つのポイントがある。一つは浅く、一つは深く……。 「中さん」  声が消え、闇が流れ、女体が静まるのを待って啓一郎はもう一つの布団へ入った。  朝食のテーブルには、岩のりとぶり大根が登場して、いかにも田舎の旅らしい。海は細い入江になっている。たくさんの船が碇泊《ていはく》しているところを見ると、狭い海路を抜けて、たやすく外海へ出ることができるのだろう。  簡単に食事を終えて、すぐに出発した。今日一日で能登《のと》半島の先端部を一まわりするスケジュールである。 「この半島はゴジラに似ているねえ」  地図を見ながら啓一郎が言う。 「本当ね。上あごから鼻先に出て、耳のあたりを通り、また下あごのところへ戻って来るのよ」  ハンドルはまず啓一郎が握った。最初の目的地は恋路海岸。 「名前がいいねえ」 「でも、ゆっくり考えてみると、なんだか昔からある名前じゃないみたい、現代的すぎて」 「うーん、そうかな」  道路ぞいに小広い浜が開け、そこが恋路海岸らしいとわかった。付近の旅館やみやげもの店は、みんな�恋路、恋路�と、ロマンチックな名前を借用して店の名にそえている。砂浜に村の漁師と娘の石像があり、遠い悲恋の物語が刻まれていたが、さほどおもしろい話でもない。  それよりも二百メートルほどむこうの海に奇っ怪な岩島があった。見付島《みつけじま》または軍艦島。これだけ特徴のある岩島ならどの旅行案内にもきっと写真が載っているだろう。  浅い海からほとんど垂直に突き出している。岩肌は白く、てっぺんにのみ髪の毛のように草木が繁《しげ》っている。たしかに舳先《へさき》から見た船の姿に似ているが、正面から見ると、巨大なざん切り頭が水面に顔を出しているようにも見える。 「ガリバーが小人国に泳ぎついて水から頭を出したところね」 「なるほど」  その島までは人工的に岩を連ねた細い通路がある。 「行ってみようか」 「ええ。ペタンコの靴を履いて来たから大丈夫」  法子の手を取って岩から岩へと跳んで進んだ。  しかし最後のところは、道が切れ、はだしにならなければ島まで行けそうもない。波は静かだが、それでも油断をしていると、時折大きめのやつが襲って来て、しぶきをあげる。 「いやーン」  法子がスカートを濡《ぬ》らした。  急いで砂浜に戻り、それをしぼりながら海岸を歩いた。 「この石……」  と、つぶやきながら法子が滑らかな小石を拾った。同じような石が貝殻《かいがら》と海岸の中にたくさん散っている。 「なんだ?」 「拾って。これくらいの大きさなの」  と、大きなイヤリングほどのを投げてよこす。 「拾って、どうする?」 「あったでしょ、俵屋さんの箸置《はしお》き」  法子に言われても啓一郎は思い出せない。俵屋は昨日昼食をとった割烹店《かつぽうてん》だが……。 「あそこの箸置き、とてもおもしろいと思ったのよ。自家製みたいで」  そこまで言われて、法子が食卓で目を留めていたのを思い出した。 「ああ、あれか」 「この石にエナメル絵具でかくのね。一つ一つ、すてきな箸置きになるわ」 「作るのか」 「ええ。旅の記念に。あんまり大きいのは駄目よ、お相撲さんの箸置きじゃないんだから」 「あそこのは、花の絵だったな」 「そう、桃の花」 「いや、俺《おれ》のは黄色い花だった」 「ああ、そう」 「床の間にあった花に似ていた」 「どんな花だったかしら」  法子には、その記憶がないらしい。麻美なら、きっと飾りの花を確認し、花の名をつぶやいたのではあるまいか。滑らかな石を十個ほど拾って車に戻った。 「あの島、弘法大師《こうぼうだいし》が佐渡《さど》から能登に渡って来たとき最初に見つけたんですって。それで見付島」  法子が案内書のページをめくりながら説明する。 「しかし、弘法大師ってのは、いろんなことをやってんだよなあ」 「そう?」 「日本中どこへ行っても弘法大師が出て来る。あんこの饅頭《まんじゆう》を発明したのも、いろは歌を考えたのもみんな弘法大師だそうだ」 「あ、そうなの」 「本当かどうかわからない。古くて、わからないのは、みんな弘法大師になるんだ」 「そうみたいね」 「次は?」 「一番先っぽ。禄剛崎《ろつこうざき》ってとこ」 「一番見たいところだろ、そこが。荒れ果てていて、悲しそうで……」 「そうよ。先端からずーっとゴジラの鼻筋のところ」  このあたりまで来て、さらに観光客の姿はまばらになった。舗装はほどこされているが、道幅は狭く、観光バスなどとすれちがうときは厄介《やつかい》だろう。小型車を借りたのは正解だった。  しばらく似たような漁村、似たような海を走った。 「喜兵衛《きへえ》どんがありますけど見ますか」 「なんだ、それ。飯ならまだいいよ」 「馬鹿《ばか》ね。どんぶり物じゃないわよ。旧家で、民俗資料がいっぱい陳列してあるらしいの」 「見たい?」 「海のほうが見たいわ。ゆっくり時間をかけて」 「じゃあ、先を急ごう」 「海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。母よ、フランス人の言葉では、あなたの中に海がある……だれの詩でしたっけ? 三好達治《みよしたつじ》かしら」 「俺はわからんよ」 「メールとメール、フランス語じゃお母さんのほうがEが一つだけ多くて、終わりにつくの。発音は同じで。それくらいはまだ覚えているわね」  MERとMERE。海と母。たしかにフランス語では母の中に海があり、漢字では海の中に母がいる。そう言って言えないこともない。 「ちょっと理くつっぽい詩だな」 「でも海と母って、どこか似ているわ。大きくて、あらゆるものの源で」 「やさしくて、こわくて、包容力があって……か」  しかし啓一郎はそういう母親を知らない。むしろ海のような父親に育てられた。 「保子《やすこ》が結婚しそうなんだが……」 「いいじゃないですか。おたくもにぎやかになって」 「でも、娘の亭主《ていしゆ》ってのは母親が見ると、いいって言うじゃないか」 「そうなんですか。父親の目のほうが確かみたいな気もするけど」 「うん。社会人としてどうかってところを見るのは父親のほうの仕事だろうけど、家庭の人としてどうか、娘を本当に幸福にしてくれるかどうかってことになると、母親のほうがピンと来るんじゃないのかな」 「人によりけりみたい」 「あんたあたりの見るところが、一番正しいんじゃないのか。これは、いい男、これはわるい男って」 「私が? 駄目なんじゃないの」  道のむこうから大きなトラックが肩をゆすってやって来る。いったんバックしてすれちがった。 「さっきの話だけど……」 「うん」 「娘に嫉妬《しつと》する母親ってのもいますから」 「そう?」 「日本人にとっちゃ母親って、絶対的なものでしょ。大勢の中にはわるい母親だっているでしょうけど、なんとなく母親って自己犠牲の権化《ごんげ》みたいに思われているわ」 「うん」 「むこうは、もう少し個人主義が発達しているから、結構娘にやきもちをやくお母さんがいるのね。娘がいい夫をもらうと、不愉快に思ったりして」 「ひどいね」 「でも、日本の社会も、よく観察していると、そういうの、増えてきたみたいよ。子どもたちのほうもあんまり油断できないわ」 「いずれにせよ、親があんまり子どもに期待をかけるのって、よくないんだよな。家計費を節約して子どもだけはいい学校に入れて、親のほうは我慢ばっかりしている。よくあるんだよ、このごろは。お父さんは家に自分の部屋もなければ晩酌《ばんしやく》もできない。子どもは一部屋専有して、塾《じゆく》に行くやら、家庭教師が来るやら……。これ、標準的な日本家庭の姿なんだなあ」 「その子どもが親になって、また同じことをやったりしてね」 「そう。みんなが先へ先へと期待をかけている」  長い防波堤が海をさえぎり、そのむこうに白い波が飛び散っている。いよいよ半島の先端が近づいて来たらしい。 �禄剛崎《ろつこうざき》入口�と記した標識のところで車を止めた。岬《みさき》の先端は小高い丘を登った奥にあるらしい。二人並んで細い道を進んだ。  鳶《とび》が羽を水平に広げて、灰色の空をゆっくりと旋回している。ピーヒョロロと、擬音通りの声で鳴く。 「梅かしら」  かすかに花の香りが飛んで来るが花の姿は見えない。たき火の匂《にお》いが、浅い春を伝えている。  ゴウー。  海の音が聞こえて来た。法子《のりこ》が掌《てのひら》を耳に当て足を速める。音はすぐに大きくなり、道を登りきったところが展望台になっていた。  これまでに見て来た海は、いわば能登《のと》半島にさえぎられた内海である。この禄剛崎を境にして海は外海に変る。そのことは地図を見れば明白だ。 「すてき」  法子が海を見おろす岩壁に走り寄る。啓一郎は足をゆるめ、数歩遅れて断崖《だんがい》にたどりついた。この絶景を法子より先にながめてはなるまい。ほんの数秒でも法子に早く見せるのが、同行者のたしなみだろう。法子の背後に立ち、肩に手をかけ、 「やるもんだねえ」  とりあえず造物主の巧みな手腕をめでた。  三、四十メートルの鋭い断崖。下は長い平らな岩場になっていて、押し寄せる海が白波となって砕けて走る。海の声、波の響き、混然として重い唸《うな》りが轟《とどろ》く。耳を澄ますと、さまざまな音が聞こえる。 「汽車みたい」  と、法子が指をさす。 「なるほど」  遠い岩場で砕けた海は、白い列車のようにそのままツツーと走り寄って来て、岩壁のすそにぶつかり、そして高い飛沫《ひまつ》を散らして消える。  あるいは白い恐竜かもしれない。竜はたちまち海の中から現われ、滑るように走り寄って来る。  視線を伸ばした。  海は百八十度を超える展望で広がっている。灰色の雲が垂れこめ、その下に黒味を帯びた水平線が横一線に伸びて視界を上下に切っていた。いつまでながめていても飽きることがない。  岩壁にそって歩いた。感動を伝えあうように手を握りながら。 「あれもおもしろいわね」 「どれ?」 「あの岩」  沖に人間がすわったような岩がつき出している。その岩に背後から波がぶつかる。とたんに肩口からドッと白波が溢《あふ》れ落ち、岩は白い衣裳《いしよう》を着たような感じになる。その繰り返し。 「坊さんが袈裟《けさ》でも着てるみたいだな」 「じゃあ僧正岩《そうじよういわ》。どう?」 「うん、それがいい」  道を右手に進むと古い灯台があった。このあたりの地名を狼煙《のろし》という。かつて海の警備のために狼煙場が作られていた、と、これは車に戻ってから案内書で読んだ知識である。 「きりがないわ」  二、三十分ながめて、ようやく法子が踵《きびす》を返した。  海が好きか、山が好きか、学生の頃《ころ》に法子と論じあった覚えがある。法子は顕著な海派だった。今でも変らない。 「私ね」  禄剛崎を出るときに運転を換わった。  これからは曽々木《そそぎ》海岸を走り、千枚田を見て輪島に至る道のりである。ハンドルを握りながら法子がつぶやく。 「初めて海を見た人の気持ちを思って、とても感動しちゃうの」 「うん?」 「ずっと昔、山に住んでいた人は、海なんか知らなかったわけでしょ。旅に出て来て、初めて海を見て、�わあー、すごい。むこうになにがあるんだろ�きっとそう思ったわ。こんなに大きいものが、この世の中にあるのかって……。人生観が変ったわね、きっと」 「うん」 「私ね、前の人生で……生まれる前のことよ。きっとそういう体験をしてるんじゃないのかなあ。海を見た瞬間に、わっと記憶みたいな感激を感じちゃうの」 「子どもの頃に、そんなことがあったのかもしれない」 「そうね。でも、それじゃつまんないわ。前世の私は、山の中の村にいづらくて逃げて来て、山道を抜けたら目の前に青いだけの海がいっぱいに開けていて……」 「それからどうした?」 「どうしたのかしら。強く感動したところだけが頭に残っているものなのよ、次の生では」 「そうかもしれん。山から来た女は海に飛びこんで溺《おぼ》れ死んで」 「厭《いや》ねえ」  このあたりの海岸は奥能登きっての名勝地だろう。どこもみんなそれぞれに美しい。法子は時折車を止め、外に出て海を見つめる。長い髪が風に飛び、浅黒い肌《はだ》がけわしい風景によく似あう。 「時国家《ときくにけ》がありますけど、見ますか」 「なんだ、それ?」  啓一郎はなんの下調べもやってない。 「平家の子孫じゃないかしら。上時国家と下時国家と、二つあるの」 「見たほうがいいのか」 「好き好きね。私としては、少し急ぎたいの。ちょっと遅れているし」 「文化財は、またの機会にして海中心で行こう」 「いいわよ」  トンネルのわきに垂水《たるみ》の滝が見えた。滝は海ぞいの山から海へといきなり落ちこんでいる。法子は期待していたらしいが、さほどの景勝とは言えない。 「滝ってのは、わりと美人と不美人があるもんだね」 「私も今そう思っていたとこ」 「美男子と醜男《ぶおとこ》かな」 「ううん。フランス語じゃ滝は女性だから美人と不美人でいいんじゃないかしら」 「ただ水が落ちているだけだからみんな似たようなものかと思うと、そうでもない」 「落ちかたとか、曲がりかたとか水の量とか、付近の景色とか、ポイントがいくつかあって、それで美人と不美人に分かれるのね」 「まったくだ。日光の滝なんかおおむね器量よしだもんな」 「どれが好きですか。華厳《けごん》は別格として。竜頭《りゆうず》ですか、湯滝《ゆたき》ですか」 「霧降りの滝ってのがあるだろ。中禅寺湖のほうじゃなくって」 「行ってないわ」 「そう。山の中腹からドッと水量豊かな滝が出ているんだ。それを対岸のほうから見るんだ。紅葉の季節がいい」 「本当」  法子がうなずく。  麻美《あさみ》と一緒に来た旅ならば、  ——今夜どう誘おうか——  などと昼のうちから思案をめぐらさなければいけない。一つ部屋に泊まることだって気軽にはできない。気軽どころか、それが一番大きな課題と言ってもよい。  男と女。当たり前のことだが、すでに体の関係があるかどうか、それではっきりとした一本の線が引かれる。どんなに親しくても、体の関係がなければ越えられない壁がある。体の関係がなければ本当に親しくなったとは言えない。  啓一郎の思案をよそに法子は話し続ける。 「その点、海はごみさえなければどの海もみんな美しいわね。滝とちがって海は美人民族。そうひどいのはないわ」 「東京湾も?」 「だから、あれは汚されちゃったのよ、わるい男に会って。昔はきれいだったと思うわ」  法子との旅には、なんの屈託もない。気ままに話しあい、勝手にくつろぎ、夜になれば期待通りの歓楽が待ちうけている。  ——最高の関係——  きっとそうなのだろう。  ——今が一番いいとき——  それも本当かも知れない。  法子がパリから寄こした手紙を思い出した。�人生の中で本当にこころよい時間を過ごす機会って、案外少ないような気がします。中さんとよい時間を過ごしたい……�あれが今日の旅の始まりだった。  法子は賢い女だ。男と女とのあいだが、いつまでもすばらしい状態でいられないことを知っているのだろう。飽きが来ることも、裏切りがあることも。啓一郎の本心もとうに気づいているのかもしれない。  そうであるならば、ここちよく楽しめるときにしっかり楽しんでおくほうがいい。世間の思惑や愚かな抑制心にわずらわされることなく、飛べるときにのびのびと飛翔《ひしよう》しておくほうがいい。法子は、�やってしまった�後悔より�やらなかった�後悔を憎む人だった。  ——なぜこの時期に俺《おれ》を旅に誘ったのだろうか——  誘われたときから、啓一郎の中にそんな疑問があったのだが、法子の中ではちゃんと答えができているのだろう。 「あら、ここが千枚田?」  うっかりと見すごしてしまうところだった。通り過ぎ、振り返ってながめると、傾斜にそって何十何百の小さな田が段を作って続いている。枯草におおわれ、実際には使っていない田もあるようだ。 「もっと広いのかと思った」 「貧しさのシンボルですもの。そう広くはないのね」  ここでまた運転を換わった。  車が海岸線を離れると法子は少しまどろんだ。風景が町に変り、啓一郎は走り書きの路程表をたよりにキリコ会館へ車をつけた。 「おい。キリコ会館だぞ」 「ええ?」 「せっかく止めたんだから、ちょっとのぞいていこう」  キリコは御輿《みこし》の一種である。暗い会館の中にいくつものキリコが並んでいる。浴衣《ゆかた》のマネキンが引いている。祭のときに実際にかついだものなのだろうか。台座の上には極彩色の奉灯が立ててある。中に灯をともして街をねり歩くのだろう。 「重心が高いから大変だなあ」 「こんなの、かつげるのかしら」  二本のながえは、三十センチ四方ほどの角材だ。やさ男にはとてもかつぎ手は務まらない。  軽い昼食をすませて、輪島塗りの専門店�ぬり花�へ。漆器を見るのも法子の目的の一つだった。 �ぬり花�は輪島漆器の資料館をかねた即売店で、店内へ入ると、ガラス越しに実際の作業を見ることができる。椀木地《わんきじ》から始まって、下地、地研ぎ、中塗り、拭《ふ》き上げ、上塗り、呂色《ろしよく》、加飾《かしよく》と、工芸品ができあがるまでにはいくつもの工程がある。法子はいくらか勉強をしてきたらしい。 「昔は舟を沖に出して仕事をしたとか?」  などと案内人に尋ねている。 「ほこりが大敵ですからね。今でもずいぶん神経を使ってますよ」 「赤と黒ばっかりかと思ったら、ほかの色も出せるんですね」 「ええ。いろいろ出せますよ」  その言葉通り店内には、ブラウン、モス・グリーン、ベージュ、と多彩な器が飾ってある。これまでの漆器の枠を越え、コーヒー・カップやワイン・カップなど新しい製品があるのが、おもしろい。 「きれいだけど、お値段のほうがつらいわあ」 「うーん。一生ものだって言うけどなあ」  法子が、黒から赤へと、ぼかすように色の変っていくコーヒー・カップを一つだけ買い求めた。 「たった一人の贅沢《ぜいたく》。中さんは、どう?」 「一つだけじゃ妹どもがうるさいからな」  ふと麻美へのおみやげを思ったが、思うだけに留《とど》めた。法子はなにか感づくだろう。感づかないとしても、けっしてやってはいけないことだ。  法子がとりわけ気に入ったのは、この店の喫茶室。壁にもテーブルにも什器類《じゆうきるい》にも、ふんだんに輪島塗りが使ってある。室内は和洋折衷のデザインで、すこぶる居心地がよい。とても美しい。何日ぶりかで飲むコーヒーもうまい。 「とても採算はとれません。輪島に来ていただいたかたに輪島塗りのよさを知っていただこうと思いましてね」  と店主が説明する。そのためにこの喫茶室は輪島市民の利用をお断わりしている。 「徹底しているわあ」  法子がカップを掌《てのひら》に包んでうなずく。 「さあ、行こうか」 �ぬり花�のティー・ルームで三十分ほどくつろいで二人は出発した。にぎやかな通りを抜けたところで助手席の法子が窮屈そうに地図を広げて首を傾《かし》げる。 「どうした?」 「一時間くらい早いみたい。急ぎすぎちゃったのね。能登金剛で日没を見たいの」 「いいじゃないか。海辺でたっぷり時間をつぶせば」 「そうね。でも総持寺だけでも寄りましょうか。どうせ途中だから」 「いいお寺なの?」 「曹洞宗《そうとうしゆう》の祖院。一つくらいお参りをしてもわるくないんじゃないかしら」 「よかろう」  寺の所在地は、その名も門前町。二四九号線から簡単に入山することができた。 「大きなお寺ね」 「そうらしい」  車を降りて人気《ひとけ》のない参道を歩いた。 「ああ、そうか」  啓一郎が案内板を見てうなずく。 「なーに?」 「鶴見《つるみ》にも総持寺があるだろ。あそこに移る前は、ここが曹洞宗の大本山だったらしい」  山門を抜け右手の仏殿に参拝した。そこから渡り廊下を通って法堂へ向かうと、今、読経《どきよう》のまっ最中。背後からながめるだけで院内の散策へ道を変えた。 「お経というのは、やたらと仏様の名前を連呼するものなんだよな」  啓一郎が読経を背後に聞きながらつぶやく。 「それでいいんじゃないかしら。切実にお願いしたり、あがめたりするときは、下手なこと言うより名前を呼ぶのが一番なのよ」 「法子、法子、法子とか」 「馬鹿《ばか》ね。フランス人はベッドでも名前をよく呼ぶらしいわよ」 「なるほど」 「ほら、大学の校歌にもあるじゃないですか。われらが母校の名をばたたえんと。あれも連呼でしょ。早稲田《わせだ》、早稲田なんて……」 「じゃあ、お経は、われらが仏の名をばたたえん、なんだな」  啓一郎がメロディをそえて言う。 「そう」  お経と校歌とベッド・マナーと妙なところでつながっている。  門前町から能登金剛までは近い。法子がハンドルを握り、関野鼻《せきのはな》についたのは、きっかり五時だった。折よく西の水平線のあたりには数片の雲が散っているだけ。海は一刻ごとに茜色《あかねいろ》に染まり、一日の終焉《しゆうえん》が近づいて来る。 「まだ少し早いか」 「そうみたいね」  先に立入り禁止の縄をくぐって、右手の裸弁財天の洞窟《どうくつ》を見た。細い道をめぐって行くと、底部を浸蝕《しんしよく》された岩壁の中に小さなほこらがあり、周囲はさながら賽《さい》の河原《かわら》といった様子である。二人並んで弁天様に敬意を払ったあと、道を戻って関野鼻の突端に出た。  関野鼻は荒海に突き出した細い岩場で、先端の岩礁《がんしよう》に波が押し寄せるたびに表面を白く洗われてしまう。波は岩を襲い、巨大な掌となって宙に立ち、さらに砕けて泡立ち、たちまち引いて行く。 「断崖《だんがい》のほうへ行きましょうか」  太陽が次第に低くなるのを見て法子《のりこ》が告げた。  案内書によれば、関野鼻の北から南に下って福浦港のあたりまで、およそ三十キロの海岸線を能登金剛《のとこんごう》と呼ぶらしい。海岸線には切り立った海蝕崖が続き、複雑な地形を造り、いくつもの見どころがある。  車を五分ほど走らせて、ヤセの断崖に出た。ここは法子が赤鉛筆で二重丸をつけたところである。断崖の高さは、三、四十メートル。砕ける波の音が、足のずっと下のほうから聞こえて来る。 「高所恐怖症にはわるいな」 「中さんはそのけがあるんでしたっけ」 「いや、ない。ないけど怖い」  岩壁の突端に立つ自信はない。岩盤の上にうつぶして首だけを出した。眼下に荒れ狂う海があった。ぶつかり、砕け、泡立ち、白一色の海が騒いでいた。群がる岩礁は波に洗われ、波に隠れ、いっときとして同じ姿を見せない。法子は少し離れた岩の上に立ち、なにかしきりに呼びかけているが、声は波の響きに消されて届かない。 「なんだい?」  啓一郎は身を起こし、法子の立つ位置に歩み寄った。 「えぐれているわ」  掌でSの字を描き、啓一郎が首を出していた崖《がけ》を指す。  高い岩壁はすそのあたりを波に浸蝕されて、はっきりと凹《くぼ》んでいる。横から見ると、啓一郎は中空に伏して首を海に突き出していた恰好《かつこう》に見えただろう。 「見ているだけでもこわかったわ」 「今にあの岩はくずれるな」  太陽はまだ西の雲の中に隠れている。岩の傾斜にそって二人は右手に進んだ。眼下は入江を作って凹み、白波が荒く騒いでいる。 「あれね」  法子が泡立つ波のまっただ中を指さす。 「なんだ?」 「ほら、あそこにまるい穴があるでしょ。岩場のお風呂《ふろ》みたいに」  波が引くと、岩礁《がんしよう》があらわになり、その中に直径一、二メートルほどの穴があるのがわかった。見ているうちにまた白い波が岩全体を隠してしまう。 「石を投げて、ちょうどあそこへ入ると好運がさずかるんですって」  案内書のどこかにそんなことが書いてあるのだろう。法子が投げたが届かない。啓一郎も石を拾って投げてみた。 「駄目《だめ》みたい」 「好運は無理かなあ」  あきらめてもとの位置に戻った。さっき啓一郎が首を出していた岩壁である。視線を空に伸ばすと雲のあいまから細い光が幾筋もこぼれ落ちている。 「神々の住む国。そんな感じがするわ」 「そう。あの先が出雲《いずも》だ」  北陸の海はただ青く、悲しく、おごそかにたゆたっている。光が束となり、輝く緞帳《どんちよう》となり、朱色の太陽がしずしずと海の果てに現われた。  たちまち空と海とが、くまなく茜色《あかねいろ》に輝き、太陽はドロドロと熔《と》ける火の玉となって視界の中央に君臨する。水平線の上には厚い雲が低く群がっている。太陽は海より先にあの雲の中に沈むだろう。  啓一郎は法子に声をかけようとしたが、法子は両手を頬《ほお》に当て、まっすぐに海の果てを見つめている。話しかけるのもためらわれるほど真剣なまなざしでながめている。啓一郎も目を正面にすえ一刻ごとに色を変えていく海と空との光景に心を集めた。  落ちていく太陽は思いのほか速い。円の下側が雲に触れたかと思うと、見ているうちに円形は浸蝕《しんしよく》され、半円となり、櫛形《くしがた》となり、わずかな光源となって、それもすぐに消えた。低い雲の先端が光を帯びて輝き、少しずつ鈍い光へと移って行く。  いつのまにか黒の色が忍びこんでいた。空も海も、視線のすみのほうから少しずつ黒味を帯びる。褐色《かつしよく》に映えていた岩肌《いわはだ》も、待ちかまえていたように奇っ怪な影の形に変貌《へんぼう》する。  風が冷たくなった。海は声を荒げ、波も高くなったらしい。白く陽気に荒れ狂っていた怒濤《どとう》も、荒い歯をむきだし、邪悪な本性を表わし始めた。もう太陽はどのあたりまで沈んだのだろうか。夜が駈《か》け足で近づいて来る。 「満足?」  背後から近づいて法子の肩を両腕で挟んだ。  だれもいない。二人だけのために昼と夜との境があった。空と海と太陽のドラマが演じられた。もう夜の幕が降りる。 「ええ」  法子は息をつき、首をまわす。  海の響きを聞きながら唇を重ねた。しばらくはそのまま動かない。かげりを増す空の下で二人の姿もそのまま岩の一部に映ったにちがいない。  腕をからめたままふたたび海を見たとき、夜はさらに黒の色を深めていた。法子は体を啓一郎にゆだねたまま海がすっかり暮れるまでながめ続けていた。暮色の中で一つだけ遠い船の灯が見えた。 「ごめんなさい」 「かまわない。すごい日没だった」 「本当に」  法子の顔には、はっきりと興奮の色が浮かんでいる。風が髪をなびかせる。もう一度ふりかえって海を見た。船の灯がさらに明るくなっていた。 「足もとに気をつけて」 「ええ」  法子は、いたいけな少女のように啓一郎にすがりついて歩いた。 「どうする、夜になっちゃったけど?」  スケジュールでは、今日のうちに能登金剛のもう一つの名勝、巌門《がんもん》にまで行くつもりだった。 「ええ……そうね」  法子の思考が現実に戻った。 「明日の時間が少し余るの。和倉の能登屋さんは、ぜひ泊まったほうがいいって言われたものだからコースが少しへんてこになってしまって」 「うん?」 「巌門はここからそう遠くはないけど、明日また来ましょ。暗いだけの海じゃ見たってつまらないし」 「俺《おれ》はそれでいいよ」 「じゃあ、これから和倉温泉へまっすぐに」 「わかった」  暮れてしまえば、車の通行も少なく、さびしい国道である。海岸線を離れ、丘陵地に入り、一、二度迷ったが中島町、田鶴浜町《たつるはままち》と標識を追って和倉へ入った。 「ゴジラにも喉《のど》ちんこがあるんでしょ」  啓一郎が地図を見ていると、法子が正面を向いたまま言う。能登半島は二人のあいだで朝からずっとゴジラにされてしまっている。ゴジラが口を上にあけ、能登島を飲みこもうとしているのだ。 「ある、ある」 「その先端が能登屋さんなの。島に渡る大きな橋があって」  高いビルを見るたびに、それが目ざす宿かと思ったが、いっこうに能登屋は現われない。温泉街のほぼどんづまりまで来て、ようやく看板を見つけた。車が止まると、すぐに従業員が現われる。 「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか」 「千倉《ちくら》です」  と、助手席の啓一郎がすまし顔で答えた。法子は笑いを噛《か》み殺している。貧弱なレンタカーで着くには、ちょっと気が引けるような豪華な玄関だ。  中に入って、さらにこの印象は強くなった。外装はまちがいなく鉄筋コンクリートのビルと見たが、内部は木組みをふんだんに使ってむしろ和風の造りになっている。ロビーからエレベーターまで、スペースも広く、色調も美しい。  ガラス張りのエレベーターは、通路を挟んで向かい側の壁をながめながら昇り降りする仕組みになっているのだが、その壁には三階から十二階まで貫いて花の絵が描かれていた。 「友禅かしら」 「はい。およそ三十七メートルございます」 「みごとね」  下から順に梅、桜、藤《ふじ》、牡丹《ぼたん》、あやめ、あじさい、菊、もみじ、竹、松。いったん上まで昇って、六階に戻った。旅館というよりもむしろ美術館を思わせる趣がある。部屋は洋室と和室の二間続きでこたつがすでにぬくもっていた。ちがい棚にまっ黄色の花が咲いている。 「この花だよ」 「なーに?」 「俵屋にもあった」 「そう。なにかしら」 「黄梅でございます。迎春花、春を迎える花とも言いまして」 「わあ、きれいな名前」  法子が花弁に鼻を寄せた。 「花の種類って多いものだな」 「なんのために咲くのかしら」  植物学者はどう答えてくれるのだろうか。 「植物にも自己顕示欲があるのかもしれない」 「この花はずいぶんかわいらしい自己顕示欲ね」  窓を開けると海をへだてて黒い島が横たわっている。右手には島へ渡る長い橋が見える。 「どうぞ一階のお風呂にお入りください。そのあいだにお食事の用意をいたしておきますので」 「ありがとう」  二人だけになったところで、 「安くないな」  と啓一郎が法子の顔をのぞきこむ。 「いいの。金沢に来てちょっと儲《もう》けたから」  本当かな。法子はきっすいの東京っ子である。東京人は、相手の心に負担をかけまいとして時折この手の嘘《うそ》をつく。啓一郎にはそれがよくわかる。儲けたのは事実かもしれないが、それをみんな使ってしまう理由はどこにもない。 「あとで勘定を聞かせてくれ」 「いいわよ。でも、これは私の贅沢《ぜいたく》なの。気にしないで」 「うん、わかっている」  法子に対しては、いつもすなおに甘えることができるのはなぜだろう。  浴衣《ゆかた》に着換えて部屋を出た。大浴場も充分に趣向をこらした造りだった。温泉の湯はいくぶん塩味を帯びているようだ。簡単に体を洗って外に出たが、まだ法子は入っているだろう。一階のロビーを見物して歩いた。 「よくやるもんだなあ」  ホテルの中に、芝居のセットみたいな街が作られ、市場が開いている。みやげ物店や食べ物屋が並んでいる。ひとめぐりしてエレベーターの前に戻ると、法子が目を周囲にめぐらしていた。 「輪島塗りが利いているわね」 「うん」  啓一郎は曖昧《あいまい》にうなずく。 「贅《ぜい》をつくした旅館はほかにもあるけど、たいていは飾り過ぎて、かえって野暮になるでしょ」 「あるね、そういうのが」 「ここも�ちょっと厚化粧かなあ�ってとこもあるんですけど、ふんだんに輪島塗りを使っていて、それがやっぱり上品なのよね。けれんに流れるのをうまく抑えているみたい」  そう言われて、あらためて内部の装飾をながめてみると、たしかに随所に塗り物が使われている。 「採算がとれるのかなあ」 「それはなんとか……。東京の高い土地に建てるよりは経済性があるんじゃないかしら。ちがいます?」 「うーん、わからん」  部屋にはすでにお膳《ぜん》がそろえてあった。まずビールを飲む。 「お疲れさまでした」 「大分走ったなあ」 「ざっと二百キロくらいね」 「そんなものかな」 「乗ったり降りたりだから、もっと走ったような気もするけど、正味はそのくらいね」  法子が肩の疲れをほぐすように首をまわす。四本の銚子《ちようし》をゆっくりと飲んだ。 「たまには旅館もいいね」  そうつぶやいたのは、啓一郎も法子も顕著なホテル党だから。 「出張のときに夕食を宿で食べることなんか、ほとんどないんでしょ」 「そう。仕事で行くと、たいていは�今晩どう、一ぱい�ってことになるからなあ。旅館の夕食はかえって迷惑のときもある」  次から次へと料理が運ばれて来た。酔いがまわったときには、もう腹もいっぱいになっていた。 「ご飯はどういたしましょうか」 「じゃあ、お茶漬けだけ」 「私はもうたくさん」  法子のお膳にはまだたくさんおかずが残っている。 「腹ごなしに少し散歩でもしようか」 「この恰好《かつこう》で?」 「ホテルの中に結構いろいろ店があるんだ」 「本当ですよ。どうぞ行ってらっしゃいませ」  勧められて、またエレベーターで降りた。そのたびに豪華な友禅染めの花模様を見る。 「輪島の朝市は見られなかったな」 「行きます、明日? 早起きをして?」 「いや、いいよ、わざわざ行くこともない」 「金沢で行ってみましょうか」 「時間があればね」  みやげ物屋をひやかして歩いた。啓一郎は練《ね》り雲丹《うに》を買い、迷ったすえに小物入れの袋を二つ買った。父親と妹たちへの手みやげである。法子はアクセサリー店をのぞいて、友禅染めのスカーフを首に当てている。 「それがいい」  紺のふちどりの中にたくさんの花が散っている。広げるとはでに映るが、首に巻くと、さほどのこともない。折りかたによっていろいろなデザインが楽しめる。 「じゃあ、一ついただくわ」 「俺がプレゼントしよう」 「ありがとう。すなおにいただくわ」  ロビーの脇《わき》のティー・ルームでコーヒーを飲んだ。窓の外に海がせまっている。遠くの席で団体旅行客らしい一団が声高に騒いでいる。 「会社の社員旅行なんてあるんですか」 「昔はよくやったけど、このごろはあんまりやらないね。特別の研修会をやるとか、組合で運動方針をまとめるとか、そんなときでもないと、みんなでぞろぞろ行くことはないよ。あとは忘年会かな。たまに泊まりがけでやることもあるけど」 「ドンチャン騒ぎね」 「それも昔に比べりゃ、おとなしくなったよ。俺が入社したころは、かならず喧嘩《けんか》があったもんな」 「元気があったのね」 「このごろの若い連中は、忘年会があんまり好きじゃないんだ」 「あら、そう」 「どうせ飲むなら仲間と一緒に飲むほうがいいって……。そりゃ、たしかに上役に気を使いながら飲んだって、そう楽しいことないよな。だけど、これも職場の人間関係。仕事のうちだって……」 「そう説得するのね」 「まあな。じゃあ残業手当が出るんですか、なんて馬鹿《ばか》なことを言うやつが、このごろ増えてきちゃってね」 「合理的じゃない。そこで中座係長としてはどう言うの?」 「なにも言わんよ。忘年会なんて、ただ酒を飲んで騒いで、くだらないように見えるけど、あれで少しは役に立つこともあるんだ」 「そう?」 「上役たちがなにを考えているか、どういうつもりで、この会社で長くサラリーマンをやっているか、見えて来るものがあってサ、それだけでも酒盛りはわるくない。年一回だしな」 「わかるような気もするけど……」 「入って最初の忘年会だったかな、もう退職しちゃった人だけど、直属の課長が銚子をさげて俺の席にやって来てな」 「ええ?」 「�中座君、恋愛経験はあるか�って聞くんだよな。あるような、ないようなモグモグ曖昧な返事をしてたら、その課長が�いいか、恋愛も商売も同じ原理だ。与える愛もあるし、奪う愛もあるけど、愛情についておたがいに収支のバランスがとれていなけりゃ、長続きはせん。商売の世界じゃ愛情のかわりに利益だ。パートナーとのあいだで収支のバランスがくずれたらよい関係は保てない。商売と恋愛、この二つはよっく似とるよ�そう教えられてね。最初はよくわからなかったけど、このごろはその通りだと思うことが多いよ。こういう話は酒でも飲まなきゃ、あんまり聞けない」 「商売はともかく、愛情の収支バランスは、うまくとれていないことがあるみたいよ、世の中には」 「そうかな」 「過剰のサービスをさせたり、過度の期待をしたり」 「恨まないのがルールって、そんな歌が一時はやっていたな」 「どんな歌? 私、知らないわ」 「俺は音痴のけがあるから歌えないよ。恋愛の歌だ。恨まないのがルールってところだけが、よく印象に残っているんだ」 「中さんらしいわね。でも、本当。私もそう思う。男女の仲って、それが第一番のルールでしょ」  法子が、啓一郎の目の中をのぞくようにして言う。  ——ご心配なく。私は恨みませんから——  そうとでも言っているように笑っている。 「行こうか」  冷えたコーヒーを喉に流して啓一郎は立った。  部屋に戻ると、法子が、 「一時間ほど手紙を書かせてくださいな」  洋間の椅子《いす》にすわって絵葉書を取り出す。法子のような仕事では、挨拶状《あいさつじよう》を出しておかなければいけないところが数多くあるだろう。旅先から送る絵葉書は、そうたくさんの行数を書く必要がない。それなりに恰好がつく。啓一郎も、  ——たとえば、麻美《あさみ》に——  二、三の宛《あ》て先を思い浮かべたが、残念なことに住所録を持って来ていない。  和室のほうはこたつを取り払い布団が二つ敷いてある。テレビのスイッチをつけ、チャンネルを捜し、  ——どうしてこうCMにばっかり、ぶつかるのか——  歌謡曲の番組にあわせて布団に横たわった。歌番組を見るのはめずらしい。旅先のひまつぶし。だからほとんどの歌手を知らない。  マスクがよくて、恰好がいいのは、きっと歌がへただろう。容姿がさほどでもないのは、多分歌がうまいにちがいない。両方そろっていれば、たちまちスターダムにのしあがり、啓一郎だって顔と名前くらい知っているだろう。しかし、テレビを見ていると、両方駄目、そんな歌手がいないでもない。 「音、邪魔になるか?」 「ううん、いいわ」  そのうちに少しまどろんだようだ。不確かな夢を見た。  岩場で魚を釣っている。ずいぶん引きが強いと思ったら、水の中から女が現われた。女は裸のまま岩場に転がっている。  ——まずい——  いくらなんでも裸の姿で人目にさらすのはよくない。ジャケットを脱いで裸の女に着せかけた。女は麻美らしい。よく見なかったが、思いのほか均整のとれた裸形のようだ。それがひどくうれしい。  女は歌を歌い出す。  海は広いな、大きいな……。  子どもの歌ではないか。声もひどいが、頭も少しわるいようだ。狼狽《ろうばい》が走る。そのくせ、なるほど天は二物を与えないものだな、などと妙な納得もある。  ——よかった——  気がつくと女は麻美ではない。薫《かおる》に変っていた。ジャケットが短いので薫の下半身はまる見えになっている。薫はさほど気にかける様子もない。岩場のはずなのに、すぐ脇《わき》に芝草の広がっている原っぱがある。緑の色がとても鮮やかだ。薫はそれを見ながら頬《ほお》をゆがめて笑っている。啓一郎の気持ちを見透かしているのだろう。  ——あなたは、あそこで私を抱くわ——  相手がそう思っているなら、かえって気が楽だ。薫にはお金を貸してあるんだし……。胸に重みを感じた。目をあけると、法子が肩口に顔を寄せ、寝顔をのぞきこんでいた。 「よく眠ってたわ。寝息をたてて」 「夢を見てた」 「どんな夢?」 「魚を釣る夢」 「よく釣れましたか」 「うん」  法子は腹ばいになったまま布団の角に顎《あご》をのせている。啓一郎は横向きになり、片腕を支えにして、それを首の枕《まくら》にした。  いつかもこんな光景があったような気がする。眠っている啓一郎を法子が見つめている。啓一郎が目をあけて見返す……。博多《はかた》のアパートに法子が初めて訪ねて来たときかもしれない。 「葉書、すんだ?」  布団の中から腕を出して法子を引きこむ。法子は浴衣《ゆかた》の乱れを押さえながら体を寄せた。 「ええ、すっかり」  そのまま唇を重ねた。細い鎖骨を指先で横に撫《な》で、線を引きながら胸のふくらみへと移す。掌《てのひら》で乳房を包み、それからまた指先をもとに戻してトントンと鎖骨を叩《たた》いた。 「なーに?」 「ノックだ」  骨の細さがいとおしい。男ではない、女の体を抱いているのだと実感する。 「明るいわ」 「テレビを消そう」  立ちあがり、テレビのスイッチをひねり、襖《ふすま》をしめた。洋室の光がわずかに漏れてくる。  浴衣を脱ぎ、全裸になってサッと布団の下に入り込む。法子の腕を折るようにして、肩から一つ、一つ細い腕を抜いた。裸の胸を合わせ、背後から腕を伸ばすと、パンティのふちに触れた。  しばらくは、その上から女体のぬくもりを確かめた。それから法子の手を取り、指を開き、男の熱い興奮を握らせた。 「いや……」  法子《のりこ》が首を振る。しかし掌《てのひら》は微妙な動きを知り、そのたびに女体が震える。  やわらかい両の腿《もも》をそろえ、抱くようにして背後から薄い布地を剥《は》いだ。しっかりと密着している腿も、つけねのあたりにわずかな間隔がある。男の指先がうっかりと触れてしまったかのように、ゆるみの奥を撫《な》でる。女体がひるむ。だが今度はもう逃がさない。  体を繋《つな》げるときに考えた。�好きだ�とつぶやくべきなのだろうか。いつも言いそびれてしまう。  こんなときには関西人のほうが、なにかしらつぶやくことが多いとか。本当かな。標準語より関西弁のほうが、感情表現にむいているのかもしれない。 「中さん」  法子はきまって啓一郎の名を呼ぶ。総持寺の境内で交わした会話を思い出した。お経は御仏《みほとけ》の名を連呼する。校歌には�われらが母校の名をばたたえん�という文句もある。歌舞伎《かぶき》だって�音羽屋《おとわや》�と呼ぶではないか。  ——女もこんなよそごとを思うものだろうか——  法子は昨夜より一層深いたゆたいに身を委《ゆだ》ねているように見えた。  翌朝は少し朝寝坊をして朝風呂《あさぶろ》につかり、遅い出発となった。昨夜の道を途中まで返して巌門《がんもん》まで。このあたりは松本清張の名作�ゼロの焦点�の舞台となったところだ。 「小説で読むと、ずいぶんさびれてたけど、かなり感じがちがってるわ」 「ああ、そう」  啓一郎は、その作品を読んでいない。テレビ映画で見たような記憶があるのだが、その印象もぼんやりとしている。 「終戦直後の傷跡が尾を引いている時代だから……昭和二十年代の終わりくらい。ろくな道路もなく、列車が一日に何本かカタコトと走っているだけみたいだったわ」 「気軽に観光旅行なんかができるところじゃなかったろうな」  一六六号線に入ってスピードをあげたとたん道ばたに警官が立っている。  ——しまった——  そう思って速度をさげると、なんと、これが、ただの人形。 「よくできてるわねえ」  法子も見まちがえたらしい。 「アメリカの役人が日本に来てサ、あの人形を見てな」 「ええ」 「これはうまいアイデアだ、そう思ったらしいんだ。それで国に帰って、どこかの州で警官そっくりの人形を作らせ、道路の脇《わき》に立たせたんだな。むこうの道路は長いし、パトロールは大変だよ。人形で効果があれば、めっけもんだもん」 「ええ」 「ところがアメリカ人はピストルを持っているだろ。人形だとわかると、車の中から撃つやつがいる。射的みたいに……」 「やりそうね」 「それでサ、立っているのが本当に人形ならいいんだけど、本物が立っていることもある。それをついウッカリ撃ってしまう。そんな事故が何度かあってせっかくのアイデアもとりやめになった」 「本当の話なの?」 「さあ、わからん。この手の話は作り話がいっぱいあるから」  海が近づき、公園のような平地が広がり、そこが能登金剛《のとこんごう》のもう一つの名勝地、巌門だった。  高い岩壁、広い海、展望はこれまでに見た風景とよく似ているが、関野鼻《せきのはな》や禄剛崎《ろつこうざき》に比べると、ここは大分俗化が進んでいるようだ。スピーカーから流れる歌謡曲。散乱するごみの量も多い。  崖《がけ》のはしから急な階段を伝って海岸に降りた。大きな海蝕洞穴《かいしよくどうけつ》があって、岩伝いに中をくぐり抜ける。この周辺には、そんな洞穴《ほらあな》がたくさんあるらしい。海の穏やかな日には舟を雇って、洞穴めぐりをする。巌門の名も多分この地形に由来するものだろう。 「小説のほうがすごかったわ」 「昔は本物の秘境だったんだろ。それとも筆の力かな」  昨日までは、ほとんど見ることのなかった観光バスも、ここには数台止まっている。能登半島も、このあたりと突端とでは、観光客の数にかなり差があるらしい。 「行きましょ」  法子が口を�へ�の字に曲げ、アクセルを踏んだ。  しばらくは奇岩怪石の立つ岩礁《がんしよう》地帯を走り、羽咋市《はくいし》から千里浜に出た。ここは一転して平坦《へいたん》な砂浜の続くところである。  渚《なぎさ》ドライブウェイは堅い砂地の海岸線で、車で走ってもタイヤが沈まない。車体の汚れをいとわなければ海の中でも走れる。同じような砂浜がたっぷり四キロは続いている。遠浅の海。夏場はよい海水浴場になるだろう。  車を止め砂の上に腰をおろして、視界の端から端まで横一線に寄せて来る波をながめた。波は海岸に近づくと、薄緑色に透けた長い筒となり、それから白く崩れ、透明な水と変ってヒタヒタと砂地を這《は》って来る。そのたびに海草や貝殻が波の軌跡を砂浜に描く。 「なにか食べる?」 「よし、買って来よう」  観光バスのための休憩所があって、食べ物、飲み物、みやげ物を売っている。店員が思い出したみたいに客を呼んでいる。イカ焼きも二串《ふたくし》買った。 「イカ焼き、タコ焼き、タイ焼き、みんな海の生き物の名前がついてるけど、実体は大分ちがってるな」 「本当ね」 「外国人が聞いたら、迷ってしまうぜ」 「フランス人に日本語を教えたのよね。�いかがですか�って聞かれたら�元気です�って答えなさいって」 「うん」 「そしたら、その人、江の島かどこかへ行ったのね。屋台の店がたくさん出ていて、サザエのつぼ焼きなんか売ってんでしょ。�いかがですか、いかがですか�そう言われて一軒一軒�元気です、元気です�って挨拶《あいさつ》しながら歩いたらしいわよ」 「いい話だよ。目に見えて来る」  悪戦苦闘のすえイカ焼きを平らげた。海の水で口と手を洗い、 「金沢までほとんど一本道ね」  砂浜の果てまで走って国道へ乗り入れた。 「金沢ではなにをするんだ?」 「もう海はたっぷり見たからいいの。兼六園《けんろくえん》でも歩きましょうか」 「月並みだけど」 「どうせそうたくさん時間もないし」 「宿は?」 「少し離れているわ。郊外の湯涌《ゆわく》温泉。雲海楼って古いホテルを紹介していただいて」 「ふーん」  道は申し分ない。車も少ない。一時間足らずで金沢の市内に入った。この町の道路はどこへ行っても屈曲している。一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない。 「城下町はたいていそうでしょ」 「敵が攻めて来たとき道がややこしいほうがいいんだ」 「雅《みや》びと鄙《ひな》びと、両方が共存している町ね、ここは」 「なるほどね」  おおまかな市街地図を頼りに桂坂口《かつらざかぐち》へたどりついた。 「何度も来ているんだろ」 「そうでもないわ。三度目かしら」  旅はあと一晩。今日は月曜日。  ——会社はどうなっているかな——  啓一郎は午後のオフィスの喧騒《けんそう》を思い浮かべた。  庭園のところどころに雪が残っている。春はまだ浅い。梅の木が少し寒そうに蕾《つぼみ》を連ねている。 「雪国は梅も桃も桜も、みんないっせいに春が来るって言うけど、ここらあたりはそうでもないみたい」  桜の木も目立つが、まだ花の気配はない。 「春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て……一年は簡単に過ぎて行くからな。このあいだ正月をやったばかりだろ。今年も、はや残すところ九カ月と少し」 「いいじゃない、その台詞《せりふ》。やっぱり一年て、春から始まるのかしらね」 「そりゃそうだろ。どうして?」 「最後が冬。厭《いや》ね、最後がつらいのは。人間が年とともに美しくなって行くなら、ペシミズムは存在しないだろうって、このあいだエッセイで読んだわ」 「言えるな」  園内の一画に成巽閣《せいそんかく》が門を開いていた。見学料を払い、靴を脱いであがった。武家書院造りの典型としてよく知られている建造物である。随所に見どころがあるらしいが、専門家でもない限りそれを正しく評価することはできまい。場内に流れるアナウンスメントを聞きながら、 「ふーん」  適当にうなずきながら、わかったような、わからないような中途半端な気分で進んで行く。  豪勢な雛《ひな》かざりが陳列してあった。人形は言うに及ばず、調度品が一つ一つ、細部まで精緻《せいち》に作られている。お姫様が着用した、豪華なうちかけも展示してある。 「能衣裳《のういしよう》なんか、バラバラに切って袋物に縫い直され、それで売られているわよ、外国で」 「どうして?」 「そのほうが安くて売りやすいし、全体として高くなるのね」 「目はしのきくやつがいるな」  ふたたび庭園に出て、池のまわりを歩いた。  出口は真弓坂。車を止めておいたのは、ここではない。石垣にそって行くと、大きな松の切り株がある。年輪がくっきりと刻まれている。 「これでどのくらいかしら」  輪の数を数えてみたが、簡単には数えきれない。 「二センチで十年として……三百年くらいか」  パンフレットを取り出して、 「えーと�宏大《こうだい》、幽邃《ゆうすい》、人力、蒼古《そうこ》、水泉、眺望《ちようぼう》の六勝を兼ねるところから兼六園と命名された�のが、文政五年、つまり一八二二年だ。その頃《ころ》で、この半分くらい」 「そうなるわねえ」  赤い車が門の脇の細道にちんまりと待っている。 「繁華街を少し歩いてみます?」 「いいよ」  知らない町を走るのは当然のことながら効率がわるい。道を戻り、県庁の前から香林坊と片町の境に出て、路地に車を止めた。  ホテルの少ない町だったが、今は新しいホテルがあちこちに建設されている。法子は九谷焼の店を見つけて入りこむ。和菓子屋のケースをのぞく。 「中さんは、やさしいわね」 「どうして?」 「なんとなく」  肩を並べて知らない町を歩く。さっきから微妙なくつろぎが二人のあいだに流れている。法子はそんな気配を�やさしい�と告げたのかもしれない。  四時過ぎに繁華街の散策をうち切り、また地図を見ながら医王山の麓《ふもと》へ向かった。湯涌温泉がそこにある。もう富山県との県境も近い。 「石川県というのはずいぶん細長い県なんだな」  勾配《こうばい》を登るたびに雪の量が多くなる。道の両側がくまなく白く埋まるあたりに入って雲海楼ホテルの看板を見た。ここも歴史のある旅荘らしい。館内の随所に古い時代のモダニズムが漂っている。  到着が早かったので、ゆっくりと温泉につかった。法子があがって来るのを待って大広間の襖絵《ふすまえ》を見物した。金箔《きんぱく》をふんだんに使い、春夏秋冬の風景を十二枚の大襖に描いている。花が咲き、海が荒れ、松が緑の枝を垂れている。 「さすがに疲れた」 「ご苦労さま」  長い時間をかけて酒を飲んだ。山海の珍味も三日続くと、少々飽きが来る。ラーメンやカレーライスがなつかしくなる。 「日本の旅館というのは、一泊の客を前提にして料理を作っているんだな」 「同じ宿に二泊も三泊もする人はめずらしいんじゃないかしら」 「宿を変えても、料理はそう変らない」 「でも、ここは山のものがずいぶん工夫して出してあるわ」 「あんたは、やさしいね」  金沢の街中で法子に言われた台詞を、ほとんどそのまま言い返した。 「どうして?」  法子も同じことを聞く。 「なにかしら長所を見つけてほめる」  これは本当だ。法子はクールな理性の持ち主だが、全面否定ということは少ない。きっとよいところを見つける。 「ああ、それね。母によく言われたわ、そうしなさいって。でも、いつもそうってわけじゃない」  啓一郎が酔いをさますように、立って窓をあけた。急に冷気が流れこむ。 「夜は寒いね」 「だって雪だらけですもの」  湖が見える。山が屏風《びようぶ》を立てている。雪のあとにはきっと美しい春が芽ぶくだろう。秋には紅葉が燃え立つだろう。  女中が布団を敷きに来た。法子は窓辺でメモを記す。啓一郎は薄い水割りを飲み続けた。 「最後の夜になったな」 「ええ、とてもいい旅だったわ」  あかりを消し、淡い常夜灯の光だけを残した。向かいあい、法子の衣裳《いしよう》を羽織から浴衣《ゆかた》へと順に奪い取った。そして啓一郎も同じように脱ぐ。薄い闇《やみ》の中で全裸となり、立ったまま抱き合った。 「なにか言いたいこと、ある?」 「ないわ」 「そう」 「説明しにくいの」 「うん」  やわらかい肌がここちよい。理性は駈け足で逃げて行く。両の腕をさげ、くびれた部分から豊満な部分へ、さらに背後から細い凹《くぼ》みへと愛撫《あいぶ》の手を伸ばした。  女体はいつもと同じように燃えたが、微妙に異なる部分もあった。異なるというより、同じ道をたどりながら、さらに加わるものがあった。一昨夜よりも、昨夜よりもたしかに熱くたぎるものがあった。 「ルノアールが好きだったわ」  ひとたびの嵐《あらし》が遠ざかり、薄闇の中で体を並べていると、法子が言葉をまっすぐ上に吐き出す。 「知っている」 「今でも好きよ、とても」 「うん」 「でも、ルノアールだけを見てたんじゃルノアールのよさはわからないわ。もっと他《ほか》にもよいものがあるわけでしょ。モジリアニもクレーもレンブラントもマチスもエゴン・シーレもルネ・マグリットも、それぞれにいいわけでしょ。いろんな世界に目を向けて、一つのものにこだわらずに自由に生きてみたい。昔、そう決めたの。それからはずっとそんなふうに生きて来たわ。今でも美術館でルノアールを見ると、とても心がやすまる。それは本当。そのままのめりこみたくなるほどよ。きっといつかは、そこに帰り着くのかもしれない。そんなことも思うの。でも、しばらくは自分を固定させることより自由に飛翔《ひしよう》させたいの。わがままかもしれないけど……。よく説明できないけど」 「うん?」 「絵だけの話じゃないわ」 「わかってる」  途中から絵の話ではないと、うすうす感づいていた。法子の生き方全部を言っているのだと思った。啓一郎に対する気持ちかもしれない。 「中さんも自由にして。あなたもそれが似あう人なんだから」 「うん」  これまではたしかに自由に生きて来た。勝手気ままと言ってもいいほどに……。だが、それがいつまで続くのか。  ——麻美《あさみ》のことを話してみようか——  いくらなんでも、こんな夜にふさわしい話題ではあるまい。話してなんになる? それに、なにをどう話すのか。法子には事情がもっとはっきりしたときに、はっきりと話すのがいい。法子はわかってくれるだろう。 「私の両親はあまり仲のいい夫婦じゃなかったの」 「前にもそんなこと言ってた」 「ええ。わるい結婚を見すぎちゃって」 「うん……」 「中さんは、好きな人、いるんですか」 「まだだ」  少時沈黙が流れた。  法子が体をねじり、やさしさを求めるように体を寄せて来る。顔はすっかり長い髪に隠れている。その滑らかな手ざわりを、啓一郎はやさしく梳《す》いた。たちまち新しい欲望が募って来る。やさしい愛撫が、官能を掻《か》き立てる愛撫へと変った。 「中さん」  法子はさらに高く昇りつめた。  それからまた薄闇《うすやみ》の中で会話が続いた。眠りについたのは夜半を大分過ぎてからだったろう。  翌日は近所の江戸村を歩き、昼過ぎの飛行機に乗った。東京に戻れば法子はスケジュールが詰まっている。夕刻以降にいくつかアポイントメントがあるらしい。啓一郎も会社へ寄って帰ることにした。 「さよなら」 「お疲れさまでした」  モノレールの終着駅で別れ、能登の旅が終わった。 [#改ページ]   花蘇方《はなずおう》  啓一郎の家から下北沢の駅へ行く途中に、りっぱな屋敷がある。  御影石《みかげいし》の門柱。檜造《ひのきづく》りの門扉《もんぴ》。中は相当に広い庭になっているだろう。石積みの塀《へい》を越して季節ごとに花の咲くのが見えた。椿《つばき》、梅から始まって桃、桜、木蓮《もくれん》、玄関の脇《わき》にたわわに垂れているのは、れんぎょうだと、これは妹の保子《やすこ》から教えてもらった。  その中に華やかな色あいでありながら名前のわからない木が一つある。もみじのような幹。春が来ると、一枚の葉もつかないうちに幹の上にべったりと赤紫の花を這《は》わす。たとえはわるいが、毛虫をのせたような感じになる。春が深まるにつれ、花の群れはますます数を増し、枝に毛糸の衣裳《いしよう》を着せたような様子になる。こうなってもまだ葉はつかない。遠目は美しいが、近寄って見ると、かすかにグロテスクな気配がある。  啓一郎が子どものときから咲いていたのだろうが、とくに目を留めてながめるようになったのは、この春が初めてだった。 「あれは、なんだ?」 「なにかしら」  妹たちも頼りない。 「毛虫の木じゃないの」 「それほどひどくないわよ。色がきれいだし」  日曜日の午後、わざわざ麻美《あさみ》に電話をかけて尋ねてみた。花の名を確かめるのは、まあ、口実。麻美の声が聞きたかった。  折よく麻美は家にいた。 「いいお天気ね。思いっきり朝寝坊をして、今、お洗濯を終わったところなの」 「花の名前を聞きたいと思って」 「あら、本当。なんでしょう」  声が弾む。 「木の幹や枝に葉っぱがぜんぜんないのに、いきなり花がべったりと這うようにつくんだ」 「色は?」 「赤紫」 「花蘇方《はなずおう》かしら。いくつか小さな花が密集して一つの花を作っているみたいな感じでしょ。そう、沈丁花《じんちようげ》みたいに。一つ一つは豆の花に似ていて」 「そこまでくわしくは見ていない。近所の家の塀から出ているんだ」 「今が盛りですか」 「そうみたいだなあ」 「一つでも花を見れば、わかるんですけど……多分、花蘇方だと思いますよ」 「じゃあ、一つ摘んでおこう」 「ええ、そうしてくださいな」 「どう、ちょっと散歩でもしませんか、有栖川《ありすがわ》公園でも。いい日和《ひより》だし」 「そうねえ」 「行くよ、おたくの近くまで」 「髪もばさばさだし、ひどい恰好《かつこう》なの。眠りすぎで顔がへんみたい」 「三時には行けるから」 「じゃあ、どこにしようかしら」 「わかりやすいところ」  麻美がマンションの近くの書店の位置を告げた。 「そこで立ち読みしてるわ」  電話を切ってから啓一郎はあわてて髭《ひげ》を剃《そ》った。 「ちょっと出て来る」  リビングルームでテレビを見ているひろみに声をかけた。 「どこへ?」 「散歩だ」 「夕ごはんは?」 「わからん。多分帰るだろ」 「お姉ちゃんが、なんか頼みごとがあるみたいよ」 「なんだ?」 「志野田さんに会ってほしいんじゃない?」 「保子はどこにいる?」 「出かけたわ。志野田さんとおデート。このところ毎週よ」 「なにしてんのかな」 「愛を語っているんでしょ、当然」 「俺《おれ》にどうしろって言うんだ?」 「三人で、御飯でも食べたいんじゃないの」  父もひろみも、すでにその男に会っている。保子としては婚約を取り交わす前に、一応兄にも会わせておきたいのだろう。 「わかった。木曜日の夜くらいかな、今週あいてるのは」 「じゃあ言っとく」 「俺がおごるのか」 「そりゃそうでしょ。未来の弟におごってもらっちゃ恰好がつかないわ」 「このごろ銭がないからなあ」  冗談半分に告げたが、本心がついこぼれ落ちたところもある。能登《のと》の旅ではすっかり法子《のりこ》の世話になったが、薫《かおる》とは会うたびに金がかかる。�かとれあ�の支払いも馬鹿《ばか》にならない。 「夜遊びが過ぎるからでしょ」 「言えるな」  茶色のシャツにベージュのジャケットを羽織って家を出た。  春風がここちよい。  くだんの屋敷の前まで来て、赤紫の花を摘もうとしたが、人通りが絶えない。一人が通り過ぎると、またむこうからだれかがやって来る。大の男が他人の家の庭に手を伸ばして花を盗む図は、さぞかし奇異に映るだろう。  ——まあ、いいか——  花の名前を聞くのは口実だった。約束ができてしまえば、ぜひとも知りたいことではない。目を凝らして花の姿をうかがえば、なるほど小さな花が集合して一つの花らしい形を作っている。一つ一つは豆の花に似ている。これはきっと花蘇方なのだろう。蘇方と言えば血の色。しかし、血の色とは少しちがっているようだ。もっと明るい。もっと紫を帯びている。  それだけ確かめたところで駅へ向かった。日曜日の電車は普段とちがった混《こ》みかたをする。乗り慣れていない人が多いから、無駄な動きが多い。通勤時間の混雑は、同じように混んでいてもどこか整然と混んでいる。渋谷《しぶや》から表参道に出て、古美術商の並ぶ道を歩いた。  ——いそがしかっただろうに——  そう思ったのは、昨日法子から小さな荷物が届いたから。パリに発《た》つ前にホテルから発送したのだろう。能登の海岸で拾った石に、エナメル絵具で花の絵が描《か》いてある。ハンドメイドの五個の箸置《はしお》きだった。  箸置きに描かれた花は、桃と菊と水仙ともみじと、もう一つはチューリップだろう。みんなよい図案になっていた。絵ごころがあるのはうらやましい。  表参道から広尾まで、ゆっくり歩いても麻美と約束した時間に間にあうだろう。骨董屋《こつとうや》や画廊のウインドーをのぞきながら歩道を踏んだ。  西麻布《にしあざぶ》の交差点を右へ曲がった。広尾はここ数年のうちに急速に開けた町である。日赤病院寄りの空地には巨大なマンションが建ち始めている。麻美が告げた書店も新しいショッピング・ビルの中にある。廊下がそのまま本屋になっているような開放的な作りだった。 「こんにちは」  グリーンのセーターに白いキュロット。サングラスを額にあげて麻美は雑誌を読んでいた。 「お元気でした? 旅へはいらっしゃったんですか」 「うん。北陸のほうへ、ちょっと」 「金沢ですか」 「ついでに能登のほうも」 「ああ、ほんと」  どちらが誘うともなく階段を降りて外へ出た。大通りは歩道も溢《あふ》れるほどに人が出ている。 「日曜日はとってもにぎやかなの。にぎやかすぎちゃって」 「急に住宅が増えたからなあ」  並んで歩くのがむつかしい。麻美のあとを追って裏手の道へ入った。 「さっきのお花、お電話で言ってらしたの。摘みました?」 「いや。忘れたわけじゃないんだ。人通りがあって盗めなかった」 「こらッ、なんて言われたら、みっともないですもんね」 「たしかに豆の花に似ていたよ」  広尾神社の奥まで入ったところで、 「あれじゃないかしら」  と麻美が指をさす。  枝ぶりは少し細いが、そっくりの花が木にしがみついて連なっていた。 「うん、あれだ」 「じゃあ花蘇方。まちがいないわ」 「毛虫みたいだろ」 「厭《いや》だあ。そんなふうに思ったこと、一度もなかったわ。茶花にも使うのよ」 「色は鮮やかだけど」 「私は大好き、この色。このあいだ、こんな色のスーツを買ったばっかり。もう少し地味かな」 「似あうよ、きっと」 「黒とあわせようかなあ」  啓一郎に花蘇方を見せるためにわざわざ遠まわりをしたらしい。もとの道に戻って有栖川公園へ入った。大通りほどではないが、この公園も混んでいる。子ども連れはもちろんのこと、うららかな春日和とあって、若い二人連れや中年夫婦の姿も見える。 「花はなんのために咲くのかな」  法子に聞かれた質問を麻美にも問いかけてみた。 「花は散るために咲く、らしいですよ」  ようやく花の色を映し始めた桜の枝を見あげながら麻美が答えた。 「どういう意味だろう」  いわくのありそうな言葉だが、もう一つ意味がつかめない。 「散るからこそ美しいんじゃないかしら」 「ああ、そうか。花は散るために咲く……有名な人の言葉?」 「知りません。お花の先生から聞いたわ。それが頭の中に残っていて……」  咲いて散るのが花の宿命だ。それゆえに美しい。そうだとすれば、花は散ることにこそ価値がある。散るために咲くのかもしれない。 「なるほどね」  啓一郎はひとりでうなずいた。麻美のほうは、しきりに首をまわして花のありかを捜している。ここは思いのほか敷地の広い公園だ。池には鍵型《かぎがた》の橋がかかり、小さな滝も落ちている。土の階段を踏み、築山《つきやま》に登った。 「あれは、なんだ?」  木の枝に白い花がまばらについている。 「花水木《はなみずき》。もう咲き始めているのね」 「あれが花水木か」 「花の薄赤いのも、あるのよ」 「ふーん」  築山の頂上は広場になっていて、よちよち歩きの子どもがしきりに鳩《はと》の群れを追っている。乗馬姿の黒い銅像があった。 「この公園の主人公ね」 「そうらしい」  啓一郎は真下まで行って、馬の下腹をのぞきこむ。 「なーに?」 「いや、べつに」  学生の頃《ころ》に楠木正成《くすのきまさしげ》の乗っている馬は雄か雌か、賭《か》けをしたことがある。皇居前の銅像には、ちゃんとその印が鋳《い》こんである、と主張するやつがいたからだ。勝負を決するために、わざわざながめに行った。驚いたことに馬の像にははっきりと雄の印が鋳造されていた。  以来、馬の像を見るたびに、啓一郎はちょっと腹の下を確かめてみたくなる。法子が相手ならこんな笑い話も気軽にできるが、麻美にはやめておこう。 「あれはパンジー」  図書館の近くに花壇があった。啓一郎がおどけながら指さす。 「ご名答。じゃあ、こっちは?」 「ひな菊かな」 「小さいけど、そうね。じゃあ、これ」  先生が生徒に尋ねる。 「朝顔じゃないよなあ」  形は少し似ているが、色がちがう。紫も赤も白も、もっと光沢を帯び、花弁もしなしなしている。 「ペチュニア」 「知らん、そんな花」  花問答をくり返していても、男女の仲は進まない。麻美はひとり楽しそうに笑っているけれど……。下り坂になって、ところどころに水溜《みずたま》りがある。土の傾斜は滑りやすそうだ。 「気をつけて」  腕を伸ばして麻美の手を取った。ぐらりと揺れて啓一郎の腕の中へ倒れこむ。髪の匂《にお》いが薫《かお》った。 「いやん」  叫びながら麻美が体を傾ける。啓一郎の掌《てのひら》がはっきりと胸のやわらかさをとらえた。麻美は首をすくめ、少し寄りそうようにしてから、体を離す。子どもたちが駈《か》けて来る。ジョギング・パンツの男も近づいて来る。 「公園ではボールを投げてはいけません」 「ええ」 「犬を連れて入ってはいけません」 「ええ?」 「でも、抱きあってはいけません、とは書いてない」 「ほんと。よろしいんじゃないですか」 「やりますか」  麻美が首を振る。手を繋《つな》いで歩いた。興奮がはっきりと啓一郎の体の中に昇って来る。  ——抱けるかもしれない——  指を折って麻美の掌に合図を送った。 「コーヒーでも飲みに行こうか」  昼下がりの公園は子どもが多過ぎて恋人たちにふさわしい場所ではない。 「ええ」 「さっきの本屋のとこ、いい店があった」 「あそこもいいけど……このへんはわりといい店が多いのよ」 「じゃあ案内して」  木立ちの向こうに細く、白い塔が見える。 「あれはなんだろう」 「モルモン教の教会があるらしいの」  それをはすかいに仰ぎながらテレビ局のほうに向かい、白と黒の装飾の目立つ店へ入った。壁は白、床は黒、椅子《いす》は白、テーブルは黒。サイケデリックな印象がある。 「トーストももらおうかな」 「お昼、まだでしたの?」 「お昼どころか、朝飯もろくに食べてない。これが第一ごはんだな」 「日曜日はいつもそうなの?」 「いや、普通は朝昼一緒みたいなのを食べるんだけど。あなたは?」 「私も一回こっきりのこと、あるわねえ」 「なにをしてるんだ、休みの日は?」 「結構時間がないのよ。お洗濯、お掃除、朝寝坊もしなくちゃいけないし」 「どう、半分?」  とトーストを勧めた。 「どんな味かしら。コーヒー以外とったことないから」  一切れだけ麻美が頬張《ほおば》る。啓一郎はコーヒーを飲み干し、タバコに火をつけた。 「喫《す》う?」 「いらない」  煙を吐き、真正面から麻美の顔を見すえて、 「あなたの部屋が見たい」  と告げた。麻美は視線をそらし、少し笑った。 「どうして?」  二つの答えが思い浮かんだ。「どんな部屋かと思ってね」「二人っきりになりたいから」前のほうは嘘《うそ》である。嘘ではないまでも不正確である。 「二人っきりになりたいから」  啓一郎は直截《ちよくせつ》な表現のほうを選んだ。  思考型人間によく見られるように啓一郎には向こうみずのところがない。勇気が足りない。決断の遅れるときがある。よく言えば、慎重。しかし機を逸することも多い。仕事の面では、さほど大きな失敗を生んではいないが、女性関係はどうしたものか。  ——もっと強引にやらなければいけない——  麻美に対しては、とりわけそんな反省があった。 「そう」  麻美はゆっくりと視線を窓のほうへ移した。啓一郎の知らない花が深紅に咲いている。 「きれいな赤」  とつぶやいてから麻美は、 「いいわ」  と答える。目が笑いに変った。そんな表情の変化がとても美しい。目尻《めじり》のしわまでもが上品に映る。 「じゃあ、行こう」  気が変らないうちに……。 「コーヒーくらい飲ませてくださいな」  麻美のカップの底には、まだコーヒーが少し残っている。 「どうぞ」  浮かしかけた腰をもとに戻して啓一郎はまたタバコをくわえた。言葉を捜し、 「なんの花?」  と、また花の名前を尋ねた。 「アンスリウム」 「よく知ってるなあ」  これは実感だ。聞けば、ほとんどよどみなく麻美は答える。 「仕事ですもの。自慢にもならないわ。行きましょ」 「いいよ」  伝票を取って立った。  マンションの位置はよく知っている。歩いて四、五分の距離だろう。麻美は両手をうしろで組み、人混みを肩で分けるようにして進む。男たちの視線が麻美に止まる。 「今日はお掃除がまだなの。わるい人が誘い出すもんだから」 「いいよ、べつに」 「キョロキョロ見ないでね」 「わかった」  低いゲートを通りぬけ、階段を三つ昇った。 「どうぞ。あ、待って」  麻美が靴を飛ばしてあがり、部屋のあちこちに散っているものを片づけた。それから、あらためて振り返り、 「おあがりください」  と身ぶりをそえる。 「2LDK?」  洋間に絨毯《じゆうたん》を敷き、テーブルをかねたこたつが中央を占めている。右手のドアのむこうは、多分ベッドルームだろう。 「そう。でも、ほとんどここ一つなの。狭いでしょ。散らかっているし」  部屋は鍵型に曲がり、奥が床続きのキッチンになっていた。 「ここにすわって。いろいろ見ちゃ駄目」  麻美がこたつの脇の座布団を叩《たた》く。 「紅茶でよろしい?」 「いいよ。おかまいなく」 「なんにもないのよね」  声に続いてキッチンのほうから水を注《つ》ぐ音、ガスをひねる音が聞こえた。啓一郎の目の前は本箱。文学全集や小説本。手近な位置には辞書、歳時記、それに生け花、茶道関係の実用書が乱雑に並べてあった。 「ろくな本がないでしょ。あんまり見ないで」 「見てない」 「近くに図書館があるから。あそこで結構まにあうのよね」 「それはいい」  マガジン・ラックに婦人雑誌が溢れるほどに差しこんである。その中の一冊をぬいて開いた。 「たいした生活してないのよねえ。だから、家にあげたくないの」  紅茶のポットにカップが二つ。皿にはクッキーが載っている。 「いい部屋だよ」  広くはないが、この界隈《かいわい》ではこれだけの部屋を借りるだけでも安くない。室内の飾りつけはむしろ簡素で、いくつかの鉢植えだけが目立つ。 「ブランデー、入れますか」  麻美もこたつの中に足を伸ばした。 「うん」  そこが麻美の定位置なのだろう。体をまわして手を伸ばせば、いろいろなものが取れる仕掛けになっている。ブランデーの壜《びん》もその一つ。典雅な香りが、狭い空間に流れた。 「動物、好き?」 「きらいじゃないけど、俺んちじゃだれも親身になって世話をしそうなのがいなくて」 「さびしいから飼いたいんだけど、出張なんかも多いでしょ」 「なにが飼いたい?」 「犬……か猫」  麻美の頬が上気している。口数も少し多い。自分の部屋に男客をあげて、気持ちが高ぶっているのかもしれない。それとも、これが麻美の地で、外ではちょっと気取っているのかもしれない。 「恋愛のやりかたに犬型と猫型があるんだ」 「あ、そう?」 「犬型は人前でもはばからずにやる。だれそれが好きだって、みんなに知らせる。猫型は、闇《やみ》に乗じてこっそりやる。秘密の恋……」 「猫も結構はでよ。このへんも大変なの。シーズンになると」 「あなたはどっち? 犬型ですか、猫型ですか」  麻美があきれたような表情で啓一郎を見た。 「ご自身はどちら?」  答えにくい質問には、逆に問い返す。これは麻美の常套《じようとう》手段だ。 「猫型かな、どっちかと言えば」 「そうだと思ったわ」  麻美がうなずく。啓一郎は腕をこたつの中に伸ばして麻美の手をさぐった。  つい一時間あまり前、本屋の店頭で麻美に会ってから、啓一郎は何度も麻美の顔を見た。正面から。横から。ななめから。気まじめな顔。笑っている顔。口をとがらせている顔。どの瞬間もみんな、  ——美しい——  と思った。  ——俺はこんな美しい人と一緒にいるんだ——  心の底からこみあげて来る快感を自覚した。  ——時間よ、止まれ。この一瞬のためにすべてを失ってもいい——  と、少し大げさだが、そんな気分も遠くないとさえ感じた。  ——本当に、そんなに美しいだろうか——  当然その疑問もあった。美しい人であることはまちがいない。ただ�だれよりも�ということになると、異論はおおいにあるだろう。つまるところ、啓一郎にとって麻美《あさみ》はとりわけここちよい造形の持ち主なのだろう。目の表情も。鼻の形も。唇の線も。耳のあたりでちょっと左右に開くような、髪のうねりもいとおしい。  ——俺は今、そんな女と一つ部屋にいるんだ——  こたつの下で細い指をたぐった。麻美は視線をそらしている。隠れた手首は、啓一郎の動作に応《こた》えるわけでもなく、さりとてさからうわけでもなく、力を抜いたまま自由にゆだねている。今、これを引き寄せたらどうなるか。  さまざまなイメージが啓一郎の脳裏をかけ抜けた。次の情景を予測するのはやさしい。おそらく麻美は阻《はば》むまい。  むしろ啓一郎が心に描いたのは、そっと罠《わな》を仕かけてうかがっているかわいらしい小動物の姿だった。女はひよわな様子を装っているけれど、見かけどおりにかよわいかどうかわからない。無邪気な顔つきで、きびしい計算をはじいている。  ——さあ、どうぞ。でも、ここは結婚式の入口ですよ——  麻美はそう考えているだろう。  ——人生は、点の連続だろうか——  啓一郎の中におかしな思案が浮かぶ。さっきから一瞬、一瞬、麻美を美しいと思った。すべてを犠牲にしてもよいと考えるほどここちよかった。もし麻美と一生を暮らすとして、人生はその瞬間の連続として経過していくのだろうか。  そんな気もする。  そうではないような気もする。  職場の同僚の言葉を思い出した。 「女房なんてもんはなァ、面倒くさくないのが一番だよ。顔なんか表と裏とわかるくらいなら、それでかまへん」  結婚生活には、そういう側面もきっとあるだろう。顔を見るたびに、いちいちドキドキしていたんじゃやりきれない。現実にはそんなこともあるまいが、ドキドキしなくなったとき、そこになにが残っているか……。  麻美は「あんまり速く歩かないでくださいな」と言っていたけれど、あれはなかなか巧みな牽制球《けんせいきゆう》だった。男は急いで体を求める。女は時間をかけてゆっくりと仕かけなければいけない。そのほうがうまくいく。  考えてみれば、男女の愛なんて不思議なものだ。親しさの極致でありながら、戦いの場でもある。美しいものの背後からふっとあざとい風景がのぞくときがある。 「あの花、わかりますか」  手を握らせたまま麻美がつぶやく。啓一郎の視線が窓辺に動き、また戻って麻美の顔にあう。  ——美しい——  またそう思った。今日の麻美はとりわけ美しいような気がする。 「知らない」 「ブーゲンビリア」  かすかな苛立《いらだ》ちを覚えた。  たしかに「花の名前を知りたい」と言った。嘘《うそ》ではない。そんな知識欲がないでもない。だが、とても弱い要求。むしろ麻美との共通の話題を求めてのこと。男の気くばり。相手にサービスをさせるというこちらのサービス。そこまで種をあかしては味気ないが、恋のさなかにはよく使われるテクニックの一つだろう。  あまり真正直に反応されては、少し白ける。言葉はわるいが、馬鹿《ばか》の一つ覚えのように麻美は花の名前を尋ねる。花のことを話す。  ——法子《のりこ》の呪詛《じゆそ》なのかもしれない——  法子を相手にしているときは、こんな苛立ちを感じることはない。小気味がよいほど滑らかに啓一郎の心を撫《な》でてくれる。  法子は言っていた。 「男の人って、たいてい目はいいけど耳はわるいわね」 「そうかね」 「そうよ。美人かどうかはすぐに見るけど、彼女の話までは、あんまりよく聞こえないみたいね。話をよく聞いていれば、つまらない女に入れあげることもないでしょうに」  あの切れ味は、ちょっとこわいところもあるけれど……。 「もっと大きい木かと思っていた」  顎《あご》でブーゲンビリアを指しながら啓一郎が告げた。指を折り、指先で麻美の掌《てのひら》を撫でながら。 「ええ。本当はそうなの。これは鉢植えだから」  麻美は手の握りに力を加えて応える。少しは返事をしなくちゃいけないかしら、とばかりに。 「きれいだ」  目は花よりも麻美のほうを見つめている。 「赤だけじゃないのよ。白も黄色も紫っぽいのもあるの。このごろは品種改良がさかんだから、いろんな色ができちゃうのね。よしあしだけど」 「なるほど」  ほとんど意味のない相槌《あいづち》を打った。キクン、と震えるような欲望が体の底から募って来る。  ——馬鹿らしい——  迷ってみても、このまま帰るはずはないんだ。進むよりほかにない。 「きれいだ」  もう一度同じ台詞《せりふ》をくり返して、一気に引き寄せた。  麻美は驚いたように身を縮めたが、引かれるままに啓一郎の膝《ひざ》に体を崩した。身を�く�の字に折り、男の腕に顔を埋める。褐色を帯びた滑らかな髪とグリーンのセーター。啓一郎は貝殻骨のありかを捜し、髪を掻《か》きあげ、首の細さを訪ねた。  しかし、このままの姿勢ではどうにもならない。麻美の体を起こさなければ次に進めない。  ——泥棒将棋ってのがあったなあ——  将棋の駒《こま》を乱雑に積みあげ、音をさせないように少しずつ抜いていく。どこからどう攻めたらいいか、作戦を立てる。乱暴に扱っては失敗してしまう。  腕を伸ばして胸のふくらみに触れた。一つを訪ね、もう一つを包んだ。麻美の手が胸の下で啓一郎の手首を捕え、握りしめながら動きを封ずる。  そのまま少し待った。男はもう一つの手で髪を梳《す》き、女の耳をさぐる。 「だめ、くすぐったい」  くぐもった声が聞こえる。思いのほか冷静な声だ。  胸の下に入った腕に力をこめて麻美の上体を起こした。顔があがれば、次の動作はやりやすい。こんなとき女がなにを考えているか、いつも男は読みきれない。若い娘なら頭が熱くなり、なにがなんだかわからないこともあるだろう。あるいは意識が遠くなったみたいに装っている人もいる。だが、思いのほか冷静な人も多いらしい。  ——さあ、上手にやってみせてくださいな——  そんな心で男を計っているのかもしれない。  顎骨《あごぼね》に手をそえ、麻美の額をあげた。目を閉じている。少し上気している。肩を抱きながら唇を重ねた。麻美の唇には自己主張がない。なにもかも啓一郎の動きにゆだねている。  麻美を抱いたままクレーンがゆっくりと荷物を降ろすように少しずつ背を曲げて絨毯《じゆうたん》の上に静かに体を寝かせた。麻美はそうなっても首を少し曲げ、やはり目を閉じ続けている。まっすぐ上から見つめた。耳のつけねに小さなほくろを発見した。 「好きだよ」  言い慣れない言葉が、思いのほか自然にこぼれた。だが、どこかに嘘《うそ》が含まれているようなうしろめたさは拭《ぬぐ》いきれない。この瞬間、たしかな真実として言えるのは「抱きたい」……それ以外は疑わしい。もしかしたら人はそれを「好きだ」と言うのだろうか。この入れ替えは許されるのだろうか。  麻美がぽっかりと目をあけ、下から見あげる。そして、 「うん」  とばかり顎を打って頷《うなず》く。  愛の動作は三章から成っている。  第一章は身を起こしたまま抱きあう。第二章は身を横たえて抱きあう。そして衣服を脱いで抱きあうのが、最後の第三章だ。  それぞれの章の中身は、似かよっている。大差はない。遠いところから核心のほうへ。弱くから強くへ。時折熱い言葉を伝えながら。一つの章が終わったら次の章へと進む。  啓一郎も第二章では、第一章をくり返した。目をのぞきこみ、閉じるのを待って唇を重ねた。唇を割り、舌先に触れた。寄りそって肩を抱き、腕に力を加えた。乳房のありかをさぐって、やわらかくもみしだく。 「好きだよ、本当に」  同じ台詞《せりふ》を告げた。微妙なうしろめたさも変らない。 �酒が好きだ��アメリカが好きだ��あなたが好きだ�三つはみんな同じ文脈だろうか。酒は一生好きであり続ける。アメリカは……今日好きでも明日変ることがある。最後の一つは、どちらに属するのか。笹田三彦《ささだみつひこ》が聞いたら笑い出すだろう。 「お前、女を抱いているときにも、そんなこと考えるのか。まあ、中座らしいけど」  声まで聞こえるようだ。  麻美にはもっと単純な男のほうがむいているかもしれない。ひたすら麻美の美しさを讃美《さんび》し、あがめ続けるような……。  男の手がセーターの下に入った。素肌が温かい。ブラジャーだけがゆるみのない防備を固めている。  ——麻美はいくつ恋をしたのだろうか——  二十七歳のときに婚約までした男がいた……。その男は今と同じように麻美の体をさぐっただろう。  ホックは背中のほうにある。一つをはずし、時間をおいてもう一つをはずした。布地の緊張がゆるみ、生身の女体が急に近くなった。 「速く歩かないでくださいって、お願いしたのに」 「とても我慢ができない」 「困るわ」  すでに男の掌《てのひら》は滑らかな乳房を捕えている。 「あなたがほしい」  今日は言葉がうまく喉《のど》を通り抜ける。それとも麻美の魔法にかかって、巧みにしゃべらされているのかもしれない。�さあ、いっぱい話してくださいな。あとで逃げ道がないように�  そんな気配が感じられなくもない。 「私、わがままよ」 「だれでもみんなそんなとこ、あるさ」  乳首がとても小さい。 「今の仕事も続けて行きたいし」  声はいつもの調子と少しも変らない。 「いいんじゃないのかなあ」 「家庭欄なんか担当しているけど、ぜんぜん家庭的じゃないみたい」  首をすくめて、くすぐったそうに笑った。  しばらく抱擁を続けたあとで、啓一郎はさりげなく腕を腰へと移した。麻美は体をねじって許さない。  ——よし、やるぞ——  荒い動作で障害を通り抜けなければいけない。男と女のあいだには一度はそんな関門がある。蹂躙《じゆうりん》のつぐないは、そのあとのやさしさで補えばいい。啓一郎はこたつを出て強引に麻美を組み伏せた。上からしっかりと抱き敷いた。 「困るわ」 「あなたがほしい」 「ちょっと待ってくださいな。乱暴なのね」  声は落ち着いている。なじるような響きがある。 「ずっとあなたのことを考えていた」 「でも……」  麻美の手が啓一郎の手首を握っている。振りほどくことはできるが、握りの強さは麻美の意志を伝えている。 「ゆっくり行って下さいって言ったのに……」 「どうしても抱きたい」 「今日はよして」 「どうして?」 「もう少し待って。もっとすてきなところで……」  その気持ちがわからないでもない。星の降る高原のホテル。潮騒《しおさい》の響く海辺のコテージ……。 「いつならいいんだ?」 「とにかく少し待って」  言葉で逃げようとする気配が感じられた。それならば逃してはなるまい。 「困ります、本当に。今日はいけないの」  堅く、けわしい響きがある。 「なぜ?」  聞きながら力をゆるめると、麻美はスルリと腕をくぐり抜け、こたつの中にすわりなおした。 「今日はいけないの」  きっぱりと告げた。それだけで理解しなければいけない強さが含まれていた。女には体調のわるい日がある……。 「うん」  男は曖昧《あいまい》にうなずくよりほかにない。  この場の、どこかちぐはぐな雰囲気をとりつくろうほうに思案をまわさなくてはいけない。ベージュのジャケットの胸に長い髪の毛が一本まとわりついている。それをつまんで、 「あなたの髪らしい」  とさし示す。 「乱暴するからよ」  なじるように笑っている。だが、怒っているわけではないらしい。 「あなたがほしい」 「せっかちなのね」 「そうでもない。あなたに関してだけはせっかちなんだ」  香港《ホンコン》で会ってから半年あまり。これはせっかちだろうか。 「私、遊びで恋愛ができないたちなの」 「僕もそうだ」  ほとんど迷うことなく啓一郎はそう答えた。答えてから、  ——本当にそうかよ——  もう一人の自分が尋ねる。  法子との関係は遊びではない。薫《かおる》との関係は……もはや恋愛ではない。その意味では「僕も遊びで恋愛はできない」と答えたのは、嘘ではなかった。とはいえ、ほかの人には通用しにくい理屈だろう。とりわけ麻美にはむつかしい。  麻美が「私、遊びで恋愛ができないたちなの」と言った、その意味は明白である。「つきあうなら結婚を前提としてください」と告げているのだ。  麻美は乱れた髪を両手で整え、それからこたつの上で指を組み、クルリと掌を返しながら、 「よかった」  とつぶやく。  ——なにが�よかった�のかな——  体を交えなかったことだろうか。それとも�遊びで恋愛ができない�と言ったのに対して啓一郎が了承を示したからだろうか。簡単に「よかった」と言われてしまっては釈然としない。  だが、異論をはさむ意欲は萎《な》えていた。今夜は収穫がまるでなかったわけではない。明日からはこの部屋で会う機会も多くなるだろう。遠からず自然に体を重ねあうときも来るだろう。啓一郎だって、肉の欲望だけで麻美を抱きたいわけではない。恋の過程の陣取りゲーム。その一つとして抱こうとしただけだ。 「紅茶、さめちゃったわね」  麻美が立ってキッチンへ行く。  もうとうに夕食の時刻は過ぎている。下北沢の家では、父とひろみが二人だけで食事をすましただろう。 「啓一郎はどこへ行った?」 「昼過ぎに出ていったわ。散歩ですって」 「長いな」 「お兄ちゃんはこのごろ挙動不審よ」  そんな会話を交わしているにちがいない。  保子《やすこ》の方はデートを楽しんでいるところ。まさかホテルで抱きあったりしてはいまい。昨今は世の中がすっかり淫《みだ》らになってしまったが、保子たちのやっていることのほうが正常なんだ。結婚の約束もないままに、みだりに抱きあうのは、少し狂っている。狂ってないまでも例外に属することなんだ。あながち麻美をせめるわけにはいかない。まして今夜は体調もわるいらしいし……。 「ご飯どうする?」 「食べに行きますか?」 「いいよ」 「見送りついでに出るわ。近所の洋食屋さん?」 「いいよ」  先に啓一郎がドアを出て道をゆっくり歩いていると、麻美が追って来た。  案内された店はレストランと呼ぶより洋食屋のほうがふさわしい。この界隈《かいわい》の独身者やニュー・ファミリーが利用している。奥の席だけがあいていた。 「ロール・キャベツがおいしいのよ」 「ロール・キャベツ? しばらく食べなかったなあ。俺もそれにする」  麻美の食は細い。その注文にあわせて啓一郎もパンとロール・キャベツを頼んだ。グラス・ワインを一ぱいずつ。 「これは矛盾に満ちた料理だな」 「そうなんですか」 「うん。料理人は苦労をしてキャベツを巻く。それなのにお客のほうは、それをほどいて食べたりして……。巻くのに苦労し、巻いたまま食べるのに苦労して」  これは保子の言いぐさである。啓一郎の家で食べるロール・キャベツはキャベツが離れやすい。だから食べにくい。苦情を言うと、 「巻くほうだって大変なのよ」  と来る。それならはじめから中身と皮とべつべつに煮たらいい。  ナイフとフォークを使いながらそんな家族の様子を語った。麻美は笑って聞いているが、目のふちには疲労が宿っている。体調がわるいのは本当だろう。洋食店を出て、もう一度マンションの前まで送って行って別れた。 「ごめんなさい」 「また近いうちに」 「ええ」  地下鉄の広尾駅へ向かった。  ——ついてないな——  今ごろは麻美の体を貫いていたかもしれないのに……。そのくやしさはやはり残っている。  ——結局は麻美と結婚することになるのかな——  そんな針路が少し見えて来る。さぞかしきれいな奥さんになるだろう。 「待ってたかいがあったな」  友人たちのそんな声が聞こえる。毎朝毎晩、麻美を見るのは楽しいだろう。 「でも……」  タバコに火をつけながら独りごちた。次に続く言葉がない。頭の中の会議場は、まだ採決の段階に達していない。反対意見もはっきりとしないまま「でも……」という声だけが聞こえる。  父が先日保子に告げていた。 「半年もつきあってみれば、だいたいのことはわかるもんだ。結婚してみて�あ、こんなところがあった�って、まるっきり新しい欠点を発見するのは、めずらしい。はじめから見えていたんだ。見えているのに、よく見ていない。それが結婚して急にはっきりと見えて来るんだ」  あのときは、  ——そう言われたって、結婚前は見えないんだから仕方がない。親父《おやじ》も馬鹿なことを言うな——  そう思って聞いていたが、あれは麻美にこそよく当てはまるのかもしれない。美しさがたいていのものを見えなくしている。突然、きびしい声に変るときがある。今夜だって「今日はいけないの」と最後に告げたときは、本当に麻美かと疑うほど冷たい響きだった。拒否するにしても、もっと温かい言い方があるだろうに。  先輩や友人の家を訪ねて、美しい奥さんに出あうことはある。だがかならずしも家庭が幸福そうに見えないケースも多い。そんな夫たちは、少し後悔しているのではあるまいか。  啓一郎は広尾の駅前にまで来ていた。家に帰る気がしない。歩道の脇《わき》にタクシーが空車のランプを赤く光らせている。啓一郎は手をあげた。ドアが開く。シートに滑りこみ、 「曙橋《あけぼのばし》へ」  と告げた。  ——よくない——  みすみす悪路と知りながら踏みこもうとしている……。曙橋には薫の新しいマンションがある。誘われて一度だけ顔を出した。 「今度は母とべつべつなの。そのほうが中さんも来やすいでしょ」  薫はまるでそのために借りたような口ぶりだった。その代償に一カ月分の家賃を寄付させられた。啓一郎としては、家賃を与えたつもりはない。クリスマスのプレゼント……名目はそのつもりだったが、薫のほうが勝手に、 「来月も手伝って」  などと、こわいことを言っている。  どう考えてみても、よくない。釈然としない。�かとれあ�にも、しばらく行っていなかった。薫からは時折電話がかかって来る。 「いらしてよ。お借りしたお金のこともあるし……」  本当に返す気があるのだろうか。駄目《だめ》だろうと思いながら、心のどこかで返済を期待している。  催促も何度かした。そのたびに薫《かおる》は、どうして返せないか、どんなに店の経営が苦しいか、もう少し待ってくれればきっと耳をそろえて返済する、と、しおれた花のように恐縮して訴える。わざわざそれを言わせるのも、あざといような気がして、このごろは催促もしない。その間隙《かんげき》をうまくつかれて、先月は家賃の分までせしめられてしまった。どうしてそんなふうになるのか。あとで考えると、われながらさっぱりわからないのだが、薫と一緒にいると、  ——まあ、いいか——  ゆるんだ気分におちいる一瞬がある。正直なところ、啓一郎の心はすでに決まっていた。貸した金のことはもういい。ただ、そのぶんと言っては話が露骨になるが、もう二、三カ月楽しく遊ばせてくれたっていいではないか。  車が曙橋の交差点に近づく。 「そこを左に曲がって。そう、その看板のところで止めて」  マンションの少し手前で降りた。今日は日曜日。�かとれあ�は休みである。  ——薫は家にいるかな——  このまま帰るのが得策と思いながらも足は磁石に引かれる。  ——男はどうしてこうなのか——  そんな思案もさして意味がない。  マンションの暗い廊下。急ぎ足で薫の部屋の前まで来て啓一郎の足が止まった。  ——だれかいる——  わけもなくそう思った。話し声が聞こえたわけではない。空気がそう伝えている……。  ——おおいにありうることだ——  考えないほうが迂闊《うかつ》だった。玩具《がんぐ》会社の男かもしれない。そのほかにも�かとれあ�のカウンターで遅くまでしつこくねばっている客が何人かいる。そんな顔が浮かんだ。  急にドアが開いた。  狼狽《ろうばい》と安堵《あんど》が交錯する。  幼い女の子が現われ、それを追って年かさの女が姿を見せた。 「車、すぐに見つかるわよ」  そのあとに薫の顔がのぞく。廊下が暗くて、すぐには啓一郎に気づかなかったらしいが、 「あら」  とつぶやく。 「どうしたの?」 「うん、ちょっと」  子どもが首を真上に向けて啓一郎を見ている。 「ママ、だれ?」  はっきりとそう尋ねた。 「いいのよ」  叱《しか》るような調子で告げてから、年輩の女を指し、 「うちのお母ちゃん。こちら中座さん。いつもお世話になっているかた。話したでしょ」  啓一郎と母親を交互に見ながら紹介した。 「中座です」 「薫がお世話になっておりまして……よろしくお願いします」  ひどく丁寧にお辞儀をする。啓一郎のほうが顔をあげても、まだむこうは深々と頭を垂れている。薫は子どもの手を取り、 「さ、帰りなさい」  と言い、それから啓一郎のほうを向いて、 「今、下まで送って来ますから。中に入っていらして」  とドアを開けた。 「でも……」 「すぐ戻るから」  母親と女の子を追いやり、サンダルをパタパタ鳴らして階段を降りて行った。  ——どうしよう——  とりあえずドアの中に入った。  リビングルームのテーブルに、茶わんが二つと、氷だけが残ったグラスが置いてある。菓子皿の菓子が散乱している。  ——子どもがいたのか——  種を明かされてみれば、さほど意外ではない。どことなくそんな気配はあった。サンダルの音が響き、ドアが開いた。 「暖かくなったわね」 「ああ」 「ごめんなさい。汚れてるでしょ」  そう言いながら啓一郎の胸に飛びつき無理矢理唇を重ねる。 「冷たいんだからあ。ちっとも来てくれなくて」 「いそがしいんだ」 「嘘《うそ》。今は製鉄業界ひまなんですって」 「不景気だけど、かえっていそがしいんだ」 「そう。ならいいけど……。驚いた?」  すくいあげるような視線で啓一郎を見た。 「う、うん。まあ、驚いた」  薫は椅子《いす》の端に腰をおろし、はすかいに茶わんの図柄をながめながら、 「言おう、言おうって思っていたんだけど、中さんに怒られそうだから……」 「なんで俺《おれ》が怒るんだ?」 「いやでしょ、やっぱり」  話がどことなく噛《か》みあわない。  薫に子どもがいる——知らないことを、突然まのあたりに見せられて少しは驚いたが、  ——ああ、やっぱり——  と納得した部分もある。怒るほど驚くことではない。啓一郎が真実薫を好いていたら、話はべつだろう。女に子どもがあること、それを知らせずに今日までつきあってきたこと、どちらも怒りにあたいする。薫は疑うそぶりもなく、その前提に立って話をしている。「いやでしょ、やっぱり」という言葉も、その延長線上にある。 「べつに」  啓一郎は天井のすみを見あげながら答えた。きっぱりと告げて前提そのものを否定しておかなければいけない。  ——どういう頭の女なのか——  前にも不思議に思ったことがあった。IQの高い人ではあるまい。学校の成績は多分よくなかっただろう。本など読むことがあるのかどうか。同じ話を何度もくり返して話す。ウィットのきいた話は理解できない。知識もとぼしいし論理性も欠いている。そのくせあなどりがたい知恵が頭のどこかにチャンと潜んでいる。策略をめぐらすのではなく、ポカンとつぶやくと、それがりっぱな策略になっている。相手を油断させ、  ——それくらいのことなら、目くじらを立てなくていいか——  そんな気分に誘いこむ。今だってうっかり話していると、�啓一郎が薫にほれこんでいる�と、そんな前提が、一つ一つ裏づけされ、否定するのがむつかしい雰囲気になりかねない。 「あの子見ました?」 「うん。いくつ?」 「六歳。今度、学校。私立に入れるの。贅沢《ぜいたく》だけど、そのほうがあとあと面倒がないでしょ」 「うん」 「小学校は、私立でも近所に住んでないと、入れてくれないのよ。それでおばあちゃんと世田谷へ行ってもらって……」 「ああ、そうか」 「これで離婚ができるわ。父親がいないと、私立って入れてくれないでしょ」 「へえー、そう?」 「そうよ」  私立校の方針はともかく、薫の考えは見当がついた。結婚の経験があると言っていた。夫とはとうに不仲になっているのだろうが、子どもの学校のことを考えて籍はそのままにしておいた。おばあちゃんと二人で、学校の近くに住まわせ、薫はそこと曙橋の部屋とを行き来する。 「あの子、中さんに似てるでしょ」  ポツンとつぶやいた。 「馬鹿《ばか》なことを言うなよ」  薫と知りあったのは、ほんの一年ほど前のことだ。女の子は六歳になる。 「でも、そうよ。見てるとそう思うわ」 「馬鹿らしい」  笑い飛ばすよりほかにない。 「とっても聞きわけのいい子。おつむもわるくないみたい」 「いいじゃないか」 「ええ。ごめんなさい。お茶いれます? ビールのほうがいいかしら」 「よかったのか、急に来ちゃって。電話をかけようと思ったんだが」 「いいわよ。でも、いないときもあるから……お電話をしてくれたほうがいいみたい。この次はそうして」 「ああ」  薫は冷蔵庫からビールを取り出し、コップを二つ並べて注《つ》ぐ。 「店のほうはどうなんだ?」 「まあ、なんとか。ちっとも来てくれないんだから」  薫が椅子を寄せる。ビールを飲み干して啓一郎の胸にすがりつく。 「大西さん知ってるでしょ、店のお客さん」 「玩具屋の人?」 「ええ。中さんとあやしいって、そう言われたわ」 「彼こそあやしいんじゃないのか、あんたと」  薫はいたずらでもするような手つきで啓一郎のシャツのボタンをはずす。 「へんなこと言わないでよ。古くからの顔見知り。中さんと一緒になればいいって……」  それはむしろ薫自身が流している噂《うわさ》だろう。大西がどういう男か知らないけれど、一通りの分別を持った男が、本気でそんなことを言うはずがない。  二つ目のボタンがはずれた。  ——今夜が最後かな——  けっして深入りをしていい女ではない。抱いたあとには、きまってなにかしら要求される。初めのうちは、ただの偶然かと思っていたが、薫の頭の中には、抱かれた以上は、その代償はいただくと、はっきりとした構図ができあがっているらしい。それが見えて来た。  三つ目のボタンがはずされるのを待って、薫の腕の下に手を入れて立たせた。くるりとうしろを向かせて、背中のジッパーを一気におろした。ホックをはずし、肩を抜いた。ワンピースが滑り落ちる。  苛立《いらだ》ちをまじえた、荒々しい興奮が体の中を駈《か》けのぼって来る。スリップをたくしあげ、ブラジャーのホックをはずした。背後からパンティをむく。スリップ一枚の姿にしたところで、前を向かせた。  けっして豊満な体ではない。乳房も小さい。目を見張るような美しい裸形ではない。だが、肌が滑らかだ。抱きしめると、しっとりとここちよく吸いつく。愛撫《あいぶ》を加えれば、全身が妖《あや》しい生き物へと変っていく。  これまでに何度も薫の体を抱いた。二十回を超えているだろう。それなのに、まだわからないところがある。歓喜の果てを尽したという実感がない。  薫の喜びはどこまでも深くなって行く。攻めても攻めても、ここが最後と思うところがない。啓一郎のほうが、たまりかねて奔流に身をまかせてしまう。  人は、女性の頭のよさ、心のよさ、姿のよさをよく口にするが、内奥《ないおう》の妖しさについては、広く評価するすべを持たない。  情事が始まれば薫はたちまち油紙のように燃え立ち、そしてコークスのように長く燃え続ける。どこかが法子《のりこ》とちがっている。それをどう説明したらいいのだろうか。  男がいる。女がいる。そして二人が抱きあう。男である啓一郎には女の喜びを実感することができない。表情や身ぶりから察して、  ——男はかなわない——  と思う。とはいえ、法子の歓喜は、まだ男の理解の範囲に属している。見当がつかないほどの喜びではない。だが……奇妙な言いかただが、薫の場合は、  ——これは……ちがうな——  そう思ってしまう。魔性に足を踏み入れている、と、そんな感触を覚えてしまう。女体は喜びの中でみずからどろどろに溶け、その余勢で啓一郎までも溶かしてしまう。  ——薫は自分の体の特徴を知っているのだろうか——  引き潮の中で啓一郎は考えた。  ——多分知っているだろう。どの男かが、そのことを薫に知らせたにちがいない——  いったん自分を抱いた男が、そう簡単には離れられないことを薫ははっきりと自覚しているのではあるまいか。  薫は余韻に浸っている。啓一郎は体重を軽く預けたまま思案をさらに広げた。  どんな生き物も、生きて行く武器を持っている。命を守る手段を持っている。鋭い牙《きば》、速い足。亀《かめ》の甲羅《こうら》、カメレオンの変色。ナマケモノは、敵の攻撃意欲をそぐようなテレパシイを発するというではないか。人間だって同じことだ。薫はとても頼りない。商売のうまい人には見えない。わけのわからないことを平気でやる。嘘《うそ》もつく。それでも当人は、  ——私は大丈夫なの——  開きなおっているところがある。よりどころを持っているから。その効果を知っているからだろう。どの道、人間はなにかを売って生きているんだ。薫だけが特別なわけではない。  啓一郎は苦笑を噛《か》み殺した。  お金を貸したことだって、薫の体に引かれたからではないか。つまり内奥の妖《あや》しさに執着があったから……。ほかの女だったら、あんなことはしない。 「タオルを貸してくれ」  啓一郎が体を起こした。 「この部屋、中さんのために借りたのよ」  薫は手早く衣裳《いしよう》を着てから、ビールの残りを二人のグラスに注いだ。もうなまぬるくなっている。 「なんで、そんなことしたんだ」 「そのほうがいつでも会えるじゃない。泊まってもいけるし」 「頼みもしないのに」 「お借りしたお金、半分はこれに使ったのよ」  なるほど。理屈はこう繋《つな》がって行くのか。部屋は中さんのために借りた。借金はそのために使った。ゆえに返済する必要はない……。三段論法だろうか。 「どの道、返せないんだろ」 「もう少し待って。今は苦しいのよ」 「まあ、いいさ。返せるときに少しずつでも……」 「今月の家賃も払ってないわ」 「ふーん」  さして飲みたくもないビールをのどに流しこんだ。 「前はもっとやさしかったわ」 「そうかなあ。変らないつもりだけど」 「私、だれとでもこんなことするわけじゃないのよ」 「わかってるよ」 「中さんのこと、好きなのに……」 「一人でどんどん進みすぎるんだよ、あんたは」  薫は両手を膝《ひざ》の上に伸ばし、首をうなだれている。肩に手をかけてやりたい衝動を覚えたが、 「帰るよ」  時計を見ながら立ちあがった。 「泊まって行けば……。お母ちゃんも�いいかたね�って言ってたわ」 「いや、帰る」  ジャケットをはおって玄関へ出た。下駄箱《げたばこ》の脇《わき》に靴べらがつるしてある。さっきは麻美《あさみ》の部屋では靴べらがなくて困った。靴べらは、男の客のためのものだ。ここにあるのはなぜだろう? 「じゃあ、さよなら」  薫は椅子《いす》にすわったまま体をねじった。 「もう来ないつもりなのね」  どうしてそれがわかるのだろうか。 「そんなこと言ってない。とにかく店には行くよ」  薫が椅子を立った。 「ねえ、一週に一度でいいから来て。さびしいもの」 「考えておこう」 「いやよ。絶対に来て。電話していい?」 「いそがしいからなあ。店に行くよ。さよなら」  ドアを開け、目顔で�おやすみ�を告げ、外へ出た。  ——地下鉄で高田馬場へ出るか——  あと味のいい別れではなかった。薫の様子がひどくあわれだった。悪意があるとは思えない。啓一郎が来てくれればいいと、そう思って部屋を借りたのは本当かもしれない。男が泊まりこみ、住みつき、やがてずるずると一緒になってしまう。それが薫のやりかたなのだろう。  月曜から水曜まで、部長の海外出張を前にしていそがしい日が三日続いた。十二時近くまで残業して資料を整えた。そのあいだに薫から二度電話がかかって来た。  麻美には、こちらから電話をかけた。週末は京都へ取材旅行に行くとか。 「会いたいなあ」 「来週くらいかしら」 「うん。またうまいものでも食べよう」  そんな約束を交わした。 �かとれあ�のほうは、どうしようか。しょんぼりとしていた薫の姿を思い出す。しばらくは、つかず離れずの状態がいいのかもしれない。  木曜日の夜、七時少し前に仕事を切りあげ、徒歩で丸の内会館へ向かった。保子《やすこ》と、保子の恋人と、三人で食事をする約束だった。  暮色の中で皇居の黒い森が美しい。濠《ほり》と道とを挟んで、こちら側は乱立する現代的なビルディング、むこう側は古色の森、その対比がおもしろい。この界隈《かいわい》は東京でも一番美しいところだろう。保子たちはロビーで待っていた。 「志野田|弘《ひろし》です」  保子が紹介するより先に、男のほうが立って名前を告げた。 「兄の啓一郎です」  保子が笑いを噛《か》み殺したような、少しこわばったような、中途半端な様子で二人を見ている。 「どうぞ」  啓一郎が先に立って階段を昇った。二階にレストランがある。保子と志野田は並んでうしろからついて来る。  ——これが保子の好みなのか——  保子にはこれまでにもいくつかよい縁談があったのだが、みんな断わって来た。ボーイフレンドもいたようだが、それも実らない。保子の台詞《せりふ》はいつもきまっている。 「八十点以上だと思うけど……なんでこの人が、私の……って思うとピンと来ないのよね」  その気持ちはよくわかる。今度はよほど�ピンと来た�らしい。知りあって日も浅いのに、うちとけている。  志野田という男については、おおむね予測が当たっていた。まじめそうな男。いかにも技術者らしい風貌《ふうぼう》だ。ハイヒールをはいた保子と比べてほとんど同じくらいの背たけ。漠然と、もっと背の高い男を想像していたので、そこだけが意外だった。 「中座ですが」  とマネジャーに告げた。予約をしておいたので席は奥まったところにとってあった。 「どうぞ」 「はい」  志野田は少し緊張しているようだ。 「いそがしいですか」 「ええ、まあ」 「今は、おもにどんなことを?」 「照明関係が専門なんですが……」  仕事の話をしているうちにメニューが届いた。 「どうぞ、好きなものを」 「はあ」  志野田はメニューをながめて戸惑っている。 「どれがおいしいのか、わからない」  頭に手をのせて、少年のように無邪気だ。正直な性格らしい。  どこかの会社では入社試験に飯を食べさせるとか。食べ方に育ちや性格が現われる。その話を聞いたとき、啓一郎としては、  ——いやなやり方だな——  そう思ったが、このごろはお客と一緒にテーブルにつくと、意識のどこかでそんな目が光るようになった。さほどの悪意はないつもりだが、だれと食事をしていても相手の人がらを考えてしまう。 「お肉がいいんでしょ、単純明快で」  保子《やすこ》が助け舟を出す。 「そうなんです」 「じゃあ、それがいい」 「サーロインになさいよ。私、ヒレ肉をいただこうかしら」  上目遣いで兄の承諾を求めた。  ——お金、ないんでしょ——  ——馬鹿にするな。好きな物を食え——  と、にらみ返す。保子は、どちらかと言えば魚料理が好きなはずだ。このレストランも、魚のほうがよく知られている。ヒレを注文したのは、志野田に気を使ってのことだろう。なかなかいじらしい。  数年前保子の初めての見合いを聞いたときは、  ——女はこんな気分で見合いをするのか——  と、あきれるほどいい加減なものだった。 「試しね。お相撲だって、仕切りなおしがあるじゃない」  相手に料理だけおごらせて帰って来た。昨今は保子の仕切りなおしも大分進んだようだ。 「俺《おれ》はブイヤベースにする」  メイン・ディッシュがきまれば、あとは自然にきまる。赤のボルドー・ワインを一本頼んだ。 「太陽エネルギーの備蓄はできそうですか」  志野田の専門は、その方面に近いと聞いた。 「ええ。三通りか四通り、方法があるんですけど……どれもまだ実用には無理があって」 「太陽熱発電てのが、あったでしょ。四国かどっかで……。ポスターで見たわ。鏡がいっぱいあって」 「仁尾町《におちよう》です。あれは、まあ、単純な理屈ですから」 「保子はおぼえてるかな。昔、うちにへんな童話の本があっただろ。大きな国と小さな国があって、小さな国が攻められそうになる。戦争になったら小さな国がかならず負けるから、なんとか対策を立てなくちゃいけない。それで、大きな国に対して、ここは攻めるにあたいしないほど馬鹿者《ばかもの》ばかりの国だ、そう思わせるのが一番だってことになって、みんなで馬鹿のまねをする」 「あったわねえ、そんなの」  ワインが保子の顔を赤く染め始める。 「大きい国のスパイが小さい国へ行ってみると、みんなが太陽に向けて箱の口を開けている。なにしてんのかと思ったら、昼のうちに太陽の光を箱に入れておいて夜になったら蓋《ふた》を開いて使うんだって……」 「ああ、そうね」  保子がうなずく。 「しかし、今になってみると、あれは馬鹿者の国の発想じゃない。志野田さんたちも、それを考えているわけでしょ」  志野田は大まじめな顔で聞いている。 「はい、そうなんです。私は今、直接はタッチしておりませんけど」 「石油はどの道いまになくなるんだし、原子力は危険がつきまとうし……太陽熱をうまく利用できれば一番いいんだがな」 「とくに日本はそうです。たいていの資源がないんですから」 「できそうですか、二、三十年くらいのうちに」 「やるんじゃないですか、日本の技術者は」 「鏡の国じゃなくて、もっと能率がいいのね」  保子はまだ鏡にこだわっている。 「もちろんです」  もう少し家庭的な話題のほうがよいのかもしれない。 「ご両親はお丈夫で?」 「はい。父は胃弱なんですけど、母はぴんぴんしてます。元気すぎて、周囲が困るくらい」 「とても明るいかた。日本のお母さんじゃないみたい」 「言えるな。山登りなんかに行っちゃうんだから。いい年をして」  志野田の言葉遣いが、保子に対しては少しくだける。  気まじめな夫、妻には威張っているが、その実、妻のほうが上手にあやつっている——そんな家族の風景が見えて来る。一番穏当な形。保子には向いている。家族でトランプをやっていても保子はそう無理をしない。無茶はできない。 「甘えん坊だったんでしょ」 「そうでもない。兄貴のほうがずっと、甘えてた」 「末っ子でしたよね?」 「そうです。四番目です」 「子どもって、一番目が一番よくて、二番目、三番目と少しずつわるくなるんですって。優生学的に見て……。それで、四番目くらいになると、また持ちなおすの」 「だれの説だ?」 「ひろみが言ってたわ」 「しかし、あれは獣医のほうだろ」 「人間もそうらしいわよ」 「じゃあ志野田さんは、いいわけだ」 「さあ、それはどうか……」  スープを飲み終わったところで啓一郎は小用に立った。  階段を降りながらロビーを見おろす。赤紫のスーツがロビーを横切って行く。  ——花蘇方《はなずおう》の色だな——  次の瞬間、キクンと神経が引きしまった。  ——麻美《あさみ》だろうか——  すでに蘇方の色はうしろ姿に変っている。そのうしろ姿はよく似ている。歩き方も、髪の形も、麻美にほとんどまちがいない。  女には男の連れがいる。並んでドアをくぐり抜け、二人は歩道に立っている。タクシーでも捜しているのだろうか。  啓一郎は階段を駈《か》け降《お》り、その位置で足を止めた。外の二人がふり返れば、すぐに中の様子が見えるだろう。気づくかどうかはともかく、その可能性は皆無ではあるまい。  左手の壁にそって進んだ。ガラス戸のむこうに二人の影が見える。お濠《ほり》ぞいの道へ向かうらしく、またうしろ姿になった。  ——麻美は蘇方色のスーツを買ったと言っていたが——  啓一郎も外に出た。歩道がせまいので見通しがきかない。足を速めた。  また鮮やかな色がのぞいて消えた。うしろ姿は、肩を寄せあい腕を組んでいるように見えたが、すぐに人の群れに隠れる。麻美と思ったのは、見まちがいかもしれない。  啓一郎が車道に踏み出して首を伸ばしたときには、二人は大通りの角に出て車を止め、すでに女が先に乗りこんだあとだった。日比谷《ひびや》の四つ角をさして走り去る。  ——麻美だな——  七・三のわりで賭《か》けてもいい。  ——いや、六・四くらいか——  身長はあのくらいだろう。細身のスタイルはよく似ている。だが、麻美は体形も着る物の趣味も標準的なタイプだ。うしろ姿だけなら、東京の街にいくらでもいる。蘇方色のスーツでなかったら、確率は五分以下にさがるだろう。  ——男は何者かな——  一階のティー・ラウンジで待ちあわせ、銀座か六本木へ行くコース、そんなスケジュールが浮かぶ。男と女が並んで歩いていたからといって、恋愛関係とは限らない。  ——今の二人はどうかな——  様子から察して、五分五分の可能性で恋人同士……。  女が麻美である確率が六十パーセント。連れの男が女の恋人である確率が五十パーセント。すると、あれが麻美で、しかもその相手が恋人である確率は三十パーセントになる。  啓一郎のほうは、麻美の部屋にまであがり、滑らかな胸にまで触れた。三十パーセントの可能性よりはるかにましな関係ではあるまいか。恐れることはなにもない。  街角に立っていても仕方がない。保子たちが心配しているだろう。気を取りなおして会館へ戻《もど》り小用をすましてから駈け足で階段を昇った。 「サッカーって、点が入らなくて退屈じゃない?」 「そこがいいんだよ」  志野田の趣味はサッカー。身上書にそう書いてあった。会社の同好会で今でも走っているらしい。 「ゴールを上と左右にもう三十センチくらい広げたらいいんじゃないかしら」  二人は楽しそうに話している。 「外国のプロ選手なんか、ボールを蹴《け》っているときのほうが、ただ走るときより速いって言うけど、本当にそんなことあるんですか」  啓一郎もサッカーの話題に加わった。話しながら、頭の半分で、  ——女の靴は何色だったろう。ストッキングはどうかな——  麻美によく似た女のうしろ姿を考えた。スーツと髪型しか見ていない。横顔が白く見えたが、顔立ちまでは見えなかった。  ——麻美は蘇方《すおう》色のスーツを買い、黒のブラウスとあわせたいと言っていたが——  もしそうなら靴も靴下も黒系統だろう。ハンドバッグだって黒だろう。麻美なら、きっとそうする。さっきは見ていたようでなにも見ていなかったらしい。 「よくそう言いますね。でも、やっぱりただ全力疾走するほうが速いんじゃないですか。サッカーの場合は、瞬間的に全速力で走るのはせいぜい三十メートルぐらいだし、フィールドではたいてい百メートルの記録をとるわけでしょう。そのへんの差が出て、ボールを蹴って走るときのほうが速く感じられる。そんなことはあるかもしれませんけど……。ボールを蹴りながら百メートルを走ったら、十秒ってことはないですよ、どんなに速い選手でも」  技術者らしく志野田は厳密な分析をする。 「お腹《なか》いっぱい」  保子は肉を一きれ残してナイフとフォークを並べた。志野田のほうは脂身《あぶらみ》の多いサーロインを、よどみなく口に運ぶ。チョコレート・ケーキにもちゃんとつきあう。なかなかの健啖家《けんたんか》だ。体力がなければ、よいサラリーマンにはなれない。コーヒーを飲み干してディナーが終わった。 「保子たちはどうするんだ?」 「お兄ちゃんは?」 「俺《おれ》はちょっと用がある。失礼するわ」  会館の玄関を出たところで、 「志野田さん、私、人と会う約束がありますので……」 「あ、そうなんですか。おいそがしいときにすみません。ご馳走様《ちそうさま》でした」 「いえ、たいした用じゃないんです。ただの野暮用……。また遊びに来てくださいね」 「はあ」  志野田は、ひどく申し訳なさそうな顔をしている。 「じゃあ、よろしく」  背を向けて有楽町のほうへ急いだ。用があるわけではない。二人だけにしてやるのが礼儀だろう。志野田と一緒では、啓一郎のほうも少し気づまりだ。それに……もうひとつ、気がかりなこともある。  ——麻美のマンションへ行ってみようか——  会うためではない。窓に灯がついているかどうか、それをたしかめるために……。だが、まだ九時前。麻美が家に帰っている可能性はとぼしい。  麻美はたしか週末の金曜日から京都へ行くと言っていた。つまり明日からである。出張の前日は、たいていいそがしいものだ。夜の九時は、まだマンションに帰っている時刻ではない。そうとわかりながらも広尾まで行ってみたかった。  窓を見あげる。あかりがついている。ドアをノックする。 「あら、突然どうして。おあがりになる?」  そんな情況を想像してみたくなる。  道を変えて地下鉄の日比谷駅へ向かった。広尾に行くのはやさしい。考えるより先に小銭を出してキップを買っていた。  ——いそがしい夜のはずなのに——  さっき見たのが麻美だとしたら、出張を明日にひかえたいそがしい夜に、彼女は男と会っていることになる。啓一郎が「今週会いたい」と告げたとき、麻美の答えは「無理みたい。来週にして」だった。先約があれば仕方がないけれど、すっきりとしないところもある。  ——やきもちかな——  啓一郎自身、どう考えてみても嫉妬深《しつとぶか》いほうではないけれど、今、胸の中にくすぶっているのは、その感情としか言いようがない。  男だって結構嫉妬深い。漢字に女へんがついているからといって当てにはならない。事と次第によっては女よりよほど嫉妬が激しい。世間を動かしているのは嫉妬の感情だ、という言葉もある。会社でも、個人の嫉妬から始まるトラブルはけっして少なくない。大義名分をかざしているけれど、その実、根元はただのやきもちだったりする。  ——クールにやりたいね——  いつもそう思って来たのだが、今夜は不意をつかれてしまった。  広尾駅で降り、麻美のマンションまで歩いた。裏通りに入って窓を見あげた。  両側の窓は明るい。だが、麻美の部屋は、案の定、暗い。わかりきったことをたしかめるために、わざわざここまで来たのが馬鹿らしい。  同じ道を戻って大通りまで来ると、道を挟んで、駅の出入口を見おろす二階に喫茶店があるのを見つけた。 「コーヒーでも飲むか」  みずからそう言い聞かせたが、コーヒーはさっき飲んだばかり。これは�張りこみ�以外のなにものでもない。ウエートレスに、 「なんにしましょう」  と尋ねられ、 「えーと、紅茶にしよう。レモン・ティー」  と答えた。  音楽は�ドウ・ザ・レゲエ�。しばらくはレゲエの騒がしいリズムが続いた。地下鉄の出入口はほとんど途切れめもなく人の群れを吐くが、蘇方《すおう》色のスーツは現われない。一時間あまり待って啓一郎は喫茶店の席を立った。  ——タクシーで帰って来たかもしれない——  もう一度麻美のマンションの近くまで行ってみたが、窓は相変らず暗い。  ——女性がこんな時間まで仕事をしているだろうか——  雑誌記者という職種を考えれば充分にありうる。だが、時間の経過は、むしろ麻美が男に会って遊んでいるほうへと傾く。ここ数カ月、いつも煮えきらない態度だった理由も説明がつく。  ——本当に親しい男がいるんなら、俺を部屋にあげたりはしない——  乳房のいたいけな感触は今でも掌《てのひら》に残っている。あそこまで許しておきながら、もう一人の男と仲よく夜をすごすとは……考えにくい。薫《かおる》ならともかく、麻美は普通の女なのだから。 「普通の女ね」  ずいぶん意味の曖昧《あいまい》な言葉ではないか。どこからどこまでが普通なんだ? 複数の男を天秤《てんびん》にかけるくらい、だれでもがやっているだろう。�普通�の範疇《はんちゆう》だろう。啓一郎と体を交えなかったのが、麻美のけじめだったのかもしれない。  麻美の部屋で「今日はいけないの」と、けわしい声で拒否され、運わるく体調のわるい日に当たったのだと解釈したけれど……あれも疑えば疑えることだろう。  麻美は�今日は�の部分に力をこめて告げていた。すぐに体調のことを考えたが、女もある年齢を越えれば、言葉遣いもたくみになる。「今日はいけないの」という台詞《せりふ》は、なにが、なぜ、どういけないのか、なにも語っていない。�今日は�に力がこもっていたと思うのは、いわば啓一郎の側の勝手な判断でしかない。  ——あれだけの器量なんだから——  ほかの男が黙っているはずもない。啓一郎のほうこそが、香港《ホンコン》でたまたま知りあい、あとから割りこんだ……と、そんな構図が見えて来る。そう考えてみれば、すべて辻《つじ》つまがあう。  まだふられたわけではない。何人かの候補者の中の一人……。その�何人か�が、二なのか、三なのか四なのか、当面の問題はそのへんにある。  有栖川《ありすがわ》公園は門をとざしていた。花水木《はなみずき》が満開になり、夜目にも白い花を枝いっぱいにのせている。住宅街を歩きまわり、もう一度未練を承知で麻美のマンションの下まで行ってみた。  まだ帰らない。  大通りに出て車を止めた。  ——何度同じことをやれば気がすむんだ——  しかし、今夜は麻美が男といる姿を見てしまって……。特別の夜なんだ。�かとれあ�へ行くくらいいいではないか。 「四谷《よつや》三丁目へ」  と告げた。  十一時だというのに�かとれあ�には客の姿がない。ママの姿もない。バーテンダーが退屈そうに週刊誌を読んでいた。 「あ、こんばんは。ママ、ちょっと出てます」  無口な男も、このごろは啓一郎の顔を見ると、ママの行方を言うようになった。 「すぐに戻る?」 「はい。お客さんを送って行って」  道では見なかった。どこかのバーへでも遊びに行っているのだろう。  ここでもまた啓一郎はしばらく待たなければいけなかった。占い師にでも見立ててもらったら、わるい日取りなのかもしれない。水割りを二はい飲み、もう帰ろうとしたとき、薫が戻って来た。 「ごめんなさい」  甲高く叫んでからカウンターに目を向け、 「いよいようちは駄目《だめ》ね」 「何組来た?」 「中さんを入れてネ……あのね、四組」  指を四本立てた。 「なんで駄目なんだ?」  はじめの頃《ころ》はもう少し客が来ていたような気がする。客商売のうまい人ではないが、顔立ちはわるくない。男好きがする。酒場というところは、ママが見られる程度の容姿なら、そこそこに席が埋まるものではないのか。 「うち勘定が高いんですって」  それは言えるかもしれない。このへんの店にしては少し高い。酒飲みは思いのほか勘定にこまかいものだ。安いほうへ安いほうへと流れて行く。  勘定と言われてもっと気がかりなのは、そのときそのときで値段がちがうらしいことだ。どうもそんな気がする。  当初は啓一郎のほうの勘ちがいかと思った。その都度飲む量も飲む酒もちがうし、おつまみをたくさん取るときも、まるで取らないときもある。だから、そうはっきりとわからなかったが、長い目で見ると、やはりおかしい。ママの懐《ふところ》ぐあいで勘定をつけているようなところがある。  啓一郎は自分だけ特別なのだ、と思った。つまり薫との関係の深さによって勘定が変る、そう思って黙認していたが、どの客も同じとなると、これは評判のいいはずがない。しかも最近はだんだん高くなる。客が少ないから、その分を取り戻そうとしているみたいに、来た客から高くとる。  薫については、ほかにもっと頭を使わなければいけない問題があるものだから�かとれあ�の経営にまで考えが及ばなかったが、そんな請求書を出していたら、客が逃げ出すにきまっている。「なんで駄目なんだ?」と問うことさえ無意味である。 「ねえ、どこかへ連れてってよ。十二時になったら閉めるから」 「うーん」 「ね、行こう。あ、これいいでしょ。銀座に集金に行って見つけたの」  カウンターの下から洋服箱を取り出して蓋《ふた》を開けた。 「今、はやっているのか、この色」  箱の中から現われたドレスを見て啓一郎が尋ねた。  赤紫のワンピース。デザインは、さっき麻美らしい女が着ていた衣裳《いしよう》とまるでちがうが、色はよく似ている。薫は体の前に当てて肩から垂らした。 「そうでもないけど、春らしい色でしょ」  胸もとにブランド名を記した紙のシールがついている。安い衣裳ではあるまい。 「これ、着てくるから、待ってて」  化粧室へ駈けこんで行った。 「お客、少ないの?」  残りの水割りを飲みながらバーテンダーに話しかけた。 「そうですね」  次の台詞が続くかと思ったが、それでおしまい。おしゃべりなバーテンダーも閉口するが、客の心がどこにむいているのか、まるで関心がないようでは落第だろう。そんな男だから律儀《りちぎ》に�かとれあ�に勤めているのかもしれない。 「どう?」  化粧室のドアがあいて、新しい衣裳の薫が現われた。ベルトのない、ほとんど筒のようなデザイン。ワンピースそれ自体のシルエットに、時折、中の体の曲線が加わって揺れる。細身の薫によく似合っている。着る物のセンスはわるくない。華やかな色合いが、家の近くで見た花蘇方《はなずおう》にそっくりだと思った。 「店、閉めましょ。お願いするわね。えーと、忘れ物ないかしら。お待たせ」  啓一郎の腕にすがりついてドアの外へ押し出す。 「行きたいお店があるのよ」 「今日はいい加減に帰りたい。明日の仕事もあるし」 「冷たいんだからあ。たまに来たのにイ」 「うん……」 「うちに帰る途中。ゲイ・バー」 「ゲイ・バー?」 「へんな感じじゃないわよ。ただゲイの人がやっているってだけ。トンちゃんてコで、よくお客さんを連れて来てくれるのよ」  もう一度薫を抱いてみたい。そのゲイ・バーにちょっと立ち寄って、それから薫のマンションに行く……。そんなコースが浮かぶ。 「歩いて行けるのか」 「うん。近すぎて車はいやがるでしょ」  ほんの四、五分の距離だった。  路地を抜け、靖国通《やすくにどお》りに出る少し手前のビル。らせん状の階段を降りた地下に�カトル�があった。二坪ほどの狭い店。だが、客は二組も来ている。 「いらっしゃい。あらーン、ママ、今日はどうしたの? いい男と来ちゃって」  先客に詰めてもらって席を作った。 「こちら、中座さん」 「よろしく。このごろ顔見せないと思ったら、こんないい男とできてたのね。やけるわ。私にもいい男いないかしら」  ポンポンとお愛想が飛び出す。 �カトル�にはトンちゃんのほかに、もう二人ゲイらしい男がいるが、女装をしているわけではない。さりとて男の服装とも少しちがう。  ビールが出る。ボトルが出る。おつまみが出る。フルーツが出る。 「さ、これで落ち着いたわ」  女の口調と、男の口調を適度に使い分けて話す。 「さあ、合唱よ」  ビールがグラスに注《つ》がれたところでトンちゃんが声をかけると、ほかの席についている二人も立ちあがり合唱が始まった。 「今日もお酒が飲めるのは、中座さんのおかげです。中座さんよ、ありがとう。中座さんよ、ありがとう」  これは戦争中の歌だろう。啓一郎はほとんど知らないが、たしか「兵隊さんよ、ありがとう。兵隊さんよ、ありがとう」と、くり返す歌だった。ほかの客も一緒に歌う。これが歓迎のセレモニイだった。  サービスのよさでは、ホステスはとてもゲイにはかなわない。ポケットからタバコを出したとたんに、パッと目の前にライターの火がある。 「カトルって、なんだ?」 「四のことでしょ。四《よ》ツ谷《や》の四丁目にあるから」  と薫《かおる》が説明したが、トンちゃんが横から、 「嘘《うそ》よオ。なんせ地下の倉庫だったから、やぶ蚊が多いの。開店前に、まず蚊を取らないと駄目なの。ああ、かゆい、バタバタバタ」  掌《てのひら》で椅子《いす》の下をあおぐまねをする。 「四月四日は、なんの日か、ママは知ってるよな」  顔をトンちゃんのほうへ向けて言った。まぎらわしいが�ママ�と呼ぶのが、この手の店のルールだろう。 「知ってるわよ。私たちの記念日ですもん」 「どうして?」  と薫が聞く。 「三月三日が女の子の日。五月五日が男の子の日。中をとって、四月四日がゲイの日」 「あ、ほんと。きまっているの。カレンダーに書いてある?」  と薫は真顔で言う。 「今度うちでカレンダー作るときには旗日にしておくわ」  話が途切れると、 「これ、いいでしょ」  薫が服をなでるような仕ぐさで言う。 「いいわよオ。ママはセンスがいいんだから。女にしておくのがもったいないくらい。年を取ると、みんな着るものでカバーするのよね」  八分のお世辞に二分の毒舌、ゲイ・バーの会話は、ほとんどこのパターンだ。中座に対しては、 「いい男ね」  と、おだてあげながら、 「女ったらし」  にらむような視線が飛んでくる。膝《ひざ》をつねるときもある。男の指先だから、これは少し痛い。  それなりに楽しい雰囲気だが、長居は無用だ。三十分ほどいて、席を立つ。歌に送られて�カトル�を出た。 「今日もこんなに飲めたのは、中座さんのおかげです。中座さんよ、ありがとう。中座さんよ、ありがとう」  調子のいい歌だ。ぬけぬけとしていて腹を立てる気にもなれない。安い勘定ではなかった。  靖国通《やすくにどお》りを薫のマンションのほうへ向かって歩いた。  ——あと一度くらい——  禁煙を企てたときに似ている。あと一本、あと一本がいつまでも続く。そうつぶやきながら自分自身を疑っている。どうせ実行できないだろうと思っている部分がある。そんなことでは、予想通り実行はむつかしい。  ——この一箱が終わったら禁煙しよう——  そんななまくらな覚悟ではけっして成功しないらしい。箱の中にまだ十二、三本残っている。それでも�今からやめる�そのくらいの克己心がなければ無理なんだ。チャンスが目の前にあっても、それを無視できるようでなければいけない。だから……薫との関係を本当に絶つつもりなら、今、ここでタクシーを止めて帰るべきなのだ。  そうとわかっていながら、ずるずると薫の部屋へ続く階段を踏んでしまった。  ——今夜が本当の最後——  これもすでに何度か心に誓った台詞《せりふ》だ。 「どうぞ」  ふり返った薫のまなざしが、すでにベッドの表情を示している。  ——この女も、抱かれるのが好きなんだ——  光が闇《やみ》を裂くように感じた。あれほどの喜びならば、それを望まないはずもない。ならば満たしてやろうじゃないか。  うしろ手でドアの錠をまわした。靴を脱ぎ、部屋にあがり背後から羽がいじめにした。薫はそのまま体の力を抜く。上体が滑り落ち、ワンピースが上に引かれ、足があらわになる。腰に手を当て、もう一度立たせて服を脱がせた。つい先日も絨毯《じゆうたん》の上で抱いた。体が密着してベッドより抱きやすい。 「土曜日に来てよ、毎週」  薫は脱がされながらつぶやく。 「今週は予定がある」 「じゃあ来週。第二と第四土曜日。せっかく借りたんだからあ」 「考えておくよ」  愛撫《あいぶ》が胸に届く。薫の体は、もうまともな会話を拒否するほどに熟し始めている。きっと骨がやわらかいのだろう。猫のようにしなやかに抱かれてしまう。そして内奥《ないおう》が幾重にも微妙なうごめきをくり返す。それぞれがみんなちがった動きでありながら、一つのうねりを描く歯車のように、次から次へと微細な部分が圧迫し、のがれ、熱く触れてくる。 「落ちちゃう」  啓一郎も声にあわせて落下した。  そのままの姿勢で首を傾けると、たった今脱がせた赤紫のドレスが椅子《いす》にかかり、枝に這《は》う花蘇方《はなずおう》のように見えた。 角川文庫『花の図鑑(上)』平成11年8月25日初版発行